虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

学習が気がかりな子たちのレッスンから

2015-04-23 21:51:50 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

今日は普通級に在籍しているけれど、

学力に気がかりなところのある小学1年生の子たちのレッスンでした。

 

教室に着くなり、「工作がしたい!」と言い合っていた子どもたち。

何が作りたいのかたずねると、スライムとか、ドールハウスなんて意見が出ていま

したが、しまいに「プラネタリウム」で意見がまとまりました。

 

どんなふうに作りたいのかの話しあいで、

自分の誕生日の星座を作って映したいと★ちゃんが言い、

他の子らもそれに賛成しました。

星の図鑑を見ながら、紙コップに星座になるように穴をあけて、

セロファンを貼りました。

 

冬の大三角です。

 

プラネタリウムは、部屋を暗くして、テーブルの裏で。

 

はと座とうさぎ座を作ったそうです。

 

みんなプラネタリウムが成功してすっかりうれしくなった様子で、

次はそれぞれ自分の好きなものを作りたいと言いました。

 

☆ちゃんは自動販売機。

◆ちゃんは、腕が飛び出すしかけのロボット。★ちゃんは電子レンジ。

●ちゃんはお金入れを作りました。

 

腕が飛び出すしかけのロボットは、「バネがないから飛びださない」と言うので、

モールや針金でバネを作る方法を教えて作ったのですが、

即席で作ったばねの威力はイマイチでした~(ロボットというより、

ロボットの腕部分だけを製作していました)。

◆ちゃんにするともっとポーンと飛び出すくらいにしたかったようなのです。

そこで、輪ゴムの力で飛ぶようにすると、しっかり飛び出すようになって

大喜びしていました。

 

どの子も物作りを通して、自分の伝えたいことを言葉で表現したり、

目標を定めて最後まで物事に取り組むことが上手になってきました。

 

このグループの1年生たちは、

教える上で少していねいにサポートする必要はあるものの

実際の学力は学年以上のものが身についてきてはいます。

この日も最レベ問題集1年生(奨学社)の総合実力テストをしたところ、

どの子もしっかり解けていました。

この1年で急速に知力が伸びてきたのです。

 

ただ、そのようにペーパー上のテストは良い成績を取れるようになったとはいえ、

それぞれの子が、ひとりひとり別の困り感を抱えてもいて、

今後もていねいなサポートを必要としているのも感じました。

 

特に気をつけているのは、「教わったことならきちんとできるけれど、

初めて何かに取り組む時にその年齢の子なら当然わかっているだろうと思われる

暗黙の了解がわからなかったり、直観的にわかるはずのことができなかったりする」

という点です。

 

そのため、目新しい課題を前にすると、

今にも泣きだしそうにおろおろする子、何をしなくてはならないかということも

忘れて落ち着かなくなる子、トンデモな推理をしてお友だちに笑われる子、

どこから持ってきたのかわからないような答えを次々並べる子などが続出するのです。

 

「だいたい、こうだろう」と当たりをつけることが苦手なようです。

また、そうした体験の不足も気になります。

 

「だいたい、こうだろう」と当たりをつける体験の不足といえば、

先日もこんな気になる場面に遭遇しました。

 

小学3年生の知的障がいの女の子、◎ちゃんのレッスンでの出来事です。

(◎ちゃんは、今回の記事のグループではありません)

わたしは◎ちゃんが、できないことやわからないことにぶつかった時

どのような反応を取るのか知りたいと思っていました。

 

ちょっと考えてみて、「わからない」と言うのかな?

しばらく考えこんで、「わからない」と言うのかな?

適当な答えでもいいから、「こうかな?」「ああかな?」と言うのかな?

イライラして怒りながら「わからない」と言うのかな?

お母さんに教えてもらおうとするのかな?

教えてもらうとしたら、どこがどんな風にわからないのか指摘できるかな?

ショックを受けるのかな?

けっこう強くて、教えてもらいさえすれば、再チャレンジしようとするのかな?

わたしに「先生、教えて」とたずねてくるのかな?

 

そうした「わからない!」という事態に◎ちゃんがどのように対応するのか

把握しておきたかったのです。

 

ところが、困ったことに、いつまでたっても、◎ちゃんが「わからない」に

自分なりにどう対処するのか把握できないのです。

◎ちゃんが、「わからない」ことに遭遇しないわけではありません。

それこそ、見るもの触れるものわからないことだらけではあるのです。

でも、どうしてわたしが◎ちゃんの対処法を把握できないのかというと、

◎ちゃんが、「わからない」ことを、自分で「わからないな~」と感じとるよりも前に、

◎ちゃんのお母さんが、「~しなさいよ」「~は?」「~して!」と

次にすることを教えてしまうからなのです。

◎ちゃんは、「お母さんの言葉」というスイッチで動いているかのように、

反射的には何かするけれど、自主的に何かする姿はありません。

でも、遊びの場面では、あれこれ思いついて好きなように振舞っています。

 

◎ちゃんのお母さんはとてもていねいに子育てをしておられる方で、

そのおかげで、就学した後も、2や3という数を認識することすら難しくて、

認知の歪みをたくさん持っていた◎ちゃんが、

今ではかけ算やわり算や国語の文章問題まで扱えるようになってきています。

ですから、これまでの子育てでは、◎ちゃんのお母さんの働きかけは

けっして間違っていなかったのだと思います。

 

でも、今、◎ちゃんはずいぶん考える力がついてきていますから、そろそろ、

「自分の頭で考えてみて、やってみて、結果を見て、その良し悪しについて判断を下す」

という体験が必要なのかもしれません。

そうした自分でしてみた体験の積み重ねから、

目新しい課題にチャレンジする時も、「こうじゃないかな?」と当たりをつけてみる

こともできはじめるはずです。

 

そんな話を◎ちゃんのお母さんに伝えて、

◎ちゃんに教える言葉を控えていただく約束をしてから、

わたしは◎ちゃんとゲームで遊んだり、勉強したりしました。

 

ゲームは『キティーちゃんのモノポリー』です。

◎ちゃんは、青いカートの絵があって、「もう一かいふる」と書いてあるマスに

止まりました。

わたしは、「◎ちゃんはどうするのかな?」と思いながら黙って見ていました。

◎ちゃんは、「こうしなさい」と指示をもらえないので、

一瞬、ボーッとしたまま過ごしていたのですが、

ひらめいたように、「も、う、いっ、か、い、ふ、る」とマスの字を読んで、

また、ボーッとしていました。が、こちらが何も言わないのに気づくと、

「あぁ、あぁ、サイコロをふることかな?もういっかい?」と言って、

サイコロではなくルーレットで遊んでいたのですが、そこには気にかけず、

ルーレットを回しました。

「◎ちゃん、よく気づいたね。ちゃんと字を読んで、どういう意味かなって考えたら、

どうするかわかるね」と言うと、ニコニコしながら、コマを進めていました。

 

