虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

現在の子育て、幼児教育の盲点 (間違った幼児教育が意欲と考える力が弱い子を量産している)3

2015-09-21 20:57:26 | 教育論 読者の方からのQ&A

現在の子育てや幼児教育の場では、

非常に大切ないくつかの視点が見落されているように感じています。

 

先に紹介した『学びの物語の保育実践』では、

そうした現在の子育ての盲点ともいえる部分が端的に表されています。

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★「子どもにとって意味のある」行動の中に、「発達にとって意味のある」テーマが

潜んでいます。

 

★ 「できるか、できないか」というふうに「大雑把な視点」から見ないで、

「子どもの学び」の視点に立ってみると見えるようになります。

 

★ 社会文化的アプローチにたつと、発達は「意味のある活動への参加」でした。

子どもの行動を、基本的には何か意味あることに「参加しようとする行動」として

とらえ、その参加のレパートリーが増えていくことを学びとしてとらえよう。

(カーの提案)

 

★ 子どもは自分より高い技能を持つ他者とかかわり合うことを通じて、

文化が提供するさまざまな道具(目に見えるモノ的道具だけでなく、言語や思考こそ

「文化的道具」という見方に立っています。

 

★ 子どもとともにあるということは、三分の一は確実なことであり、

三分の二は不確実なことやはじめて出会うものであるという状態で働くことであると、

私たちは理解しています。(マラグッツィの言葉)

             

          『学びの物語の保育実践』 大宮勇雄 ひとなる書房 より引用

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教室では、日々、「子どもにとって意味のある行動」が、いかに

「その子の今の発達にとって意味のある」テーマなのかを実感しています。

また、子どもたちが積極的に社会文化的に意味のある活動に参加しようとし、

大人の適度な手助けを頼りにしながら、自らの考えを深めていくかを目にしています。

 

そうした子どもたちの姿を具体的に伝えたいので、

先日の年少さんたちのレッスン(ひとりだけ姉の年長の子が付き添いの参加しています)の

様子を紹介しますね。

 

 

この日、子どもたちに「今日、どんなことがしてみたい?」とたずねると、

もうすぐ4歳になるAちゃんが「かばんが作りたい」と言い、

他の子らもそれに賛同しました。

そこで、針なしホッチキスを使ってカバン作りをすることにしました。

めいめいが色画用紙を選んで半分に折り、順番に針なしホッチキスで両端を

とめていきました。

その後、カバンにできた針なしホッチキスの穴にひもを通したいか見本を見せながら

たずねると、みないっせいに、「はーい」と手を挙げていました。

 

そこまでは全員、同じように作り進めていたのですが、

ひもを通し出すと、それぞれの子の学び方や取り組み方の違いや

「その子の今」の発達のテーマが見えてきて面白かったです。

 

もうすぐ4歳になるAちゃんはとても自立した子で、

手指を使ってすることは何でも自分でやろうとします。

他の人のしていることを見て技術を模倣するのが上手です。

虹色教室には赤ちゃんの時から来ている子だからか、

環境からあらゆる情報を吸収するのに長けていて、

周囲にいる全ての人のすることから自分に必要な技術を学び取ろうとする

貪欲さがあります。

 

かばん作りをする時、わたしは(年少グループということで)

「丸いわっかを作って、お池にドボン!」と言いながら、玉結びの手本を見せながらも、

まだ玉結びの練習をさせる気はありませんでした。

もう少し易しい『毛糸を針にする方法』は、全員、興味を持っており

4歳前後の子にとって作業が楽しく覚えておくと作る世界が広がる技術なので、

そちらは、「ひもの先にテープを貼って、手と手をお祈りするみたいに

すりすりすり~ってすると、ほらっ、ひもが針になって、かばんが縫えるのよ」と

手本を見せてめいめいが「わたしできる」「わたしもできる。針作れる」と

作るのを見守りました。

 

が、玉結びはわたしが子どもにやってあげる時に、わざとオーバーに実演して

見せたり、結ばずにひもの先をテープで貼っておくだけにとどめました。

 

この日は、Aちゃんの姉で年長のDちゃんが参加していました。

Dちゃんが玉結びをはじめると、Aちゃんは自分も輪を作って、

何とかそれにひもの先を通して玉結びをしようと苦心していました。

感心したのは、そうして上手に結び目ができていたのに、

わたしが「お池にドボン」と言って、DちゃんとAちゃんとは逆方向から

ひもを通したのを目にすると、「先生、これはこっちから入れるの?」と

自分のやり方とは逆の方からひもを通す方法も熱心に学ぼうとしていました。

 

Aちゃんにとって「玉結び」のように自分の最近接領域にある手指を使った技術を

完璧にマスターをすること」と「自分で作り進めること」が

とても重要なことのようでした。

「自分で作り進める」とは、わたしが「次にこういうことをしてください」と

言わないでも、自分から、「かばんのひもがいるから、切らせて」と言ったり、

「ここに貼って作るの」と言ったりするなど、

自分の頭の中でかばんの作り方をシュミレーションして、

次に何をするのか考えることこそ最もAちゃんのやる気が出る活動だったようです。

 

こうしたかばん作りはAちゃんにとって初めての体験でしたが、

初めてすることの作業工程を自分でイメージすることこそ

Aちゃんには大事なことのようです。

そのため、作品の仕上がり自体は、ざっくりと大雑把なところもあるのですが、

先に肩にかけるひもをつけた後で、しばらくしてから閃いた様子で、

手提げの取っ手をふたつつけたのには驚きました。

 

「ショルダー用と手提げ用の両方のひもがついているかばんがあること」と

「手提げのかばんには2本のひもをそれぞれの面に

貼らねばならないこと」を経験的に知っていて、作品に活かすことを思いついたようです。

 

もうすぐ4歳になるBちゃんは、ひも通しの経験があるようで、

ていねいにひとつひとつの穴にひもを通していました。

 

