虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

小学生編集長からのお知らせ

2016-12-22 15:55:01 | 虹色文庫出版局

<虹色教室に通っている小学生へのお知らせ>

虹色教室の(ごっこ)出版社の小学生編集長のNちゃんがいいことを思いつきました。

「今度、レッスンのときにおすすめの本を持ち寄り、みんなで読書会をしたり、それぞれ本の帯を作ったりして、おすすめの理由を発表したりしてはどうでしょう?」

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(先生から)教室に通っている子たちへのお知らせ

 

そういえば、虹色教室の出版社は、誰かが御曹司と結婚する小説(N編集長著)が流行して以来休刊中でした。

来年はがんばって虹色文庫やマンガ雑誌を作りましょう!!応援しています。

去年に引き続き小学生編集長をしているNちゃんは、雑誌や本を作ったり読書をしたりする子が増えるように

いろいろと案を練ってくれています(特に、Nちゃんと同じグループの子は、おすすめの一冊を決めてきてください。教室で面白くてかわいい本の帯を作りましょう)。

 

読書会はとってもいいアイデアですね♪ 

戦国武将が好きな子、長い物語をどんどん読み進めている子、ミステリー好きの子etc……おすすめ本を持ってきてください。


3・4歳の子たちの工作 「火星探査機を作りました」

2016-12-21 20:21:30 | 3、4歳児

3歳のAくん、4歳になったばかりのBくんとCくんのレッスンの様子です。

Aくんは、前回、ブロックでピラミッドを作って以来、「ミイラを作る。エジプトのピラミッドを作る」と言い続けているという話でしたが、いざ材料を用意してあげると、どういう風に作っていったらいいのかイメージできないようでした。

こちらが「こういう風に作って……」と紙を三角に折らせていると、だんだん意欲がしぼんでいって、気もそぞろになっていました。

ブロックで作るピラミッドは、「だんだん広がるようにブロックを貼り付けていく」という基本の作り方をマスターすると、同じ作業を繰り返すうちに、最終段階をイメージする力がなくても完成するのです。

でも紙工作で三角錐ではない底面が正方形のピラミッドを作るとなると、この年代の子の手にあまるのです。

3,4歳の子の工作では、それまでやったこともないのに、「こういうものを作ろう」と考えて、自分でどのように作るかイメージして、ひとつずつ手順を踏んで創作していくのはまだ難しいのです。

だからといって大人がイメージを代行して、子どもを誘導して作らせてしまうのでは、作る喜びや考えるわくわく感はほとんどなくなってしまいます。

(5歳くらいになると、未知の作り方でも、大人の教える作り方を参考にして作っていこうとする子も増えてきます。そうして習った上で、自分の持っている技術と組み合わせて、作りあげていきます)

そこで、Aくんのピラミッド作りはいったん保留にして、「宇宙を作ってみる?ビー玉の地球や木星とかがくるくる回るよ」と言ってペットボトルにビー玉を入れて蓋をし、さかさまにして回転させたところ、「やりたい!ぼくも作りたい!」「ぼくも!宇宙が作りたい!」「ぼくも!」と大盛況でした。

ペットボトルにビー玉を入れて蓋をするだけなんて、工作とはいえないような創作ですが、魅力的な何かを一瞬で作ることができたというベースが、次の作る作業につながっていきます。

ペットボトル宇宙を作った3人は、シールを貼ったり、ビー玉の軌道にあたるところにマスキングテープを貼ったり、太陽系探検というポップアップ図鑑を見たりして過ごしました。

そうするうちに、Bくんが「これが作りたい」と図鑑にあった火星探査機を指さしました。

Bくんはショベルカーが好きで、これまで繰り返しショベルカー作りをしてきましたから、

火星探査機を作る際も、「ショベルカーを作っていた時の方法はそのままで素材がちょっと変わるだけ」という方法で作りこんでいました。

Bくんの ショベルカーを作っていた時の方法というのは、ショベルカーの曲がるアーム部分に曲がるストローを使ったり、アームの先っぽに何か取り付けたり、車輪をペットボトルの蓋にして、養生テープでペタペタ貼り付けたりすることです。