また、算数の学習では、

「午前8時から 午前11時までは(  )時間」とある問題で、

何も言わずにいると、「ご、ぜ、ん~」と問いを読んだ後で、指示を待つように

首をかしげていました。

そこでもわたしが、、「◎ちゃんはどうするのかな?」と思いながら

黙って見ていると、◎ちゃんはリラックスした様子で、問題のすぐ上にある

時間の帯を指しながら、「この8?これが8時?」とたずねました。

「そう、よくわかったね。わからない時は、近くにある図を見れば

わかる時があるね。8にしるしをつけておこう」と言うと、

8に丸をして、縦線を入れてから、またボーッとしていました。

が、それでもわたしが黙っていると、思い出したように問題を見て、

11にもしるしを入れました。

それ以上は難しかったようなので、8と11の間に色をつけてあげると、

それだけで了解した様子で、3(時間)と書き込みました。

 

◎ちゃんのお母さんは、教える前に◎ちゃんが、自力でどこまで考えることができて、

必要なサポートが何なのか具体的に見極める大切さを実感なさいました。

いくらなんでも、本人が「わからない」と感じる体験もできないほど

教えてしまっては、できることとできないことの境界が見えなくなってしまいますから。

◎ちゃんのお母さんの話では、◎ちゃんが通っている支援級の先生や他の大人たちも

1から10まで先取りして◎ちゃんに教え、それを繰り返させて

定着させることだけを大切にしているそうなのです。

 

◎ちゃんはワーキングメモリーが弱い子なのですが、

そうした記憶力の弱さは必ずしも生得的なものだけが原因ではなくて、

自分で覚えておかなくても、ちょっと、ボーッとしていれば、次にすることを

指示してもらえるという習慣によるものもありそうでした。

というのも、◎ちゃんは好きな「ウノ」などの

ゲームは、必要なことをちゃんと覚えていて、けっこう手ごわいという一面があるのです。

 

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話を今回のグループレッスンの子たちに戻しますね。

ひとりの女の子はいったん理解するとかなり高い能力を発揮する上、

字も絵もしっかりしていて、利発な印象を受ける子なのです。

でも、非常に易しい事柄でも、やったことがないことには

想像力や思考力が働きにくいようで、不安に囚われておろおろしてしまう

姿があります。

こうした神経過敏で怖がりな子に対して、

「自分でしなさい」「自分で考えなさい」とつっぱねるのは

酷な気もします。

一方で、自分でどのように対処するのか、どこまで手助けするのが妥当か……という

ことを考えてもみないで、毎回、本人の求めるままにサポートしていると、

教えてもらうまで自分で考えない、想像してみないという習慣もつきがちです。

 

なら、どうすればいいのか……というと、

機械的に指示を与えたり、教える作業に入るのではなくて、

「どんなふうに対処するかな?」と自分から助けを求めてくるまでは

一歩引いて待ってみることが大事だと思います。失敗した時も、

「誰でも失敗するし、失敗をおそれずやってみるのは勇気がある証拠!」と

話してきかせるといいかもしれません。


自閉っ子の学習支援  できることを土台にして、できることの幅を広げていくこと 2

2015-04-22 20:34:39 | 初めてお越しの方

自閉っ子の学習支援  できることを土台にして、できることの幅を広げていくこと 1

の続きです。

 

筆圧や運筆の様子や文章題の意味をイメージする力の弱さから考えると、

Aくんの算数学習は、数字を書く練習や易しい計算練習が主になると思われます。

Aくんは「目で見えていることだけが全て」といったところがあり、

文章題のワークを進めようとするとたちまち壁にぶつかるはずです。

でも、そうしたイメージする力の弱さがあるからこそ、できるだけ早い時期から、

数字を書く練習や基礎計算の訓練と同時に、

算数の文章題に書かれている内容を目で見て確認する

体験を積んでおいてあげたいと考えています。

 

Aくんはデュプロブロックの動物たちを基礎盤にはめていって、

「動物園」や「水族館」と命名する遊びをよくしています。

放っておくと、毎回同じように人形をはめたらおしまい、となってしまうのですが、

本人がある程度、自分の遊びに満足したところで、

そうして作ったブロック作品を算数の文章題に使ったところ、

Aくんの態度に少しずつ変化が起こっています。

 

「ブロック作品を算数の文章題に使う」というのは、

Aくんが置いた3頭のキリンを見ながら、

「キリンが3頭いました。後から2頭きました。全部で何頭になりましたか。」とか

「遊び場に象が5頭いました。2頭はお家に帰りました。何頭になりましたか。」

といった問題を出すのです。

 

注意が必要なのは、子どもがブロックで遊んでいるところに、

無理に割り込んでこうした算数の問いを投げないということです。

遊びがつまらないものになるし、自由な表現活動が妨げられます。

 

Aくんの場合、関われるものや理解できるものが限定されるため

やむえず、Aくんの遊びを算数の活動につなげています。

そうした極端な場合を除いて、安易に子どもの活動を

大人がいじって味付けしてはいけないと考えています。

Aくんに算数の問題を出す時も、遊びの流れを中断しないよう折り合いをみて、

Aくんに「算数の文章題を勉強するよ」と確認を取ってから

問題を出しています。

 

デュプロの人形を3頭置いて、

「象が3頭いました。後から2頭きました。ぜんぶで何頭になりましたか」といった

問題を出すと、Aくんは目の前の人形を数えて、「3!」と答えます。

問われた問題に答えようという意欲が出てきただけでも

少し前に比べると進歩なのですが、Aくんには、言葉からイメージして問いを

理解する力が足りないことがわかります。

また、数が変化することを、動かない画面だけで察するのは難しいとも思われます。

言葉がどのような変化を表現しているのか

わかるまで、プリントのように動かないイラストで説明しても

意味もわからず丸暗記することにつながるでしょう。

とにかく、「3から2増える」という変化のイメージを

何度も何度も耳で聞きながら目で確認する作業を積み重ねてあげる必要を感じています。

 

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写真は自閉症の年長になるBくんのレッスンの様子です。

Bくんは自分で何かをイメージするのは難しい子ですが、

目で見た画像を再現するのが上手です。

そのため、「ピッケのつくるえほん」という絵本作りのアプリで遊ぶ際も、

ただ新しいページを開いて創作する時は、「目についたイラストをドラッグさせては、

画面の外に出して消していく」という遊びに終始しがちなのですが、

先に他の子が作った作品を閲覧した後で作品作りをすると、

まるで頭の中に見た画像がずっと残っているかのように

見た絵を再現することができます。

驚くことに、食べ物やキャラクターを拡大させて、45度ほど回転させて、

散らばらせたような再現するのが難しい絵でも

どうやって覚えたのか、拡大や回転させる技術を駆使して再現してしまいます。

そんなBくんには魅力的なたくさんの耳と目で確認できる見本が必要だと感じています。

 

「ピッケのつくるえほん」で遊んだ後は、「工作の時間」と伝えていたところ、

Bくんが、「アプリで作ったお風呂と手を洗うところとベッドのお家が作りたい」

と言いました。

まだ工作というひとつの作業で目的を保つことが難しいBくんのために

人形や家具は切り抜きを使いました。

Bくんの今の課題は、「お風呂を作りたいから、お風呂になりそうな材料を探す」

といった作業をきちんとやることです。

作った後でひとしきり人形たちにシャワーを浴びせて遊んでいました。

 