 片側のひもを通し終えてから、もう一方のひもを通す時は

他の子の方法から見よう見まねで、まっすぐひもを通していく

新しい方法で作っていました。

かばんにかざりのスパンコールを貼る時、

一度にたくさんのスパンコールをバラまいて、全体の絵ができあがったところで、

テープを貼り始めました。

スパンコールを選んで貼るという作業にしても、

Aちゃん、Bちゃん、Cちゃんのそれぞれが全く異なる方法で、

自分なりの「ここが大事」に熱中していました。

Aちゃんは、とても小さいハートだけを探しだして、貼っていました。

Cちゃんは、好きなスパンコールをひとつ選び出して、

それを真ん中にひとつ貼って「できあがり」と言いました。

 

Cちゃんのひもの通し方は、ひもがとぎれず一直線につながっていることが

重要だったようです。

一生懸命、ひもを折り返してテープで貼り付けていました。

 

 

途中ですが、次回に続きます。


秋の親子工作講座に来ていただく方の発表です

2015-09-19 20:50:39 | 生徒募集 イベント参加募集

秋の工作講座へのたくさんの応募ありがとうございます。

講座に来ていただく方の発表です。


10月16日(金)  午前10時~12時     ちょびすけさん 

                          にじこさん 

                          あいみママさん

            午後 3時半~5時半  

                           たまごんさん 

                          たまこさん 

                          ぽこたんママさん

                          SHUSHUさん

 

10月19日(月)  午前10時~12時      るま さん

                          ゆいママさん

                          ゆうママ(妹さんのみ)

            

10月21日(水)  午前10時~12時 

                         まさと母 

                         新快速225系

                         みつよさん

            

10月 23日(金)  午前10時~12時 

                          ゆうかママ

                          ぶーままさん


             午後 3時半~5時半 

                                                            ぐみ子ママさん

                           ハニカムママさん

                           タカママさん

                            shukiさん


10月27日 (火)  午前10時~12時 

                           kaoru さん

                           トリケラトプス兄弟さん

                           ぬーぴさん

                          

            

10月28日(水)  午前10時~12時

                           りんごさん

                           

                           ぽんちゃんままさん



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また、新幹線等の予約の加減で早めに詳細を欲しい方は、その旨も

コメント欄にご記載下さいますようお願い致します。



最近の子ども向けアニメのストーリー展開 と 笑いのツボとが気に入らない? 

2015-09-19 08:09:44 | 日々思うこと 雑感

わたしは娘とも息子ともよくしゃべります。

娘とのおしゃべりは、人間関係のことが主なので

相手方のプライバシーの問題もあって記事にできないのが残念ですが、

たくさん話をすることで、娘の生きている世界、世界を眺める視線、葛藤、心の軌跡が

手に取るように伝わってきます。

 

息子とわたしは、お互い直観のアンテナに引っかかったものを言葉にするのが

好きなので、ちょっと気になるものがあると何にでも首を突っ込んで、

食事の間中、しゃべり通していることがあります(行儀が悪いことこの上ないのですが、

わたしは片手にペンを持って、メモを取りながらしゃべっています)。

 

娘との会話も息子との会話も、冗談混じりに思いついたことをポンポン言い合っている

だけなんですが、その背景には常に、

「今、この時代を、この社会で、どう生きるのか」というテーマが透けているように

感じます。

おそらく若いふたりには「これからどう生きていくか、社会とどう関わっていくか」が、

わたしにとっては、「中年期の課題を充実したものにしたい」が、

常に旬の話題だからなんでしょうね。

  

夕食時のこと。

わたしが、「ごくたまにだけど、最近の子ども向けのアニメって

どんなストーリー展開をしているのかなっと思って見ることがあるんだけど、

どうも腑に落ちない……というか、

やたら明るくて安全な世界が描かれているのに、

ちょっと気持ちが暗くなるものが多いのよね。ドラえもんも今風になってたわ。

 

お母さんの子どもの頃のアニメは、子ども向けとは思えないドロドロしたストーリー

設定や残酷なシーンもあったけど、子どもの心の真実には忠実だった気がするのよ。

 

その点、最近のアニメは、

大勢でするポケモンを民主主義モードに固定してゴールまで行っちゃおうって方法に

何だか似てるのよ。

大多数の子の思いを体現しようとしているのに、

たったひとりの子の心の真実も、ちゃんと生きさせてあげないって感じがするのよね。

すべて見たわけじゃないから、どのアニメもそうなのかわからないけど」と言うと、

 

息子が、「何か言えるほど見たわけじゃないけど……」と前置きしてから、

「この間、いくつか見て、同じようなことを感じたよ。

昔のアニメの主人公は、悪いことをするとき、それが社会的に見て悪いことでも、

その子自身にとったら悪くない……というか、つまり、

自分が正しいと信じているものや自分の中の善を真剣に追いかけてるようなところが

あったよね。外に向かって嘘をついている場合も、自分には正直だった。

 

でも、この頃のアニメは、本人が明らかにそれが悪いことだとわかった上で、

ちょっとくらいいいよねっと

周囲に妥協して許してもらおうと甘えながら、悪いことをしているって感じだったな。

笑いの取り方も、誰かがミスしたときやお決まりのルール違反をしてしまったときで、

それを子どもが面白いと感じているのか、

面白いと感じさせられているのかわかんないな。

 

だいたい、子どもがストーリーのどこにワクワクするのかといえば、予定調和が崩れて、

これをしたらダメなんじゃないかな、こんなことしてもいいのかな、

と思うようなことに手を染めざるえないような状況になってさ。

それをきっかけに自由や冒険やスリルを味わったり、

罪悪感や起こしたことの責任を取るために苦しんだりしたあとで、

その子としての心の解決にまで行きつくことじゃないかな?」

 

わたし 「心の解決? そうそう。子ども自身が自分で納得しないと、面白くない

わよね。外の圧力に納得させられるんじゃなくて、自分でする体験で納得したいはず。

それが、アニメの主人公に自分を重ねてするような想像上の体験にしたって」

 

息子 「どこまでも予定調和でいくストーリー展開を見ていて、イラッとするのは、

最終的に解決さえあれば、議論を放棄してもいい、ってスタイルが当たり前になって

いるからかな?自分の内面での議論も含めてだけど。

 