 

そんな風に基本に自分がよく知っている何度も体験した方法があると、この年代の子でも、「大人から新しい方法をきちんと学びとろう」という意欲が生まれてきます。

Bくんは探査機の先に文字や石を拡大することができる透明のビー玉レンズを取り付けたり、アンテナ風のらせんの形の作ったりする方法を学んでいました。

 

AくんもCくんもBくんと同じものを作りたがりました。

Cくんは、アルミ箔を何度か折って、キラキラする折り紙を貼り付けるところまでした後で、それをペットボトルにはりつけました。まるで潜水艦みたいです。

あれこれ貼り付けると、かっこいい宇宙船風になりました。

真似からはじめても、途中で自分のやり方に移っていって、満足できるものができあがると、子どもは本当にうれしそうです。

今度は、他のふたりがCくんを真似て宇宙船を作りました。

ガチャポンカプセルを貼ったり、アルミ箔の一部をやぶいて窓にしたりして、立派な作品に。

 

すごくかっこいい宇宙船ができたなぁと感心していたところ、満面の笑みで「ほら、窓からビー玉が見えるでしょ!」と得意気に語るBくんの言葉に「さすが、3,4歳児さん!!やっぱりそうきたのか~!」と思わずうなってしまいました。

窓から宇宙船の中をのぞいたら見えるのは、宇宙船の内部でも、宇宙飛行士でもないのです。

最初の地球か木星のはずだったビー玉です。

すると、それを見たAくんが、(もう少し大きい子なら、常識に照らして、それはおかしいよー。宇宙船の中に地球があるの変だよーとつっこみが入る場面ですが……)「ぼくも、ビー玉入れるー!」と声をあげていました。


「こうしたい!」から生まれる新しいアイデア

2016-12-19 20:48:16 | 工作 ワークショップ

大きいサイズの2階建て(屋根裏部屋つき)の家作りを楽しんでいた、1〜2年生の女の子たち。

2階をセロテープで貼る段になって、「先生、これ貼っちゃったら、遊べないよ。だって、ドアから手を入れても……。」ぶつくさ言い出しました。

「えっ?このドールハウスの1階のところでも、人形とか動かして遊ぶつもり?」とたずねると、口をそろえて、「遊ぶよー!!」と返ってきました。

そんなあたり前のことを聞かないでと言わんばかりの女の子たち。

 

「だったら、2階がパカッとはずれて、遊べるようにしなきゃダメなんじゃない?」というと、それぞれ知恵を絞って、1階、2階、屋根裏部屋のそれぞれで遊べるお家を作っていました。

 

Cちゃんの家は、落ち着いた色合いです。

 

1年生のAちゃんのお家。

屋根と2階部分を横に倒すと、1階が現れて遊べるようになっていました。

 

が、Aちゃんはこれが気に入らない様子。

屋根と2階が壁面にプラーンとぶらさがっているなんておかしいとのこと。

「先生、2階をはずしても、ちゃんと立っているようにしたい」とAちゃん。

そこで、2階の壁に折りたたむと壁になり、開くと建物の柱代わりになる紙を貼り付けました。

 

Aちゃんのアイデアで、2階部分を倒すと、ピンクの床が壁になって新しい部屋が生まれ、下に駐車場スペースができる仕組みが完成しました。

やはり必要は発明の母でした。

 

Bちゃんのエレベーターつき2階建てハウス。

エレベーターはストローのレバーを回すと上下します。

 

算数の問題もみんながんばりました。


勉強が好きになるまでのプロセス 8

2016-12-17 12:56:23 | 教育論 読者の方からのQ&A

先の記事で書いたように、子どものころのわたしは本が好きでたまらない子でした。

月に一度、移動図書のバスが近所に来てくれたのですが、家族の貸し出しカードを全部使いきっても

読み足らず、学校の図書室の常連でしたし、休日にはおこずかいを使って2駅先の図書館に通いつめていました。

 

そうした子ども時代の読書体験は、

「人が人生で遭遇する問題」に対して、どのように捉えたらいいのか

ちょっとしたコツを伝授してくれました。

 