Bくんとしている絵カード遊びのひとこまです。

語彙を増やすことと絵カードを通して、会話をなりたたせていくためにしていた

活動ですが、最近になって急に遊びがレベルアップしました。

「これは何ですか」「何に使う道具ですか」「何をするものですか」といった質問に

正しい答えを返せるようになってきたのです。

以前は、何をたずねても、絵とは関係のない自分の思いつきを口にしていたので

大きな進歩だと感じています。

 

「1から10までの数を置きます」「11から20までをします」など

自分でどこまでするのか決めて、作業をやり遂げています。

「にじゅうご」といった2ケタの数の読みが正確になってきました。

 


自閉っ子の学習支援  できることを土台にして、できることの幅を広げていくこと 1

2015-04-20 22:11:25 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

自閉症の子たちの中には、

ひとりで黙々とプリントをこなしていく子たちがいる一方で、

椅子に座って指示に従うこと自体が非常に困難な上、

筆圧が弱くて書くことを嫌がる子らがいます。

後者の子らは、かなり知力が高めでも、テストの点が悪かったり、

出した課題をほとんどこなせなかったりするため、

いつまでも非常に低いレベルの学習で停滞していることがあります。

虹色教室でそうした子たちの学習を支援する時は、

机に座ってする学習を支える一方で、

こだわっていることでも遊びでも創作活動でも何でもいいので、

その子が「すでにできること」に注目して、それを土台にして、

できることの幅を広げていくようにしています。

 

この春1年生になったAくんは、

コミュニュケーションを取ろうとしたり質問を投げかけたりしても、

こちらの声かけとは全く関係ない返事を返してくることが多いです。

椅子に座ることをうながすと、少しだけ課題に手をつけたところで、

身体をふにゃふにゃさせたり、席を立ってうろうろしたりしだすので

プリントの進みを期待するのは難しいです。

そのため、文字の学習は、「し」や「の」といった書きやすい字を

写し書きするのがやっとという段階です。

 

支援級や家庭で、そうしたAくんの姿から学習内容を設定し、

Aくんの意欲や課題の理解度に合わせて進めていくとなると、

ひらがなやカタカナをマスターするだけでかなりの時間を要しそうです。

わたしが気にかけているのは、

1年生になったAくんの学習が、テストやプリントの出来不出来といった

目に見える習熟度に頼るあまり

書きとりや10くらいまでの数の確認に終始してしまうことです。

Aくんの能力をきちんと伸ばしていくには、

もっと別の「できること」に注目していく必要があると感じています。

 

筆圧や椅子に座って姿勢を保つことや他者の指示に従う力の問題のために、

プリントでの文字学習は停滞しているAくんですが、

虹色教室では、この半年ほどで、他の活動を通して、文字に対する親しみが

ずいぶん増してもいるのです。

 

活動のひとつは『ピッケのつくるえほん』というi-patのアプリです。

イラストを貼ったり、文章を打ち込んだりして絵本を作って遊んでいます。

初めのうち、Aくんは好きな乗り物のイラストをドラッグさせたり、

連結した電車のイラストを作るので精一杯でしたが、

回を重ねるうちに、イラストに吹き出しをつけて文字を打ち込んだり、

自分で表紙にタイトルを入れるようになってきました。

打ちこまれる言葉は、「すいぞくかんにいくバスがきたよ」とか「あそぼ」といった

絵を見ながらAくんがつぶやいていた言葉から、

次第に話の流れを感じさせる言葉に変化しつつあります。

絵本の絵にしても、目についた好きなイラストを

貼って仕上げていた段階から、背景に海を貼って、たくさんの魚を泳がせ、

船を浮かべて、「たくさん魚がいるよ」と吹き出しを入れるといった高度なものに

変わりつつあります。

この絵本を通した文字学習では、Aくんといっしょに絵本を眺めながら

できるだけ長い文章を打ち込めるようになることや接続詞や形容詞の使い方に

慣れることを大切にしています。

文字を打ち込むよううながされて入れるのではなく、Aくん自ら、

積極的に文字を打ち込もうとする姿や表現活動を心から楽しんでいる姿に、

今後の可能性を感じています。

 

 

もうひとつの活動は、『絵本の読み聞かせ』です。

教室でAくんに最初に読み聞かせたのは『しんかんくん いえにくる』という絵本です。

この絵本を通した遊びは、(自閉っ子のレッスンではありませんが、)

劇遊びブームという記事で書いています。

最初、Aくんは読み聞かせる話についてくるのは難しいようでした。

しんかんくんが電車くんの上に乗って、「重いよー」というシーンと

しんかんくんが街で暴れて、「おすしがこぼれちゃったよ」というシーンだけを

繰り返し見たがって、

読み聞かせを進めようとすると、すぐにこのページに戻って、

「重いよー」とか「おすしがこぼれちゃったよー」と言っては笑っていました。

絵本の読み聞かせを粘土遊びや工作や劇遊びやブロック制作と絡めて続けるうちに、

Aくんはストーリーを追って最後まで絵本を楽しめるようになり、

自分で絵本を読むようにもなりました。

好きな絵本は、11ぴきのねこのシリーズや乗り物が出てくる話や

14ひきのねずみたちのシリーズです。

 

絵本の読み聞かせをする際に、「どうしてねこたちは逃げているのかな?」

「あれ?おかあさんねずみは何をしているの?」「次はどうなるのかな?」といった

質問をすると、絵本の絵も見ずに適当な答えをつぶやいていたAくんが、

いつの間にか、問いに応じた返事をするようになってきました。

こうした読み聞かせの活動が、国語の文章読解につながるように工夫しています。

 

Aくんはとても筆圧が弱くて、まっすぐ線を引いたり、止まったり、

曲がったりするところに注意を向けて文字を書くのは難しいです。

不器用さがあって手指をコントロールするのが困難ということもあるのですが、

文字を書きたくなくていやいややっているから上達しないという面もあります。

一方、不器用な点では変わりないのですが、

ロケットや飛行機など好きなものを作る工作には意欲的に取り組むようになってきて、

道具の扱いも少しずつ進歩しています。

好きな活動を通して巧緻性を高めて、文字を書く力にもつなげたいと思っています。

 

途中ですが次回に続きます。

 


今の時代は大人も子どもも生きるのが難しい? 4

2015-04-18 22:40:10 | 日々思うこと 雑感

入園、入学の時期を迎えて、こんなコメントをいただきました。

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母親になって6年。
気づけば自分の考えを言語化することが少なくなっていました。
先生の記事を読んで伝えたいと思うことはあっても、
公の場なら尚更出来なかった私ですが、
長男の入学、次男の入園を機に、言葉にすることで自分の考えを整理して、
見つめ直せたらなと思っています。子どもためにも。


4月、長男が小学校に入学しました。
5日間ほど不安定な様子で、原因不明の嘔吐と過食を繰り返し、
いつもの笑顔が消えました。とにかく不安だったのだと思います。

最初でこそ、子どもの心に添うことを心がけ、心配したものの、
5日目に私の頭の中に浮かんだ言葉は「うちの子に限って」でした。

あんなに問題なく、はつらつとした様子で卒園を迎えたのに何で? 
ほかの子はそんなことないよ? 
私だって頑張っているつもりなのに、どうしてあなたは弱いの?