その思考に至るまで、主人公が、いったん間違った考えを抱いたとして、

なぜ間違ったのか、その問題と自分なりに折り合いをつけていくプロセスがなくて、

主人公が一般論や偏見に言いくるめられるようにして、

結果オーライになっているところがいい気がしないんだ」

 

わたし 「子ども向けの短い素朴なアニメにしろ、童話にしろ、

きちんと子どもの心の現実に添ってるものは、子どもが主人公に自分を重ねるうちに、

 自分だけの答えを見つけられるように作られているわ。

そう言えば、押入れの中にお母さんがずっと大事にしている本があったはず……。

ちょっと待ってて。」

 

わたしはそう言って2階から、『おそうじをおぼえたがらないリスのゲルランゲ』

という童話を探し出してくると、

最初の数ページと最後のページを読むように勧めました。

「最後のページのゲルランゲの言葉と行動の変化は、

★(息子)の言う子どもの心の解決をきちんと描いているわよね」と言いながら……。

 

ゲルランゲの話は、わたしが五つか六つの頃に、繰り返し読んでいた童話です。

 

こんな話です。

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むかしブナの木に11ぴきのリスのきょうだいがおばあさんリスといっしょに

すんでいました。

いちばん小さな子リスはゲルランゲ。すこしなまけもので、

たいへんごうじょうでしたが、とても元気で、ひょうきんで、すばしこく、おまけに、

かわいい、ぬけめのない顔つきをしていましたから、だれでも、すきにならずには

いられませんでした。


子リスたちは、夕ごはんの後のおさらのかたづけとそうじをするのがきまりでしたが、

ゲルランゲはおさらをかたづけることは気もちよくしたけれど、

おそうじがすきではありませんでした。

ある日、どうしてもおそうじをおぼえたくなかったゲルランデは、ブナの木のいえを

出ていきます。「ぼく、ごはんなんかいらない。野宿したっていい。オオカミにたべられ

たっていい。でも、ぼく、おそうじはおぼえたくないんや」とへりくつをいいながら。

 

そうして、ゲルランゲはオオカミにたべられそうになったり、キツネやアナグマにあって

こわい目にあったり、フクロウにちえをもらったりしたあとで、

ようやくブナの木に帰ってきます

 

 

<ゲルランデがブナの木にもどってきた場面です>

子リスたちは、おとうとがかえってきたので、とてもうれしくなって、十ぴきみんなで

ゲルランゲのまわりをとびまわりました。

「わかっただろ、ゲルランゲ?」と、にいさんたちは、いいました。

「意地っぱりだと、こういうことになるんだよ」

「だけど、ぼくがどうなったっていうの?」ゲルランゲは、木の枝のはしっこで、

ぶらんぶらんしながらこたえました。

「オオカミは、ぼくをたべなかった。ぼく、ごはんにもありついたし、

野宿もしなかった。ぼく、ひとりぼっちでおどりもしなかったし、それにおそうじを

おぼえてもこなかったよ」

けれども、ゲルランゲは、しんは、気だてのよい子リスでしたし、

おばあさんをよろこばせたいともおもいましたので、この冒険のあと、ともかく、

おそうじをおぼえました。

        『おそうじを おぼえたがらない リスのゲルランゲ』

         J・ロッシュ=マゾン作/山口智子訳 福音館書店

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ゲルランゲがおそうじを覚えた理由は、

大人の言うとおりの恐ろしい体験をして懲りたからではありません。

また、次にも大人の言うことを聞かなかったために怖い目に合うのを

恐れたからでもありません。

自分の考えは子どもっぽくて間違っていて、大人の言うことが正しいんだと

悟ったからでも、自分の言動や性格について反省したからでもありません。

恐ろしい体験をして、言うことを聞かないゲルランゲが優等生のゲルランゲに変わった

わけでもありません。

 

それなら理由は何かというと、

ゲルランゲは、冒険と体験を通して、ゲルランゲという個性のまんま

成長したからなのでしょう。

 

強情っ張りのゲルランゲは強情っ張りの性格のまんま、

おそうじごときで意地を張らなくてもいいほど、

そして家族の深い愛情を理解するほど大人になったのでしょうし、

 

「おばあさんを喜ばせたい」という素直な感情が

ゲルランゲの心の変容の後押しをしたのでしょう。

 

そうしたゲルランゲの姿は、教室で見る子どもたちの姿と重なります。

子どもが本当の意味で成長するのは、その子の悪いところも含めて

しっかりとその子自身の個性で生きたあとだし、

それは待つことと見守ることを含めた愛情という土壌でだけ

成り立つことなのです。

子どもの心は大人が与えたがる道徳教育とは別の筋道を通って

人としての資質を身につけていきますから。

 

息子は、ゲルランゲの童話を読んでから、面白そうに笑ってこんなことを言いました。

 

息子 「ゲルランゲは作家っていうすでに大人になっている人とは別の

ひとつの人格を持った子どもとして活躍しているね。

 

少し話が逸れるけど、

小説が作家の妄想であったとしても、キャラも妄想であっちゃいけない、

空想の世界で作家は主人公になっちゃいけない、って意見をどこかで読んだことが

あるんだ。人間って、100%自分がイメージできるものは、不思議と面白いと

思わないもんだよね。

 

物語のリアリティーは、作者がやりたいことをやるっていう願望充足とは別に

自動的に作りあげられていくところがあるよね。

物語自体の持つ意志のようなものがさ。それに添っているかどうかが、

子どもの心に忠実かどうかに対になっているように思うよ。」

 

わたし  「物語自体が自動的に展開していくって話……同じようなことを、

ゲド戦記の作家のそんな言葉を目にしたことがあるわ。」

 

息子 「へぇ、そうなんだ。ぼくは、物語は、実験に近いような面があると思うんだ。

試してみてはじめて、何かを見つけたり、何かが生まれたり、

次の展開につながったりするような部分があるってことだけど。

 

お母さんが教室の子たちとティッシュ箱でする工作にしても、

一番初めに、自分の思いを完璧にイメージできてしまったら、

作る意味が半減するんじゃない?