それは、「人が人生で遭遇する問題」は、

ページの裏に答えが書いてあるなぞなぞやクイズとはちがうということです。

 

それだけで分厚い本一冊分のページを読み切って、ようやく完結するもの。

 答えを求めてページをめくっていたつもりが、

最終章まできて、自分自身が答えだったと気づくもの。

 問題の対象を何とか変えたくて、読みはじめたはずが、

時間とプロセスの力で自分自身が変容していたことを悟るものだということです。

 

そんな質感、

どっしりした手ごたえこそ、わたしが受け取った知恵の中身です。

 

「勉強ができない」「勉強がきらい」ということにしても

人生で遭遇する難しい問題のひとつです。

ちまたにあふれている宣伝文句の通りにアレやコレを試して、

望む結果に子どもを持っていこうとしても、

うまくいかないか、たとえうまくいったとしても別の問題の火種を作ってしまいかねません。

身近な大人には、

子ども自身が、ひとつひとつのプロセスを踏んでいく姿を見守る

分厚い本1冊分くらいの時間感覚が必要なのです。

 

前回までの記事で、こんなことを書きました。

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大人の管理や支配は、教育現場から、

自分のアイデア、疑問、知への感動、より高度な内容に踏み込んだ質問などを

発信していく姿、自分の思考の筋道を苦労しながら表現していこうとする意欲を根こそぎ奪ってしまいます。

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 これは教室をしていて、毎日のように、実感していることです。

なぜなら、「勉強きらい」「勉強面白くない」「学校の勉強、つまんない」と繰り返していた子が、

子どもが勉強に興味を持ちだしたり、自発的に勉強しはじめたり、表情を輝かせて学ぶようになったりする

きっかけはみな同じなのです。

自分のアイデア、疑問、知への感動、より高度な内容に踏み込んだ質問がそれぞれの子のなかから生まれた瞬間です。

 

少し前に、こんなことがありました。

小学2年生の子らのレッスンで、「0,1,2,3,4

の5枚のカードがあります。これから3枚を取り出して、ならべて3けたの整数を作ります。

全部で何個の整数ができますか」という問題を出しました。

これはトップクラス問題集の4年生向けの問題なので、クイズを出す感じて、

できるようにさせるためではなく、

「どんな風に解くかな?」と様子を見るために出しました。

すると、最初はただ適当に書き出していこうとしていたAくんが、

「あっそうだ!」と紙に線を引いて、「1,2,3,4」のスペースを作ってから

百の位が1になるもの、2になるもの……などに分けて書き出しはじめました。

友だちのBくんも、同じように分けて解きだしました。

ふたりは、0の扱いや、書き出す上で気づいたことなどを

ああだこうだと言い合いながら解いていました。

途中で何か思いついた様子で、「あっ、そうだ!」と言って、

よりわかりやすい方法に書き直したりしていました。

 

ふたりとも、自分なりのアイデアをいろいろ試した後なので、

「どのようにしたいのか」がよくわかっているし、「どうもうまくいかない点」にも気づいています。

 

そこで、こうした問題を解くのに便利な樹木のような線を入れて

整理する方法を教えると、「あーそうか」と興味しんしんでした。

 

これが、先にプリントなどで樹木のような整理の仕方を習って、

その解き方に数字を当てはめていくように教えると、

子どもの頭は、「こういう問題を解くにはこういう図を書いて解く」ということはわかっても、

何のためにそんな整理の仕方をするのか、理解できないのです。

子どもが自分の頭を使って考える前に答えを教えてしまって、

その結果に向けて、無理やりにできる形に持っていこうとすると、

なぞるようにはできても、わかりはしないのです。

 

この日、自分でいくつかの解き方を試してみたAくんは、

全身で「算数って面白いな」という思いを発していました。

 

 座り方は何通り?