さすがにこれらの言葉を口に出すことはありませんでしたが、
でも最終的には「嫌なことからずっと逃げればいい」
「不登校にでも何でもなればいい」と最悪な暴言を
長男に向かって吐いていました。


>子育ては、「すべてを自分の力でコントロールしたいという現実にはありえない考え方がはびこりやすい場です。

本当にそうだと思います。
親の心が病んでいたままでは、子どもは親の苦しみを取り除こうと
自らが心の病に罹ってしまうと痛感しています。
入学式前、次男の入園も重なりバタバタしていて、
私の殺気のようなもの、不安定さが伝わったのも一因かと。



>「子ども」の心のままで、心の病を引き起こすような世界観のもとで子育てをしていると、目に見える安心感や数値上の上昇を確認することを求めます。

私自身、思春期の課題を越えきれていないことを認識し、
学童期以降なおさら、
親が数値だけにとらわれないよう細心の注意をはらわなければ、
子どもの笑顔も可能性を壊してしまうと思いました。

その後長男は、一緒に通学する友達もできて、
言葉と笑顔が帰ってきました。
私が「お母さんがあなたにとって良かれと思ってやっていたことの中で、
嫌だったこともたくさんあっただろうね、ごめんね」
というと、何で分かるの?と笑っていました。

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コメントををくださった方は、

普段とても柔軟で子どもの気持ちに添った子育てをしておられる方ですし、

原因不明の嘔吐と過食を繰り返したという長男くんは知力も創造力も社会性も高めの

快活な男の子です。

そんなふうに外からは理想を絵に描いたような親子であっても、

子どもを育ている最中は、ちょっとしたきっかけで

親の心の奥深くに沈めていたパンドラの箱を開けてしまうような事態になることが

度々あるものです。


また自分が吐いてしまった暴言に、当の親が一番驚いて、

傷ついてしまう場面もたくさんあるはずです。

それについて、良いとか悪いとか、

子どもにこういうことを言ったら、こんな悪い結果が待っているとか、

もっと辛抱が必要だとか、親はこうあるべきとか、

判断したり、評価したり、罪悪感に浸ったりしてもしょうがないところがあります。

 

我慢や注意を他に逸らすことで、いくら一時期、表面的によい関係を作ったところで、

子どもと親は心の深い部分も共有しながら暮らしているし、

何よりわが子と歩む道のりは長いのですから。

 

それより、子どもによって長い眠りからさめた自分の一面に光を当てて、

自分自身の多種多様なアイデンティティーの存在に気づき、

真の自己に近づくために影の自分を統合していくことが大切なのかもしれません。

 

話が脱線しますが、ずいぶん前に、

『出逢い』という詩を書いたことがあります。

この詩は、娘とわたしについて書いたものでもあります。

 

学生時代を通して、親とも友だちとも、ぶつからずに仲良くやりすごすことを

良しとして生きてきた自分の内面にあるものを剥がしていくような

自分のもろさに直面させられるような

わが子との出逢いの体験。

それについて言葉にしておきたかったのです。

稚拙な詩ですが、よかったら読んでくださいね。

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『出逢い』

誰が予感したでしょう。

出逢いが乱暴に剥がす

かさぶたの下に

ちぢこまる幼児の姿を

 

誰が見たでしょう。

影のはなつ光の中で

巨大な影となる自分の姿を

 

わたしがあなたであなたがわたしだと

気付きもせずに

 

反転し続ける愛で傷つけあう わたしたち

いさかいの火花はいつか

ひとりひとりは

すばらしいのだと またたく

キラキラ星となれ

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先ほど、子育て中、大きく自分が揺らぐような時には、

「自分自身の多種多様なアイデンティティーの存在に気づき、

真の自己に近づくために影の自分を統合していくことが大切なのかも」という話を書きました。

そうした話題は、以前、『英雄の旅』という著書について書いた

次の記事の中でも書いています。興味のある方は読んでくださいね。

 

子育ての迷いや悩みから抜け出すためのあれこれ 17

子育ての迷いや悩みから抜け出すためのあれこれ 18

子育ての迷いや悩みから抜け出すためのあれこれ 19

子育ての迷いや悩みから抜け出すためのあれこれ 20

子育ての迷いや悩みから抜け出すためのあれこれ 21

子育ての迷いや悩みから抜け出すためのあれこれ 22

子育ての迷いや悩みから抜け出すためのあれこれ 23

子育ての迷いや悩みから抜け出すためのあれこれ 24

 

子育て中の親同様、子どもは成長していく中で、

不安で立ちすくんだり、葛藤や苦悩を抱えたりしながら、

自分の中にいる多様なアイデンティティに気づいて、それを統合していきます。

 

『大人が立ちどまらなければ』の小柳晴生先生の言葉を借りると、

「人の心が、八百万の神々までも内包する小宇宙である」ことに

気づいていくことでもあるのでしょう。

この言葉は、『大人が立ちどまらなければ』の

「千と千尋の神隠し」の映画をカウンセラーから読み解いた章にあったものです。

とても興味深い話だったので、簡単に紹介させてくださいね。

 

 映画史上の記録に残るほど高い人気をおさめた「千と千尋の神隠し」。

千尋という10歳の普通の女の子が、さまざまな困難にぶつかって

「生きる力」を見つける物語です。

今の子は、欲しいものがすぐに手に入るため精神的にひ弱だと嘆く大人たちに

受けそうなストーリーにも見えますが、

著者の小柳先生によると、この映画は、生きる難しさを説く教訓話という

薄っぺらなものではないそうです。

 

「千と千尋の神隠し」は、引っ越しの場面から始まります。

家族の誰も、新しい生活に期待を抱いていないような雰囲気があります。

父親が途中で道を間違え、奇妙な門にたどりついた家族は、

廃墟のような街並みに足を踏み入れます。

そこにある料理店で勝手に料理をむさぼり食った両親は、豚に変えら、

千尋はひとりで不思議な世界へ迷い込むこととなります。

 

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この導入は、

親にいやいやカウンセリングにつれてこられた子どもを思い起こさせます。

そこで出会った「ハク」から、油屋の一番下にあるボイラー室に行くように

いわれますが、千尋は怖くて階段を下りることができません。

ところが、半ば朽ちていた階段が壊れて一気に駆け下ります。

これは深い内面の世界に直面させられることを意味しています。

自分の内面を見るのはとても怖いことです。

不思議の世界でのおどろおどろしい体験は、すべて千尋の内面で起こったことであり、

登場人物はすべて千尋の一部なのです。

       『大人が立ちどまらなければ』(小柳晴生著/生活人新書)

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小柳先生による登場人物たちの解説です。


自分の名前を忘れた川の神様の「ハク」は、

幼い頃に自分を失った千尋を表しているようですし、

役割を演技し続ける油屋の従業員たちは、なぜしなければならないまま勉強を

してきた千尋のようです。

御しがたいほどの欲望を持ち、食べても食べても満たされない「カオナシ」も、

身体は大きいのに歩くこともままならない「坊」も、

利にさとい「湯婆婆」も、千尋の悩みや葛藤を生み出す心の中の住人です。

地下深くには傷ついた心を癒してくれる薬湯を作り続ける「釜爺」がいて、

小さくて甘えん坊だけど力持ちで「心のエネルギー」を燃やし続ける「ススワタリ」も

います。

口は悪いけど何かと助けてくれるリン、さりげなくかばってくれる「オシラサマ」、

毒を吐きだすのに役立つ「ニガダンゴ」など、

困った場面を乗り切る知恵もエネルギーも千尋の中にあったのです。


「千尋は不思議の世界の体験の前と後で、何が変わり何を手に入れたのでしょうか」。

心のどこかで、そうした内面世界の変容を見抜く知恵を持っていると、

子どもを育てる上でも自分を生きる上でも、

気持ちが和らぎ、未来が明るいものとなるかもしれません。

 