なぜ作るのかといえば、そこにある実験的な要素のおかげで、

偶然、新しいものを発見することができるからだよね。

設計図を描くのにしても、

イメージしたものをわざわざ描く理由は、ただ頭の中にあるものを

紙に写しだすためだけじゃなくて、描くうちにイメージした時点では気づいて

いなかったものを発見するからだし、

描くうちに、自分の見え方そのものが変わっていくからじゃない?

 

子ども向けのアニメを作る上で、そうした偶発的に作る過程で起こることを

大事にしないで、

最初に設定したテーマの中で、作り手の主張したいもののために

キャラクターたちを都合よく動かしてしまったら、

子どもの心から遠いものになるんじゃないかな?」

 

 

 


 


現在の子育て、幼児教育の盲点 (間違った幼児教育が意欲と考える力が弱い子を量産している)2

2015-09-18 09:43:00 | 幼児教育の基本

現在の子育て、幼児教育の盲点 (間違った幼児教育が意欲と考える力が弱い子を量産している) 1

の記事後、

5歳のAくんのお母さんからこんな報告をいただきました。

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「(自分より有能な他者である)大人との共同作業によってはじめて人間は発達してくる」

この本は一年半ほど前に繰り返し目を通しました。

とても勉強になって、今でも子どもたちとの関わりの指針になっています。

ですが、ユースホステル後、家でゲームが流行り、Aが将棋やゲームなどを私、

他のだれとでもなく私と遊びたがっていたのに、忙しさのあまり、ついつい姉や兄に

お願いすることが続きました。

姉や兄が教えるとよくわからなくて結局けんかになったり、それではちょっと

難しいからといって別のを教えてあげているのを黙認していました。こういうことが、

忙しさにかまけて、最近、家庭でも積み重なっていたのだと思います。

Aに限らず、子どもたちには、安心して、どっぷりと知力や体力を振り絞る、

子ども発の挑戦をしっかり保障してあげることが大事ですね。

大切な微調整をありがとうございました。

昨日は夜寝る前にA、兄と、腕相撲をしました。有り余るエネルギーを家の中で

出すための苦肉の策です。朝起きてからもAは腕相撲をしたがりました。

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昨日、Aくんと4歳のBくん、Cくんの仲良し3人組のレッスンがありました。

レッスンの前日、Aくんのお母さんからはこんな報告をいただいていました。

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最近Aの工作がぴったりと止まっています。保育園に行くのは楽しいけれど、

本当の意味で楽しいわけではなく、何か自分の求めているものではないようです。

家でも空想の世界で戦いをしたり、絵本を読みふけったり。そういう時期なのかな

とも考えましたが、それだけとも言えないなと感じていました。

Aと二人で定期的にレッスンに伺わせて頂いていたときの、春頃までのAの個の

開放感を感じることが少ないのです。ふと、上の子たちに手を焼いているうちに、

Aだけの時間をしっかり取れていないなと思い至りました。

保育園の行事などでレッスンに間が空いたり、私の仕事が忙しくてお迎えの時間が

遅くなりがちだったり、夏休みが明けて、小学生組の慌ただしい日々が再開し、

兄の日々の生活を支えることに明け暮れていた為に、Aのことをなおざりにしていた

部分があったり、保育園という集団行動に従わざるを得ない場所で、

Aの個が発揮されることが少なかったり。考えられる理由は多々ありますが、

今まさに何か手を打ちたいなと思っているときに、レッスンにいかせて頂けるのは

本当にありがたいです。月に一度、先生のところに二人で伺わせて頂き、Aだけに

向き合うことの出来る時間を通して関係の微調整をさせて頂いたり、

充電をさせていただきたいなと思っています。

明日は保育園で運動会の大事な練習があって迷いましたが、Aのたっての希望があり

(Aも自分にとってとても大事な時間であるということがわかっているのだと思います)

仕事も(これがなかなか忙しいのです)、

運動会の練習も休んでレッスンにいかせてもらおう!と前向きな気持ちになりました。


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 Aくんは3人きょうだいの末っ子くん。

初めのうちはお兄ちゃんお姉ちゃんのレッスンの日に付き添いで教室に来ていました。

Aくんのお母さんは多忙な職業に就いておられるので、末っ子のAくんのために

レッスン日を設けることは覚悟がいることでしたが、つい「ついで」で関わることが多い

Aくんのことを気にかけて、

姉兄とは別日にAくんとレッスンにいらっしゃるようになっていました。

そうしてAくんが『自分だけの(お友だちとはいっしょです)レッスン』に

通ってくるようになると、もりもりと工作をしたり、大きくて立派なブロック作品を

作ったり、感じたことや考えたことをいっぱいおしゃべりしたり……と、

AくんのAくんらしさが日を追って輝いていきました。

夏休み前まで、お家で創造的な活動をエネルギッシュに探究していくAくんの姿を

知らせていただいていました。

 

昨日は久しぶりのレッスン日。教室に着いたAくんは、何だか虫の居所が悪い様子。

わざとテーブルに腰かけてみたり、言ってはいけない言葉を連呼してみたり……。

しまいに、座っているわたしをぐいぐいと力任せに押し始めました。

「Aくん、Aくん。先生の腕をみてごらん。プヨプヨだよ。先生は弱いのよ。

すぐ負けちゃう。そんなにぐいぐい押されたら簡単に倒れちゃうよ」と言いながら、

Aくんの押す力に対抗して必死で押し返していました。

すると、Aくんはさらに力を込めて、うーん、とふんばってきます。

とはいえAくんの押し方には、怒りやイライラを発散する時のような攻撃性は

ありませんでした。

 

「自分の全身全霊の力を振り絞ってみたい」

「ぼくはこんなに強くて力持ちなんだよ。知ってる?」

そんな思いを体現しているような力を出し切りながらこちらが痛くないように

加減した押し方でした。

わたしはAくんに押されながら、そのパワフルさにすっかり感心して、

「Aくん、お相撲大会に出なさいよ。Aくんみたいにどんどん押していく子なら

小学生のお兄ちゃんたちに勝てるはずよ。Aくん、本当に強いねぇ」と言うと、

さっと押していた手を引っ込めて、心底うれしそうに

満面の笑顔をこちらに投げかけてきました。

 