 


勉強が好きになるまでのプロセス 7

2016-12-16 15:10:37 | 教育論 読者の方からのQ&A

「あそびのアトリエ リボンクラブ」のレオ先生が自分を律する力と自分の限界を知る経験の記事のなかで、こんなことを書いておられました。

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私が子どもの頃、大人のいないところで経験した少し危険なこと、悪ふざけ、なんの生産性もないたわいもないこと…

でもそれが、私の中ではあたたかいものとして心の宝物のようにして残っています。

だから、子ども達の行動を
同じ気持ちになって見守っている自分がいます。

「それで何か?」と言われれば何も言い返す理論的な答えは持ち合わせていません。

ただ私の中で大切なことだと感じているから…そしてそこにはイキイキとした表情で元気に走り回ったり、責任をもってやり抜く子ども
達の姿が現実にあります。

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これを読んで、私自身も子ども時代の宝物に支えられて今の仕事を続けていることに思いあたりました。

宝物のひとつは、子どもの頃に読みふけった童話や児童文学の数々です。

 

わたしが、「相手と自分の気持ちが強烈に迫る状態」にがんじがらめになって、身体も頭も動きが鈍くなったり、落ち着きなくあちこちに意識をめぐらせて

ひとつのことにコミットメントできなかったりする子の気持ちを解除します……」といったことを書くと、「どんなメソッドを参考にしたのか?」「どこで学んだのか?」「何から知識を得たのか?」と疑問に思う方がいらっしゃるかもしれません。

もちろん、さまざまな情報と経験の積み重ねのなかで熟してきたものではあるけれど、子どもと信頼関係を築いたり、

複雑に絡んだ心の糸をほどいたり、見えない葛藤状態を解除したりする時に、わたしの進む方向を最も明るく照らしてくれるのは、童話や児童文学から得た知恵なのです。

子どもというのは、大人の作るきまりやルールには従わないけれど、物語の世界の秩序には素直に従います。

暴君のように振舞う子は、長靴をはいたネコの言葉に乗るうちにねずみに化けてしまいます。

えらそうな殿様っ子も乱暴な武士のような子も、一休さんやきっちょむさんのトンチにはかないません。

子どもたちはタオの心を持つ くまのプーさんの親友ですから、大人が老子に学ぶなら、どんなに荒れた心も静まります。

また、児童文学の多くは、子どもの内面の葛藤が、非常に長い時間をかけて、さまざまな体験や人とのかかわりのなかで昇華されていくことを教えてくれます。

 


勉強が好きになるまでのプロセス 6

2016-12-14 21:10:02 | 教育論 読者の方からのQ&A

「前回までの内容について、具体的な例をあげて、くわしく説明を……」という心づもりはあるのですが……。

これから書こうと思うことは、あらかじめ子どもとの関わりの土台部分を共有しておかないと、「読めば読むほど、何のことやらわからなくなった」となりがちな内容なのです。

そこで、子どもとの関わりの土台となるものをわかりやすい言葉で解説しておられる他のブログの記事を引用させていただくことにしました。

(先に書いた「相手と自分の気持ちが強烈に迫る状態」の話は、この土台について十分理解していただいた上でのより繊細な対応を扱っているため、後ほど書かせていただくことにします)

人気ブログ 『保育士おとーちゃんの子育て』に、大人は「結果」をつくりだしたくなる というテーマで書かれた一連の記事があります。

大人は「結果」を作り出したくなる

 『大人は「結果」を作り出したくなる』のお話からふたつのこと 

『大人は「結果」を作り出したくなる』のお話からふたつのこと  vol.2 

『大人は「結果」を作り出したくなる』のお話からふたつのこと  vol.3 

 

『保育士おとーちゃんの子育て』のブログにある一連の記事は、子どもの勉強について書かれたものではありません。

でもここに書かれている

★  「できるようにしないこと」が子供を「できるようにしてくれる」

★ 「教えない・させない」でも子供は伸びていく

という保育の本質に触れる言葉は、そのまま子どもの学びを支える上での本質を言い当ててもいます。

直接的に子供の姿をこねくり回すことで、大人の望む「結果」を子供に短絡的に持たせる関わりが、子どもが自主的に主体的に自分で考えていこうとする姿を奪ってしまうことは、保育の現場だけで起こっている問題ではありません。