それでは、小柳先生が読み解いておられる千尋が異界で変わり、手に入れたものに

ついて少し言葉を変えて紹介します。

 

不思議の世界で職を得ようとする千尋に、湯婆婆は、

「そんなひょろひょろに何ができる。見るからにグズで、甘ったれで、泣き虫で、

頭の悪い小娘に仕事などあるものか」という言葉を浴びせます。

これは湯婆婆の口を借りているけれど、千尋自身の自己イメージです。

千尋は、不思議な世界でさまざまな仲間に助けられ、

彼らの形を借りていろいろな自分と出会い、カオナシとの格闘では自己と対決し、

オシラサマの世話で自分が肯定され、

ハクを助けることで否定的な自己という呪いを解き放ち、

夜なべして「髪留め」を編み、多面的な自分を統合していきます。


そうした内なる体験を経て、

千尋は今までの「グズで、甘ったれ」という自己イメージを脱して、

自分の中に「自分を守る力や知恵」という感覚を取り戻していきます。

 


今の時代は大人も子どもも生きるのが難しい? 3

2015-04-18 08:44:43 | 日々思うこと 雑感

生活を便利で快適にしてくれる機械や膨大な情報に囲まれながら、

どの価値観を頼りにしたらよいのか、

寄る辺ない不安な心地で生きなくてはならない現代。

 

『大人が立ちどまらなければ』の著者の小柳晴生先生は、

そうした時代を生きていく家族の新しい役割として「どう生きるか考える機能」が

重要になるとおっしゃっています。

何に価値をおき、どんな生活様式を選びとっていくのか考える「哲学する機能」と

いっていいものです。

 

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家庭に哲学する機能がなければ、膨大な選択肢を前にして立ちすくむか、

外に求めるしかないのです。外の世界には「これが生きる指針である」と確固たる

自信に満ちた言葉に事欠きません。

しかし、これを無批判に取り入れることは、言説に自分を売り渡したのであって、

けっして哲学を手に入れたことにはなりません。

思索は、外的に立ち止まり、内的に深く沈滞することでしか生まれません。

そのためには家庭が安定して立ち止まれる空間であることが求められます。

内的な世界とつきあっている時間は、外からは何もしていないので

無為や無駄に見えるかもしれません。(略)

 

模索の結果、家庭が別々の生き方を見つけ、それぞれ違った道を歩むかもしれません。

もはや家族が同じ価値を共有し、一丸となって生きるということはあり得ないのです。

違った価値観や生き方を束ねておくには、家族はいっそう大きな哲学を必要とします。

これからの時代を生きる力は、豊富な知識や優秀な成績を収める学力ではなく、

自分と深くつきあえる「哲学する力」ではないでしょうか。


           『大人が立ちどまらなければ』(小柳晴生著/生活人新書)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 虹色教室は教室というよりむしろ家庭の色が濃い場なので、

小柳先生が新しい家族の役割として語っておられることの一部を

担うことが多々あります。

新しいきょうだいができてお母さんやお父さんの愛情を独占することが

できなくなった時、新入園、新入学、お引っ越しなど、新しい生活になじめるのか

心と身体が不安と緊張でいっぱいいっぱいになっている時、

周囲の友だちとうまくかかわれない時期、たくさんのことに手を出し過ぎて

疲弊しだした時、反抗期がなかった子が精神的な変化を遂げようとする時、

子どもたちは外から見ると幼くなったり乱暴になったり意欲が停滞していたりする

ように見えます。

内的な世界に深く潜っていって、遊びの世界で悪を演じたり、

タブーを犯すことを繰り返したり、感覚遊びにふけったり、冒険的なことをしたり、

甘えたり、弱さを露呈したり、強がったり、ユーモアの世界に浸ったり、

子ども同士で団結して大人に反抗してみたり、自分の限界まで何かをやってみたりします。

(親しくしている遊びのアトリエのブログをいつも読ませていただいているのですが、

あちらの教室も子どもが内的な世界とつきあう時間を大切にしてあげているんだなと

感じます)

 

子どもが内的に深く沈滞する時は、

見守る大人をイライラさせたり不安にさせたりするものですから、

経験からわかるプロセスやそこにある意味や価値と出口までの距離をぼんやり示すのが

教室の仕事のひとつでもあります。

 

そこにある意味や価値というのは、

親の心をかき乱すような状況も、子どもがより多く自由や知恵を獲得していくため、

自己イメージを書き変え、より自分らしく変容していくプロセスだろうという見立てです。

 

次回に続きます。

 


5月24日ピッケWSにお越し頂く方の発表です。

2015-04-18 08:20:23 | 連絡事項

 

おはようございます。

ヘンテコな気候で目の具合が良くない事務Kです。

 

春期カタルとかいうのらしいです(:‐∀・)

 

 

さて、本題に入りますが…先日募集をさせて頂きました『ピッケのつくるえほん』絵本作りワークショップにお越し頂く方々の発表です。

 

今回も沢山のご応募を頂戴し有難う御座いました。

出来るだけご応募頂いた方…特に初めての方を中心にご参加頂けるように致しました。


下記にH.Nのある方(敬称略)は、この記事のコメント欄に【H.N】・【保護者氏名】・【連絡先(携帯)】・【メールアドレス】の計4点をお書きの上、投稿下さいますようお願い致します。H.Nは申込時のものでお願いします。変更されたい場合はその旨も一緒にお知らせ下さい。

 

非公開にて拝見致しまして、翌日より送信を開始致します。

では、皆様、ご協力下さいますようにお願い致します。



【5月24日(日) AM10:30~PM0:30】

ぐみ子ママ・夏と春・カムミカ

ほたる・しんやママ・サクサク

はな・りこななママ・おかめ

こたこと・花と感情

 

【5月24日(日) PM2:00~4:00】

ゆう・ゆーころ・みのりん太

little gavroche・ゆいママ・なお

まさと母・ちゅみママ・ハニカムママ



以上となります。

事務Kのメールアドレス(@yahoo.co.jp)よりご連絡致しますので、ドメインにより受信拒否をされている方はご注意下さいませ。

 

上記、内容以外でもご不明な点やご質問が御座いましたら、コメント欄または事務Kのメールアドレスにご連絡頂ければ後日お返事をさせて頂きます。内容によってはお時間を頂戴することが御座います。



それでは、皆様…Good-bye(^.^)/~~~


価値観を固定しない教育 と未完成な親 の価値 

2015-04-15 20:17:25 | 教育論 読者の方からのQ&A

算数オリンピックに参加することによる弊害はないのでしょうか の記事に、

(記事でコメントを取り上げたお返事としてなのですが)