Aくんは、力強さに対する「神聖なあこがれ」とでも表現していいような

特別な思いを抱いている子です。

動物図鑑を見たり、動物のフィギアで遊ぶ時は、どの動物が一番強いかという話題に

夢中になっています。

ブロックで乗り物を作る時は、どんどんサイズを大きくした上で、

強くてかっこよく見えるようにデコレーションをほどこしています。

数遊びをする時は、「無限大」という言葉を好んで使います。

そんなAくんですから、自分自身にみなぎる力がどのくらいのものか、

手ごたえが欲しかったのでしょうし、忙しい日々の中で自分自身の存在を実感する体験が

不足していたのでしょう。

「本当にAくんは強いよ。Aくんが押したら、先生の身体事全部、動いていきそう。

きっと他の大人だって身体ごと動かせるはずよ。

試しにBくんのお母さんを押させてもらったら……?」と言うと、Bくんのお母さんが、

「わたしも弱いのよ~」と演技ががった声で答えたので、みんなで大笑いしました。

 

みなでカードゲームをして遊んだ時、Aくんは参加するには参加していたものの、

自分の番が終わると、ふらふら立ち歩いてゲームの進行に無関心でした。

後から、Aくんがお家で将棋やゲームなどを他の誰とでもなく

お母さんとやりたがっていたことをうかがって、何事もとことんまでエネルギッシュに

やり抜くAくんのことだから、

お母さんの手を借りて自分の力をためておきたかったんじゃないか、

ゲームをする時にもっと自分の力強さを実感できる場面がほしかったんじゃないか、

と思い当たりました。

 

そんなAくんの力強さへのあこがれは、集団教育の場では

注意や叱責に対象であって、そうした思いを抱くAくんに共感し、

それを思う存分使いきれるような場面もないし、それを創造的に表現する機会もないのが

現状です。

Aくんのお母さんが、「そういう時期なのかもしれないけれど、

何だかAの個の開放感が感じられない」と直感していた理由かもしれません。

 

レッスン中、手動で回転させる道具を使ってアイスクリームを作った時のこと。

Aくんは飽きもせずにレバーを回し続けていました。

他の子に順番を変わるちょっとした間もがまんならない様子で、

とにかく回したくって仕方がないようでした。

Aくんの熱心さとパワフルさは、「集団で順番に物事を行う」という場では

欠点でしかないものです。

でも、「その子のかけがえのない強み」としてスポットライトを当てると、

この疲れ知らずのエネルギッシュさが将来のどんな可能性として花開くのか

楽しみでもありました。

 

帰宅途中、Aくんはお友だちのBくんとCくんに、

「猫は屋根に上れると思う?」とか、「夜に光るものって何があると思う?」と

たずねて、壮大な持論を繰り広げていたそうです。

BくんもCくんもAくんの話にすっかり引きこまれた様子で、

自分たちの知恵を総動員して、ああでもないこうでもないと議論し続けていたのだとか。

本気でぐいぐい押しながら手ごたえを確かめていたAくんは、

自分の考えを言葉にしていく時も、言葉で表せる限界、自分で考えられる限界まで

いってみたかったのかもしれません。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


水のかさと単位の変換は、目で確かめても何だか不思議

2015-09-17 19:22:12 | 算数

夏の科学クラブで、水を使ったいろいろな実験を楽しんだ後で、

こんな手作りの教具で、水のかさについて考える時間を持ちました。

 

↑ ちょうど1dL入るサイズに牛乳パックを切ったものです。

 

この中に入る水が1dLと説明してから、

牛乳パックを用意して、1リットルは、この1dLがいくつぶんにあたるか推理。

実際に、切りとった部分を牛乳パックに当てて確かめてみると、ちょうど10段分。

つまり、1Lは、10dLと同じということがわかりました。

 

1、2年生の子らに、

「1リットルは、10デシリットルだったかな?100デシリットルだったかな?

って迷った時は、この入れ物のことを思い出してね。

1リットルの牛乳パックに、この1デシリットルの入れ物の水を100杯も

入れられないものね。溢れちゃうもんね」と言うと、

「無理無理!」「ほんとう!100は絶対違う!」と言って盛り上がっていました。

 

そうして、1リットルは10デシリットルにあたることがわかった後で、

「牛乳パック1本分の1リットルは、1000ミリリットルよね。

ここに書いてあるものね」と箱の底の数字を指して、

「では、1デシリットルは何ミリリットルに当たるのかな?」

と先ほどの入れ物を見せながら質問しました。

 

見るからに小さい……だから、10ミリリットルなんじゃないの?

というのが、最初に子どもたちの心に浮かぶ思いのようです。

でも、いやいや何だかおかしい……

1杯が10ミリリットルなら、10,10,10,10……と重ねて言ったら、

牛乳パックは100ミリリットルということになってしまう。

 

そんなわけで、子どもたちは首をかしげながら、考え込んでいました。

 

そこで、こんな小道具を出してきました。

1本に30ミリリットルまでの目盛りがついた試験管。

この試験管に、水を入れて、1デシリットルの入れ物に移して行くという

作業をしてもらったのです。

すると、30ミリリットル分を3回入れても、まだもう少し入りそうなのです。

 

あとどれだけ入れるといいのかといった問題を考えながら(答えは10ミリリットル)

移し終えると、ちょうど100ミリリットル入りました。

どうしても目で見ると、1デシリットルの入れ物が小さく見えるので、

実際、目の前で見ても、不思議な感じがするのです。

それはその場にいた大人の方々も同じようだったようです。

 

「不思議よね。この中に、試験管で3杯と少し分、つまり100ミリリットルの水が

入るんだから。目で見ていても、間違えそうになる。

水のかさの単位を覚える時は、間違えないように気をつけなくてはね」

そう言うと、子どもたちは心から感動した様子で、

容器になみなみにつがれた水を眺めていました。

 