教育現場でも、まだ十分に準備のできていない子に大人の望む結果を即座に求めるあまり、自分の頭で考えようとせずに、言われるままに丸暗記していく姿やただ作業として習ったことをなぞっていくだけの姿につながっているのです。

 

大人の管理や支配は、教育現場から、自分のアイデア、疑問、知への感動、より高度な内容に踏み込んだ質問などを発信していく姿、自分の思考の筋道を苦労しながら表現していこうとする意欲を根こそぎ奪ってしまいます。

「なにが必要かを伝え、子供にどうすべきかを考えさせ、そして実行させる。それでもうまくいかなかったり、失敗したら、そこにサポートをする。それでもできなければそこから大人が手を貸すのでも遅くはありません。」

という保育士おとーちゃんの言葉は、子どもの学びを支える際にも通じる言葉なのです。

 

勉強が好きになるまでのプロセス 1

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子どもが「習ってない!くんタイプ」だった場合、次にとおるべきプロセスは、間違っていてもいいからやる気があふれだしている状態で、それを存分にやりつくしてから、次の「理解した上で答えを導きだす」「慎重に忍耐強く考え抜いていく」「考えるための技能を身につけて解く」というプロセスへと移っていくといいのかな……と考えています。

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間違っていてもいいからやる気があふれだしている状態とは、ある意味、学びを支えている大人に対する信頼感がある状態とも言えます。

間違っていても、待ってもらえる、

間違っても、大人は自分の思考の筋道を信頼してくれていると安心している、

間違っていても、それは終わりではない、

間違っても、できなかったと烙印を押されるわけではない、

なぜ間違ったのか考えたり、もう一度チャレンジしなおせば、リベンジできる、

ということを体験的に知っている状態と言えるのです。

また、学んでいる自分自身に対する信頼感が十分ある証拠でもあります。

途中ですが次回に続きます。

 

最後までパズルを解ききって、深いため息をついていた1年生のAくん。

自分に対する信頼感が高まり、自分への見方が変わったようでした。


教室で人気のカードゲームとボードゲームを紹介

2016-12-13 14:30:30 | 虹色教室の教具 おもちゃ

幼児にも小学生にも男の子にも女の子にもダントツの人気は、『レシピ』です。

1000円くらいで購入できるカードゲームですが、(わたしはヨドバシカメラで買いました)とてもよくできていて、子どもの心をがっちりつかみます。

ルールが簡単なので、かなり幼い子(手伝ってあげれば2,3歳の子)も遊べます。

 

『キリンメーター』は、最大の数と最小の数を当てる数の世界を楽しむゲームです。

 

 虹色教室内では、意外なほど盛り上がります。

これにはまる小学生が続出!!

……なのですが、家庭で楽しむのは少し難しい気もします。

「イースター島のモアイ像はきっと〇体くらいだよ」

「世界の草食の蜘蛛の種類は……どれくらいだろう?」

といった数ネタで、ワイワイガヤガヤ盛り上がる雰囲気が必要なのです。

普段から数についてのうんちくを披露したい子にはぴったりです。

 

『コルトエクスプレス』です。

保育士おとーちゃんさんのブログを見て買いました。

教室の中で、『キンオブトーキョー』とともに小学生の子らに一番愛されているゲームです。

ただ、日本語版を購入しないと、(今は、ドイツ語版なら手に入るよう)ルールを理解するのが難しいかもしれません。

 

『100かいだてのいえのかるた』

2歳くらいから、おすすめです。

 

クラッシュアイスゲーム。

このゲームにはまらない子は見たことがありません。

2歳くらいから小学校高学年の子まで夢中になります。

小学生とは、得点計算を複雑にするルールを加えて遊んでいます。

(たとえば、1,2年生なら、白い氷は、10点、青い氷は20点としています)

 

ストラテゴ。

不動の人気。軍人将棋の一種です。(相手にコマを見せない将棋)

 

『グローカルヘキサイト』

難しい操作がいろいろあるのに、幼児も夢中になってやめたがらないゲームです。

 