次のようなコメントをいただきました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

草創期の学校の卒業生から世界的に活躍する人が出るのは、

価値観を固定しない教育をされてるからなのですね。

以前のエントリーにおける「未完成な親」や、

大人が手を出さない「未完成な教育システムの塾」が子供を伸ばす要因なのでしょうか。

逆に進学塾は、完成した教育でなければ子供が合格しませんから、

長期に通うことは不適なのかもしれませんね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

いただいたコメントにある

「価値観を固定しない教育」や「未完成な親」というのものが、

(言葉の解釈が重要ではあるけれど)

わたしも子どもの知力と精神力と個性的な才能の伸びと大きく関わってくる

んじゃないかと感じています。

コメントにある「子どもの近くにいる大人に必要な隙ってどんなもの?」とは、

リンク先の記事のことです。

 

この「未完成」という言葉に、???とクエスチョンマークがいっぱい

頭の中に浮かんだ方もおられると思います。

 

そこで、最近、教室で子どもと接した出来事を取り上げて、

「価値観を固定しないこと」や「未完成」であることの大切さについて

言葉にしてみたいと考えているのですが……。

 

その前に親の接し方の未完成さや、子どもの可動領域に余白があることが、

子どもの心と人生にもたらす価値について綴った

『自己肯定感は褒めると上がる?』という記事を紹介させてください。

 (この記事の中で、未熟と未完成という言葉は異なる意味で使っています)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ブログで自己肯定感の話を書くと、

「(自己肯定感を上げるには)もっと褒めるといいんでしょうか?」

という質問をいただくことが多々あります。

そのたびに、「褒める」というのとはちょっとちがうなぁ……と思いつつも

ひとことで、「これこれこういうことしたら上がるものですよ」とアドバイスできる

ものでもなく、もやもやした思いをくすぶらせることがあります。

 

そこで、わたしが考える「自己肯定感」が上がると思われる接し方と、

「自己肯定感」が下がると思われる接し方について、

言葉にして整理しておきたくなりました。

 

特に、子どもの自己肯定感を上げようと思って褒めているのに、

「褒める」行為自体が、子どもの自己肯定感を下げているように見えるケースについて

言語化できるといいな、と思っています。

 

3歳になりたての子らというのは、

「こういうことがしたいんだ。自分でやってやるんだ!」と

自分の動きを自分でコントロールしたい気持ちが持続しはじめるものの、

「何をどんなふうにしたいのか」ということは後回しというか、

本人にするとどうでもいいことだったりします。

 

周囲にすると、一生懸命しているところ、口出しするのも何だけど、

「ちょっと紙の使い方もったいないんじゃない?」

「新聞紙使って工作してごらん」なんてあれこれ口出ししたくなる時です。

 

大人からちょっとあれこれ言われても、

それまで自分や自分のすることに自信が育ってきている子は、

大人のアドバイスもそこそこ聞きいれつつ、

「大丈夫だよ。もうこれで、こうちゃく出来上がりだよ。」と

自分のしてきたことを否定しないでいいような切り返しで決着するものです。

お姉ちゃんから手厳しい追及を受けてもへっちゃらで、

ぼくが作っていたのは「○○!」と、おそらく、できあがってものを見て

後付けでひらめいた名前を自信満々に言います。

 

子どもの自己肯定感というのは、自分で自由にできる余白というか、

実際に動く場面でも、想像の世界においても、自分で動いて失敗してもOKという

可動領域がしっかり確保されているかどうかに大きく関わっているように思うのです。

 

大人が子どもの領域へしょっちゅう侵入していたり、

逆に「子ども」という存在を特別視したりお客様扱いしたりして祭り上げて、

子どもの周りに地に足をつけている大人が存在しなくなったりすることも、

子どもが確かな自分を感じられなくなる、

つまり自分に自信を持てなくなる原因のひとつとなるのではないでしょうか。

 

大人のアドバイスに過剰反応し過ぎて激しいかんしゃくに発展してしまう子も、

即座に大人の指示に従って、「自分のそれまでしていたこともこれからしようと

していたこと」も帳消しにしてしまう子も、

「ママして~」とすること自体放棄してしまう子も、ちょっとしたことをきっかけに

自信や自分への信頼感が揺らぎやすい子なのかもしれません。

 

子どもはそうした揺らぎのなかで成長していきますから、

こういう反応をするから、自己肯定感が低いとか高いとか、

気にかける必要はないのでしょう。

でも、大人の関わり方の加減次第で、日常の行為のひとつひとつが、

子どもを勇気づけ、自己肯定感を高めていくきっかけになることも事実だと思っています。

 

それは子どものすることなすことを「褒める」というのとは、異なります。

幼い子たちのすることは、たいていでたらめでめちゃくちゃですから、

大人が「褒めなきゃ、褒めなきゃ」と思っていると、

心にないような嘘をつくことになるか、子どもが一番自信満々でやった部分は無視して、

大人が言葉でコントロールしてそれなりの形にした部分だけ、

「すごい、すごい」と褒めることになりかねません。

 

つまり、

「自己肯定感を上げるために褒めなきゃ、褒めなきゃ」と思って褒めているうちに、

褒め言葉が、大人の期待通りに子どもを動かすための

見えないニンジンになってしまうことが非常に多いのです。

 

「子どもの自己肯定感を高めるため」という名目で、

子どもに何かできるようにさせようとあせっている時、

実は、周囲の人の評価を大人である自分が欲していて、

「もっと褒めてもらいたい」「もっと認めてもらいたい」という飢餓感が

その動機に取って変わらないか、自分の心を見はっておくことが大切です。

 

以前、「親自身が『子ども』から『大人』に変化できていないと、数値で子どもを

管理したがるのでは?」という辛口の記事を書いたことがあります。

子どもの自己肯定感の高低は、その記事で取りあげた内容と密接に関わっているように

捉えています。

 

↓「親自身が『子ども』から『大人』に変化できていないと、

数値で子どもを管理したがるのでは?」

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『10代の子をもつ親が知っておきたいこと』水島広子/紀伊国屋書店