現在の子育て、幼児教育の盲点 (間違った幼児教育が意欲と考える力が弱い子を量産している)1

2015-09-16 23:21:45 | 幼児教育の基本

ちょっとした取り組み……

ごっこ遊びや物作りや頭脳パズルやなどをしている子に関わっている親御さんに、

あれこれダメ出しをすることがあります。

親御さんは、

「あっすいません、教え過ぎでしょうか?」「しゃべり過ぎですかね」と言って、

言葉だけ控えてとまどっておられることが多いのですが、

言葉の数の問題でもないのです。

過干渉なのがまずい、という時もありますが、過干渉というほどではなく、

口調も穏やかに接しているけれど、そうした関わり方を続けていると、

次第に子どもが集中力や意欲を失っていくように関わり方があるのです。

 

その一方で、子どもに自由にのびのびと活動させているし、

子どもには愛情深く接して、楽しくおしゃべりしたり遊んだりしているけれど、

いつの間にか子どもから物事にしっかり関わる姿勢や考える力を奪ってしまう

関わり方もあるのを感じています。

 

どこがどうよくないと思うのか指摘するのが難しく悩んでいたところ、

久しぶりに『学びの物語の保育実践』(大宮勇雄著)を読み返してみたら、

いかにもわたしが言語化できずにもんもんとしていた部分が、

すっきりと簡潔な言葉でまとめられていました。

強力な助っ人でも現れたような心地で、大宮先生の言葉を借りながら、

わたしの言葉足らずで誤解を生じていた『親御さんの関わり方』の何を問題だと感じ、

どう微調整していけばよいと考えているのかを書いていこうと思います。

 

『学びの物語の保育実践』に、自分の背丈より大きなナタを使って

果物を割るコンゴの1歳前後の赤ちゃんたちの話が取り上げられています。

こうした発達の姿は特別めずらしいものではなく、パプアニューギニアでは、

歩けるようになるまでにナイフと火を安全に使えるようになるし、中央アフリカでは

生後8~10ヶ月から、矢の投げ方や小型の斧の使い方を教えるのだそうです。

 

ここで取り上げられていたのは、赤ちゃんの知られざる高い潜在能力の話ではなくて、

この赤ちゃんたちがどのようにしてナタや火や小刀などを

安全に扱う能力を身に着けたのか、という点です。

 

日本の子どもたちの事情とのちがいは、

赤ちゃんを「注意深く見守っている」大人がいること、なのだそうです。

おそらく探索が可能な6ヶ月過ぎに赤ちゃんが自分からナタに近づこうとし、

その時、大人たちは危ないからと取り上げたりせずに、もっと小ぶりなナタを与えたり、

手を添えたりしながら、注意深くその自発的な活動を援助したのだろう、とのことです。

 

大宮先生は、

「ある年齢段階に達することによってその内部に能力が進展してくるという

「個体発生的発達」だけみれいるのでは発達の真の姿は見えてきません」

「(自分より有能な他者である)大人との共同作業によってはじめて

人間は発達してくる」とおっしゃっています。

といっても、大人が過干渉気味にあれやこれや教えていたら共同作業が成り立つと

いうわけではないし、漠然と見守っていたらよいわけでもありません。

 

まず重要なのは、大宮先生によると、

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「そうした大人の出番は、赤ちゃんの関心や意欲から切り離されたところでは

成立しない」のです。

つまり、自ら「強い関心」と「使いこなそうとする意欲」をもつ赤ちゃんがいるからこそ

大人の援助が成り立つのです。

 

赤ちゃんの「関心」共感を寄せ、その「力強さ」に期待をよせる大人が、

一歩先にある課題…より有能な他者との共同・援助によってはじめて達成できる

「発達の最近接領域」……を見通しながら、

赤ちゃんが活動できる「足場」を広げ高めるように適切に援助することによって、

ナタを扱う能力が獲得されていったのです。

                 (『学びの物語の保育実践』より)

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 紹介した著書は保育について書かれたものですが、指摘されている内容は、

バランスの差こそあれ、どの年齢の子にとっても重要なことです。

わたしは、幼児教育によって弊害がもたらされるのは、

子どもの関心や意欲から切り離された物事を

「できるようにさせよう」「教えよう」という働きかけが多くなる場合だと感じています。

また、子ども本来の関心や意欲に対して、無駄なもの、くだらないもの、

大人が与えたい知識よりもつまらないものとして

非共感的に関わることからも生じるように思います。

 

次回に続きます。

 

 

 