ショッピングリスト。2歳くらいの子も楽しめます。

 

きかんしゃトーマスゲーム。

今は手に入らないかもしれません。

これで遊ぶうちに、自然に+10を覚えてしまった幼児が大勢います。


いただいたコメントと『子育ての悩みと問題はこんがらがってくるほど多種多様』の記事

2016-12-12 21:32:39 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

3年生のAくんのお母さんから、「学校で個人懇談がありましたが、1学期と比べて格段に成績も上がり、生活態度も問題ないと言われました。
1、2年生の登校も着席もままならない頃とは大違いです。」といううれしい報告をいただきました。

Aくんは、今月の頭に行ったユースホステルのレッスン(はじめて冬に計画しました)にひとりで参加してくれていたのですが、「寝るのがもったいないくらい、やりたいことがあった。また行きたい!」という感想をもらしていたそうです。

 Aくんのお母さんが、「ずっと子育ての指針となっています」とおっしゃってくださった過去記事をアップします。

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虹色教室では、赤ちゃんから小学生までのさまざまな年代の子の成長を見守りながら、その都度、親御さんの悩みや迷いに耳を傾けています。

子育てには、悩みと迷いがつきもので、「何学年も先の学習も楽々こなして、聞きわけがよくて、友だちもたくさんいる」といった悩みようがないような子を育てている親御さんにしても、常に新しく現われてくる障害物に頭を抱え込んでいる現状があります。

そうした問題は、親御さんの「考えすぎ」というより、現代の子どもをめぐる環境と深い関わりがあるものが多いです。

ですから、安易に問題から目をそらしたり、不安な気持ちに蓋をしたり、その都度、流行の解決法を盲信したりするのではなく、ひとつひとつの問題にきちんと向き合って、心の整理をしていく必要があると思っています。

そうでなければ問題と問題が複雑に絡み合って雪ダルマ式に膨らんでいって、簡単には解決しない問題に発展することがめずらしくないからです。

 

幼児を育てている親御さんが悩んでいるとき、

★子どもにハンディーキャップがある場合

★子どもにハンディーキャップがない場合

のどちらかで、考えの整理の仕方も対応方法もずいぶん異なるはずです。

といっても、このふたつのケースは簡単に線引きできるものではなくて、

「子どもに明らかな障害が見て取れて、病院で診断も出ていて、療育の環境も整っていて、親御さんの心が子どものハンディーキャップを受け入れている」方と、

「子どもの発育が良好で、発達そのものには何ひとつ気がかりがない」方の間には、

「周囲の子に比べて気になるところはたくさんあるし、検診や園で指摘を受けているけれど、ハンディーがあるとは受け入れたくない」方とか、

「気がかりな点は多々あるけれど、個性の範囲内。トラブル続出で悩みがつきない」方とか、

「子どもにハンディーはなさそうだけど、親子の相性が悪いために、子どもの問題行動が多い」という方とか、

それは多種多様の立場で悩んでいる方がいらっしゃるはずです。

「子どもには まったく問題はなく、周囲からもそう言われるけれど、親の不安や心の問題が投影されて、しじゅう子どもに問題があるように感じられる」という方もいます。

「子どもが常に周囲の子よりもダントツによくできて、何一つ欠点がないという状態でないと、(普通のレベルだと)子どもに問題があるように感じる」という方もいます。

そうしたそれぞれの違いをあいまいにしたままぐるぐる悩み続けたり、誰かにアドバイスを求めても、その問題は解決したとしても、解決法そのものが次の問題の火種になったり、問題を先送りにして深刻化させるだけだったりするものです。


子どもの問題にぶつかるとき、問題そのものは似通っていても、それにぴったりあった解決法はそれぞれ異なります。


★親御さんが悩みを言葉にして、リラックスして、子どもへのまなざしのあり方や言葉のかけ方を変えると解決するケース。

★子どものハンディーキャップを受け入れ、障害特性を学んで、対応法を改善すると解決するケース。

★ママ友同士の関係や子どもに過剰な期待を抱いてしまう癖といった親の問題が子どもの問題のように感じられていることに気づくと解決するケース。

★現代の子育て環境の中で、子どもの運動量が減っていて、一般的な子の身体や脳の発達不全が原因で問題が起こっていて、十分、暴れまわる時間を作るなどすると解決するケース。