(この著書でクロニンジャーの「七因子モデル」を知りました。)という著書の中で、

「あれっ?」と感じる興味深い話を目にしました。

思春期の子を持つ親御さん向けの本ですが、幼児を育てている方にとっても

とても大切な話だと感じたので、簡単に要約して紹介しますね。

思春期の心の病である拒食症の治療の中心は、

対人関係療法で言うところの「役割の変化」になるそうです。

思春期の課題を消化して、「子どものやり方」から、「大人のやり方」に変化を

遂げることが病の治癒につながるそうです。

「子どものやり方」というのは、「何でも自分の努力で解決する」というものです。

一方、「大人のやり方」は、「必要であれば他人の力を借りよう」と

考えられることです。

成績が上位になれない、という場合も、一人でさらに努力して自分を追い込んでいくの

ではなく、いろいろな人生があることを知って、

自分の存在を社会の中で相対化できるようになることです。

「何でも自分の努力で解決する、のが『子どものやり方』だなんておかしい……

大人になっていくということは、他人に頼らず、自分で責任を持っていろんなことを

こなせるようになることではないの?」と感じた方がいらっしゃるかもしれません。

世の中は、矛盾だらけで無秩序なところです。

「がんばったから、幸せになる」とか「努力に比例して成功する」という単純なルールで

成り立っているわけではないですよね。

すべての課題を自分の責任でこなそうとする人は、

「秩序」によって安定するタイプが多いので、

「努力すれば成績が得られる」「親切にすればすかれる」というようなルールで世の中が

動いていないと不安になります。

そうしたタイプの人が、自分の秩序を乱す出来事に直面すると、パニックを起します。

そのパニックへの対処のひとつの形が拒食症という病なのだそうです。

「体重」は、食べなければやせるという体重計の数字にきちんと表れるので、

達成感と安心感が得られます。

思春期には、「自分の限界を知るということ」という重要な課題があります。

努力すれば何でもできるようになるわけではない。

がんばればみんなが褒めてくれるわけではない。

運命や環境をすべて自分の力でコントロールできるわけではないと認めること。

その上で、自分にできる範囲で全力をつくせるようになることが、

大人になるための思春期の課題です。

「人間は努力すれば何でもできるし、そもそも人間は学力だけで評価される」

という狭い考え方は「子ども」としての役割から生じるものです。

大人になるということは、

「人間にはいろいろな限界があり、その中で支えあっていくことが人生」という

大人としての役割で考えることができるようになることなのですね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『10代の子をもつ親が知っておきたいこと』で、

拒食症をはじめとする思春期の心の病についての話を目にするうち、

ちょっと怖くなったことがありました。

子育て中の親の中には、思春期の課題を超えそびれて、

まだ「長い思春期」の最中にいる方も多いです。

機能不全の家庭に育った私も、ひとりめの娘の子育てでは、

大人になれていない心のまま良かれと思って子どもの自尊心を蝕むようなことを

平気でしていました。

「子ども」の心のままで、心の病を引き起こすような世界観のもとで

子育てをしていると、目に見える安心感や数値上の上昇を確認することを求めます。

「努力すれば成績が得られる」「親切にすれば好かれる」というような

安心できる秩序が守られている世界をお金を払ってでも得ようとします。

それが教育産業が作り上げた、人工的な架空の世界であったとしても、

それを全世界のように錯覚した状態で子育てをしたいと願います。

子育ては、「すべてを自分の力でコントロールしたいという」、

現実にはありえない考え方がはびこりやすい場です。

なぜなら「自分で努力はしたくないけれど、コントロールして数値の確認をする

作業だけをしていたい」という、本当は現実の世界で叶えられてはいけない、

病特有の執拗な願いを簡単に実現してしまうからです。

おまけに、教育産業の多くが、そうした親の考えを正当化して、さらに煽りがちです。

教育産業が、儲かることを最優先に考えるのは、

ビジネスだからしょうがない部分もあります。

利用する側が、親にとっての最優先課題は、

ビジネスのそれと重ならない場合が多いことを自覚することが大切だと思います。

 

子どもの幸不幸は、どんな能力の親のもとに生まれたかよりも、

ちゃんと思春期の自分の課題を済ませて、「大人」になっている親に育てられているか

どうかで決まるように感じています。

子どもの未来も、「大人」に育てられているかどうかで、

大きく変わってくるのではないでしょうか?

 

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↑ 先の記事は自己肯定感について説明するために書いたものではありません。

わたしは子どもを外の評価の体系で測っては、数値で確認しながら育てていくことが、

自己肯定感が下がる原因と直にイコールで結ばれると考えているわけでもありません。

けれども、そうした育て方に代表される大人が、

自分の狭い世界観で自分が見たいものを子どもに投げかけて、

子どものある一面には関心をしめし、別の一面は(自分の価値観と合わないからという

理由で)無視するような育て方が、

自己肯定感を育む土壌の貧しさにつながるんじゃないかな、とは思っています。

 

ですから、毎日、子どもをシャワーをあびせるごとく褒めて育てたところで、

親が子どものなかに見たいものを褒め、認めたくないものを無視して褒めているとすれば、

そうした褒め言葉は親の価値観の押しつけでしかなく、

どこかで子どもを否定し阻害している行為ともつながりやすいと感じています。

 

価値観を固定しない教育 と未完成な親 の価値 3

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アメンボとカメに元気をもらいました♪

2015-04-15 20:07:36 | 日々思うこと 雑感

何ということはない過去記事ですが、

最近書いている話題とつながっているので再アップすることにしました。

 

知人に頼まれた用事で大阪天満宮駅まで行ったついでに、天満宮にお参りしてきました。

お宮に向かう小さな橋の上から覗き込むと、えさでもくれると思ったのか

カメたちがワラワラ寄ってきました。思わず、カメラのシャッターを押しました。

 

沼の上をアメンボがすいすい泳いでいたんですが、それがあんまり面白くて可愛くて、

教室の子たちに見せてあげたいな~という思いがうずうず……。

 

よっぽど近くのコンビニで容器になりそうなものを買ってきて

捕獲して帰ろうかと思ったのですが、

「沼に近付かないでください」という張り紙を無視してまで

勝手なことをするわけにもいかず、後ろ髪を引かれつつ帰宅しました。

 

アメンボって、実物を目にすると、本当に不思議で魅力的な生き物なのです。

ホームセンターにいる熱帯魚や爬虫類なんかと比べ物にならないほど

子どもの心をそそるようなところがあるんですよ。

水の表面を針金のような足で忍者のように移動していくんですから。

時折、信じられないほどの猛スピードで滑って行きます。

きっと、幼稚園児や小学生といっしょにそれを眺めていたとしたら、

アメンボがダッシュした瞬間、

テンションが上がりすぎて悲鳴を上げて喜んでいるはずだわ……と感じました。

 

教室で、細い針金を使って、水面に浮かぶアメンボの作り方を教えてあげたいけれど、

本物のアメンボを見たことがない子が多いのでしょうね。

子どもの頃、夢中になって、アメンボを捕まえていたのを懐かしく思い出しました。

 

そんなふうにカメやアメンボを眺めるうちに、妙に元気が湧いてきました。

 

教室をしていると、「こんなものを子どもたちに見せてあげたいな」とか、

「こんな触感を味あわせてあげたいな」とか「この面白さは伝えておきたい」とか

「こんな体験させてあげたいな」ということがいっぱいあるのです。

そのどれもが、わたしが子どもだった頃に、ワクワク心を躍らせて、

胸がいっぱいになったことばかりです。

 

大人になると、普段はそんなことすっかり忘れて生活しているのですが、

図書館の児童書コーナーに足を踏み入れたり、遊歩道を散策したり、

小さな生き物を眺めたりしながら、

「子どもたちにこんな体験をさせてあげたいな」と考えていると、

何十年も前の子ども時代の体験の生々しい感覚や感動が戻ってくることが

よくあります。

子どもの頃、見たり触れたり感じたりした記憶って一生の宝物ですね。

 

今、算数を中心にした教室をしている理由にしても、

簡単な理科実験を子どもたちにさせているのにしても、小学生だったわたしが、

中学入試用の算数の問題を解いた時のわくわくした気持ちとか、

夏休みの自由研究でした理科実験の面白さなんかが、今も心に残っているから

でもあります。

子どもたちに同じ楽しみを体験させてあげたいというおせっかいと

自分自身が、もう一度、それを味わいたいという気持ちが

混在しているんです。

 

そうやって自分が子どもの頃に本当に面白いと感じたことは、

子どもの心にも面白いこととして響く場合が多いです。

 