子どもの内面に自ら困難を選んで、 自分に課していこうとする力が宿っているか

2015-09-16 14:28:57 | 日々思うこと 雑感


書きたいことがたくさんあるのですが、十分な書く時間を取れずに過ごしています。

過去記事ですが、ぜひ読んでいただきたい記事です。

保育の時期は卒業……という子の親御さんもぜひ読んでくださいね。


『学びの物語の保育実践』(大宮勇雄著  ひとなる書房)は、

保育と教育の可能性を大きく広げてくれるすばらしい本です。

また家庭でどのように子どもに関わると意欲的で、持続的な自分の力を

100パーセント出しきるような学びの構えを身に付けさせることができるのか

学ぶことができますよ。

子どもに「学ぶ構え」をつけるのには、毎日、一定時間、机に座る習慣をつければ

よいと考える方がいます。

身体が習慣になじんでくると、頭も自然に集中するという理由でしょう。

でも、現実には形だけ作っても頭も心もそわそわして、

心ここにあらずになるのが子どもです。

無理矢理習慣付ければ、適当にする癖がつくか、嫌がるようになるか、

きちんとしたところで「義務を果たす」以上でも以下でもない結果となりがちです。

まず、子どもの内面に自ら困難を選んで、自分に課していこうとするチャレンジ精神を

養っていくことが外から見た目を整える以上に大切なことだと感じています。


『学びの物語の保育実践』にマーガレット・カーによる面白いインタビューが

載っています。

幼稚園・保育園で行っている活動の中には「むずかしいと思う」ことはそれほど多く

あがらなかったとカーは報告しています。

このインタビューによると、23人の子どもたちのうち10人の子どもたちは、

困難な課題は(園以外の)他の場所だけにあるという回答で、

つまり子どもたちのおおよそ半数は、園を、彼らが困難なことに立ち向かい

乗り越える場所としていないことは明らかだったのです。

子どもにとって集団の場には、

挑むに値する「困難な課題」が見当たらない場合があります。

それに、子どもにもみんなの前で恥をかかないようにしようとする知恵はありますから、

失敗するリスクの高いチャレンジは、十分なサポートない場ではやりにくいですよね。

この著書にあった言葉を借りれば、保育者のエネルギーが一斉保育の準備、

計画に注がれる保育、子どもの関心が断ち切られるような保育、

保育者の期待する活動や姿から子どもの「できる・できない」を評価する保育の場には、

子どもが成長するために自ら選びとっていく課題が存在しないし、

あったとしても、それに保育者が気づき、認め、応える態勢が整っていません。

最近では、早期教育の情報や幼児教室の考え方が中途半端に家庭の中にも浸透して、

0歳、1歳児、2歳児が育つ家庭環境までが、大人の期待する活動や姿から

子どもの「できる・できない」を評価するというとんでもないものに変容しつつあります。

 

『学びの物語の保育実践』に次のように書かれています。

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「困難に立ち向かう」姿は、どのようにして生まれてくるのでしょうか。

それがわかれば、試行錯誤や創意工夫をしながら問題解決に粘り強く取り組む子どもを

育てることができるでしょう。

学びの物語の五つの視点は、そうした学びがつながっていくプロセス、

つまり「成長」をとらえるうえでとても有効です。(略)

関心と熱中から、「困難に立ち向かう姿」が生まれてきた、

そういう記録を紹介します。(略)

「関心」は「熱中」をもたらし、「熱中」は「関心」の幅を広げ、その深まりをもたらす。

「関心」と「熱中」が相互に手を携えて発展する中で、子どもはむずかしいことに挑戦し、

誰もやったこともないようなやり方で自分のテーマを表現したくなる。

そして……探求は、……の本質に向かう。


           『学びの物語の保育実践』(大宮勇雄著/ひとなる書房)

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虹色教室で子どもたちと接していると、子どもが何度も何度も、

この関心と熱中から、誰もやったことのないようなやり方で自分のテーマを表現し、

自ら困難を選んで挑戦していく姿を目にします。

私が感じるのは、

こうした学びと成長のプロセスに入っていきやすいか、入っていきにくいかは、

親御さんの価値観と姿勢に大きく左右されるということです。

障害のあるなしとか、知能の高い低いとかはあまり関係ないように思います。

子どもが困難に立ち向かおうとせずにぐずぐずしがちな場合、

親御さんが子どもの関心や熱中よりも、外から子どもに与えられる評価が関わる

課題の方を重要視していることがよくあります。

子どもが自分が何が好きで何が面白いのかもわからないし、気づかないうちに、

次々、するべきことや、喜ぶべき楽しみを与えられているのです。

ベビー向けのサークル活動で楽しそうに振舞うこと、いっしょに参加すること、

絵本を喜んで読んでもらうこと、

他の子のできることは同じように意欲的に取り組むことといった親への過剰な

サービスを赤ちゃんにまで求めてしまいがちなのです。

赤ちゃんは、親へのサービス業をするために生まれてきたわけではありませんよね。

まず、子どもが自分のペースで自分を育てていこうとするのを「待つ」ことが、

子育ての最初の課題です。

子どもが何かに関心を寄せ、ひとつのことに熱中しはじめたとき、

「また、同じことをしている」「ママがしてほしいこれをやってみて」

「~へお出かけしましょう」と忙しく振り回さずに、それに気づいて、認めてあげて、

十分繰り返せるようにサポートしてあげることです。

子どもの興味や関心の中から、困難にチャレンジしていこうとする決意が生まれるまで

忙しく大人の事情でいじくりまわさないことが大事です。

大人がヘリコプターのおもちゃを見せてあげたいときにも、子どもの関心は、

工事現場で道路を掘り返しているおじさんの作業にあるかもしれません。

大人が水泳教室で級が上がるかどうか気にしているときも、子どもの関心は、

雨水の音が何かに似ていて、それを詩の言葉で表現してみたいという思いに

あるかもしれません。

 

大人が先回りして、子どもができそうな課題を設定しては「いつのまにかできるように

なっていた」という本人不在の成長をプロデュースし続ける限り、

子どもは「自分で興味を持ったことから熱中しはじめて、

そこから困難な課題を見つけだし、自分で設定して乗り越えていく」という

本当の成長に結びつく体験ができません。

 

 ↓ は自ら選んだ課題に一生懸命取り組む子どもたちの姿です。























針なしホッチキスでカバン作り

2015-09-15 16:29:24 | 工作 ワークショップ

針なしホッチキスって知っていますか?

ホッチキスの芯がなくても綴じられる便利で面白い文房具です。

300円~800円くらいで購入できます。

 

10枚綴じ可能の700円代くらいのものを買うと、絵本作りや教材作りにも役立ちます。

 

アイデアマンのAちゃん(小5)が、「わたしの家にも針なしホッチキスあるよ。

これでかばん作ったことある」と言うので、

「それはいいアイデア!」とさっそくわたしもかばん作りにチャレンジしてみました。

 

紙を半分に折って、両端を針なしホッチキスでとめると、簡単に袋状のものができます。

 

1分間でできる簡単紙かばん。

 

針なしホッチキスで空いた穴は紐を通して遊ぶのにもぴったりです。

3歳のBちゃんが作った手提げかばんです。

 


詰め将棋に似た数学的な『ニュートリーゴ』というゲームとサイコロの見えない面を推理する教具

2015-09-13 08:06:18 | 算数

過去記事です。

簡単に作ることができる、詰将棋に似た数学的な『ニュートリーコ』という

ボードゲームの作り方を紹介します。

 

写真のように5×5のマスと

色の異なるコマを3つずつ作るとできあがり。

 

<ルール>

最初に↑の写真のようにコマをセットします。

赤チーム、緑チームで、自分の色のコマを

タテ・ヨコ・斜めに真っすぐ、3つ並べた方が勝ちです。

★ コマの動かし方に特徴があります。

順番に自分の色のコマをタテかヨコかナナメに動かします。

その時、相手のコマの手前かボードの壁まで止まることができません。

どこまでも滑っていくようにコマを動かします。

 

自分の好きな場所で止まることができないため、

3つ並べるには、何手順も先のコマの動きを読んでいかなくてはなりません。

 

幼児や小学校低学年の子が将棋をすると、コマの動かし方を覚えることに

気を取られて、先を読むことまでできないものです。

このゲームは、シンプルな作りのため、幼い子たちも

自然に先を予測しながら遊ぶようになっていきます。

 

ネットで、『ニュートリーコ』で検索すると

オンラインゲームを楽しむこともできますよ。

 

クリスマスとお正月用に手作りゲームを作った1年生の子たち。

算数の学習もきちんとできていました。

 

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<サイコロの見えない面を推理する教具>

サイコロの見えない面を推理するための教具を作りました。

100円ショップの半透明のプレゼント用の小箱と

ドッツシールを使っています。

 

向かい合う面の関係に気づきやすいように同じ色のシールを

貼っています。

半透明の箱を使うと、見えない面に対する推理力が

働きやすくなりました。

 

今、教室では、クリスマスやお正月に家族で遊ぶための

ゲーム作りが流行中です。

 

詰将棋のように先を読みながら勝負するゲーム

『ニュートリーコ』。

 

裏面には、同じこのマス目を使って、

それぞれの子が自由に自分で考えたゲームを作りました。

 

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サイコロをいくつか重ねて、

見えない面の数を当てるゲームをしています。

 

サイコロの見える面の数から見えない面の数を

推理する力は、中学入試でも出題されています。

こんなふうに、実際のサイコロを見ながら、面の数を当てて

遊ぶうちに、推理するコツがわかってきて、

こうした問題を考えるのが大好きになっていくはずですよ。

 

 


思考する方法が変化しはじめる4歳前後の子たち

2015-09-11 21:38:37 | 通常レッスン

4歳前後の子たちは、それまで目で見えている世界だけを

相手にしていた時期から、見えるものを頼りにして見えないものをイメージしはじめる

過渡期にあるようです。

 

これまでは、見えているものと見えているものを1対1対応に

マッチングさせていく作業にばかり興味があったのに、

知恵を絞って試行錯誤しながら解いていく課題に

興味を示す子らが多いです。

「こうじゃないかな?」と推理したのに

間違っていたという時、「あっ!わかった!」という顔をして、

次から同じような問題にぶつかった時に、前に失敗した際の知識を使って

背後にあるルールのようなものから推理して解くようになるのもこの時期からです。

 

先日も、3歳9ヶ月のAちゃんと4歳2ヶ月のBちゃんの遊ぶ姿を眺めながら、

4歳前後の子たちの頭の中は、そうした変化の渦中にあるんだなぁと

何度も感じました。

 

ピエロのパズルに初めてチャレンジするCちゃん。

青、黄色、赤の長さの異なる積み木と

3種類の首の長さの異なるピエロの顔を組み合わせるパズルです。

課題の絵が縦に積み木を並べるものだと

すぐに正解にたどりついたCちゃんですが、

積み木を横に積み上げる課題になったとたん

どう取りかかったらよいかわからないようでした。

 

この課題、もう少し大きな子なら、まず3色の積み木を

積んでから、首の長さに合わせて積み木に差していくのでしょう。

 

 

が、Bちゃんの取った解決法は意外なものでした。

積み木のひとつずつに先に首を差してみて、

プラ~ンと首が下にまだあるのを確かめて

別の積み木に差していくのです。そうして正しい答えにたどりつきました。

Aちゃんはまだ3歳代の子ですが、こうしたパズルが大好きなので

先に色の違う積み木を積んで、長さの異なる首を差していって

スムーズに正解しました。

が、だんだん難易度があがっていくパズル問題が好きなAちゃんも、

『SOLCHE STROLCHE』(AMIGO)のゲームで、

見えていないものをイメージする問いになったとたん、

何度も間違ったカードを選んでいました。

ただ間違いながらも、飽きることなく

何とかわかろうとする集中力を保ってゲームに参加していました。

 

 

 

「カードにない色でいない動物を探す」という課題。

4歳前後の子はしっかりしている子も

見えている動物や色から探そうとします。

でも、間違える度に、「このカードにない色でいない動物を探すのよ。

紫はカードにあるね。カードにない色じゃないね」「豚はカードにあるね。カードの中にいない動物じゃないね」

と楽しみながら確認していると、

この年齢の子たちが、

「そこにないものについて考える」という新しいテーマに

強い関心を抱いているのも伝わってきます。

 

課題通りに積み木を積んで的を作り、玉を投げて崩すパズルゲーム。

Aちゃん、Bちゃんと3歳3ヶ月のCちゃんの

3人で『トパーズ』というゲームを少し易しい遊び方で楽しみました。

10のくぼみがある製氷皿に

取った宝石の数だけビー玉を入れるて遊びをわかりやすくしています。

ビー玉を10貯めて、小物と交換するという

両替に近いルールを楽しめていました。

AちゃんとBちゃんに上の写真のような

「折り紙の一部を折ると、どんな折目がつくか」という問題を

出すと、「4歳前後の子ならでは……」という反応がありました。

 

簡単な折り目でも、最初はかならず見た目に騙されて

↑の写真の右下の図なら、折ったところを開くと

「四角い折り目がついているんじゃないか」と予測するのです。

 

そこで実際の折り紙で同じ折り目を作って

開いてみせると、Bちゃんが、「あっわかった!」というように

顔を輝かせました。

Aちゃんは、この問題での「わかった」を利用して、

次の問題では、ミスせずに正しい折り目を選ぶようになっていました。

4歳の子たちの頭の中は、次々と新しい思考の方法が取り入れられ、

育っているんですね。