出かけたついでに、少し前からうちの子らの話題に上っていて気になっていた

『カラスの教科書』という本を買って帰りました。

 

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下の写真は、2歳と3歳の女の子ふたりのレッスンの様子です。

 

スライムを作って遊びました。黄色い色のビー玉を入れて、卵作り。

白身と黄身の感じが面白いです。

 

水を糊の代わりにして、ガラスにあれこれ貼りつけるも

楽しくてたまらなかったようです。

 

算数タイムに、自分の言った数だけアヒルを浮かべて遊びました。

 

このふたりのうち、ひとりの子は『理科の箱』を開けて

あれこれ実験して遊ぶことと、ピタゴラ風のビー玉転がしの遊びが大好きで、

もうひとりの子は、ブロックでお家を作ってごっこ遊びをするのが大好きです。

 

そんなふうに好みが異なるふたりですが、打ち解けて親しくなるにつれて、

それまでは無関心だったり、頑なに「やらない」と言っていたことでも、

相手の子が遊んでいた後には、自分もやってみて、熱心に遊び込んでいました。

 


今の時代は大人も子どもも生きるのが難しい? 2

2015-04-14 20:50:49 | 日々思うこと 雑感

今の時代は大人も子どもも生きるのが難しい? 1

の記事が中途半端なままになっていることを気にかけながら、

ずいぶん日が経ってしまいました。前回の記事を読んで、

「ん?」と腑に落ちない気持ちを抱いた方がいらっしゃるんじゃないかと思います。

 

誰もが経済的な面で何らかの不安感を抱え、

ニュースでは貧困とか生活苦という言葉がクローズアップされることも多い昨今、

「豊かな世界を生きる知恵」とか「豊かさが生きる難しさを生み出している」なんて、

バブル崩壊前の勘違いを引きずっているのでは……という印象を

与えかねない地雷付きの話題なのかもしれません。

 

でも、今の時代、子どもを育てていくには、この話題から決して目を背けるわけには

いかない、というのがわたしの実感です。

 

臨床心理士の小柳晴生先生は、著書の中で、

「歴史上はじめて、物と情報のあふれる『豊かな世界』に足を踏み入れた」わたしたちが、

どのような生きづらさを抱えるようになったのか、書いておられます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「生きるために食べ、食べるために稼ぎ、稼ぐために働く」という疑いようもなく

信じられた価値観が力を失い、

「空腹に腹いっぱい食べた満足感」や「経済的にしばらくしのげる安心感」や

「長年欲しかったものを手に入れた喜び」といった生きる実感が味わいにくくなりました。

着るものがないから服を買うのではなく、タンスいっぱいにあるけれど流行や買い物を

楽しむことが目的となり、飢えを満たすために食べるのではなく、

おいしさや人と楽しい時間を過ごすために食べるようになったのです。


         ※『大人が立ち止まらなければ』小柳晴生著/生活新書 

          の一部を少し短くまとめて紹介しています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

生きる実感が味わいにくくなると、

何が確かなものかわからないことからくる漠とした不安や

絶え間ない物足りなさをもたらします。

 

そうした生きる実感が味わいにくい世界で

生まれ、育っていく子どもたちは、どうなるのでしょう?

 

豊かな世界というのは、たとえ経済的に自分が豊かでなかったとしても、

絶え間ない誘惑や欲望を刺激する情報にさらされ続ける世界です。

つまり何かを手にしても、すぐに新たな欲望にかきたてられて不足感しか残らないし、

何をしようと思っても、すでに誰かがやった後なのを思い知らされて、

気持ちが萎えてしまうのです。

 

そこで、大人たちが、とにかく他の子より先に学習を進めておいて、

他の子より上手にできることを増やしておきさえすれば、

「明るい未来を手にすることができる」「幸せに生きていける」と思って子育てしても、

実際に努力の末、子どもが手にできるのは、

不足感や自分に対する不満足感だけなのかもしれません。

 

生きる実感が希薄なまま、

「この大学に入れさえすれば幸せに生きることができる」

「この職に就くことさえできれば安穏と暮らしていける」と信じて目標に邁進しても、

得た結果に満足し続けることができるのでしょうか。

 

それならどうすれば子どもに生きる実感が味あわせてあげることができるのかというと、

まず、溢れる情報やハイスピードに変化していく世の中に、

大人の心がいっぱいいっぱいになっていることに気づくこと、

現在の世界で、生きる実感を味わうことは本当に難しいんだと

実感することじゃないかと思っています。

立ち止まること、ペースを落とすこと、自分の不安をごまかすために掲げた競争心や

見栄を満たすための目標を手放してみないことには、始まらないのかもしれません。

 

 話は変わって、

上の写真は、大阪城の巨石をどうやって船に積み込んだのか実験するための模型です。

この実験をする際、引き潮から満ち潮に変化していくところを再現するために、

子どもたちが総出で、ペットボトルに水を溜めては注ぐを繰り返しています。

 

この実験を、さまざまな年齢の子らのグループでやりました。

2歳くらいの子(さすがにこの年齢の子は、グループの子ではなく妹、弟さんですが)

から中学生になる子まで、

どんなにやる気なさげにぐだぐだ言ってた子も、何をするのもめんどくさがるような子も、

本当にいきいきと大はしゃぎで水を汲みに行っては注ぐ作業に興じるものですから、

わたしを含め見ている大人はみな、子どものパワーに圧倒されてしまいました。

 

水の重さ、汲みにいく手間、注ぐ時の水の迫力、みんながわいのわいのと夢中になって

やっている感じ、めちゃくちゃややんちゃがしたい気持ち、

「どうなるんだろう」という疑問、「もっともっと」と身体を使いきりたい感じ……と、

どれも生きている実感を感じさせてくれるものなのでしょうか。

 

生きている実感は、こんなにも子どもをパワフルにするものなんだろうか、

と、子どもの頃、団地の自転車置き場の屋根に上ったり、

近くの池にザリガニ釣りに行ったりして、

自分の心や身体が望むことを思いっきりやりきった時の充足感が蘇ってきました。

 


妖怪ウォッチのクレーンゲーム と 手作りクレーンゲーム

2015-04-13 18:53:23 | 工作 ワークショップ

『幼稚園』の付録の妖怪ウォッチのクレーンゲーム。

釣りあげた妖怪の裏に数とじゃんけんのマークがついているので

いろいろなゲームをして遊ぶことができます。

 

ふたりで妖怪を釣りあって、数を比べて勝負するのもいいですね。

 

付録の妖怪ウォッチのクレーンゲームで遊んでいた子らに、

「紙コップに曲がるストローを貼って、ストローの先にモールをつけただけ」

という簡単なクレーンゲームの作り方を教えてあげると、

とても喜んでいました。

付録のクレーンゲームより

自分が作ったストロークレーンの方が面白そうに遊ぶところは、子どもならでは。

ストローのじゃばら部分はさまざまな方向に曲がるので、けっこう遊べますよ。

輪ゴムさえ貼れば、何でも吊る人形になります。

 

テーブルの端に紙コップを貼る(テーブルにテープを貼りたくない方は、

紙の端に貼って、コップ部分をテーブルの外に出してください)と、

吊った人形を入れるコーナーになります。