★手と目を協応させる作業を増やすと、解決するケース。

★「泣く」「怒る」といったネガティブな感情を
表現することを許されて、子どもが自分の気持ちを言葉にできるようになると解決するケース。

★子どもの性格タイプにあった働きかけを増やすと解決するケース。

など。


問題が起こったとき、解決法を模索することも大事なのですが、現代の子育て環境が原因で起こっている問題は、事前に予防することも大切だと思っています。

「幼い頃から発達が良好で、幼稚園にも習い事にもすぐに適応できました。友だちも多いし、学習課題も年齢よりずっと先のものまでできています」

という子を育てている親御さんが小学校に通い始めたわが子のことで悩んでいると聞くと、「なんと贅沢な……悩まなくてもいいことで過剰に悩んでいる」という印象を受けるかもしれません。

でも、現代の子育て事情では、小学生を育てている親御さんの非常に多くの方々が、

「すぐに疲れた、疲れたと体をくにゃくにゃさせて、家に帰ればゲームかテレビ。意欲や向上心が見えず、時折りびっくりするような幼い言動が目立つ」

わが子の姿に悩みを抱えているのです。

そうした子のほとんどは、上で紹介したような

「幼い頃から発達が良好で、幼稚園にも習い事にもすぐに適応できました。友だちも多いし、学習課題も年齢よりずっと先のものまでできています」という経歴の持ち主で、

今現在、学校での勉強や友だち関係で何か問題があるのかというと、皆無に等しい子らなのです。

だったら、気にする必要はないのか……というと、親なら誰もが、子どもが毎日疲れ果ててヘナヘナ~と崩れそうになって生活していれば、やはり気にかかるし、

意欲や向上心が見られなくて、愚痴や苦情ばかりつぶやいていたり、ちょっとしたことでキレたりしていれば、先々のことが心配になるものです。

それなら、どうすればいいのかという対応法を考える前に、その原因のひとつ思われる子どもの大脳の活動の働きの変化について
お話しますね。

日本体育大学で、子どもの「大脳新皮質」の覚醒水準や前頭葉の活動のようすを調べる実験をしたところ、次のような結果が出たそうなのです。

大脳活動の働きは基本的には「興奮」と「抑制」の過程から成り立っています。

本来、 刺激に対してあまり興奮もしないが抑制もできないという「そわそわ型」は、幼児には多いけれど、小学校に入ると減ってくるのがこれまでの傾向だったそうです。

それが、90年代中ごろになると、小学校に入学したあとも5割をこえる高い水準になって、高学年になるにつれて増えていく傾向もみられるようになってきたのだとか。

このような子どもたちは、先生の話を聞き続けられるのはせいぜい1分間ぐらいです。

そうした困った脳を持っている子がクラスの多数派になっている現状では、いくら「これから習う漢字や計算はできている」状態で
子どもを学校に送り込んだところで、子どもの教育に関する悩みから解放されるのは難しいのです。

人は成長するにしたがって「何かあれば十分に興奮できるし、必要なときには抑制もできる」という「活発型」の要素を身につけ、発達していくものなのだそうです。

それが、ごく普通の多くの子どもたちが「集中力が弱く、落ち着きもない」という「そわそわ型」の脳のまま小学校生活を過していて、
それが高学年になるにつれ増えていっているとすれば、当然、だんだん学力が下がってくるという問題にもぶつかるでしょう。

そのとき、塾に行かせるとか、通信教材を取るといった解決法で上手くいくのかというと疑問なのです。

「何かあれば十分に興奮できるし、必要なときには抑制もできる」という「活発型」の脳は、平均的な割合では幼稚園年長児で15%前後なのだそうです。

でもある幼稚園ではこの「活発型」の子が55%もいるのだとか。

その園では、毎朝30分、友だちといっしょに、じゃれつきあい、転げまわる「じゃれつき遊び」という遊びを実践しているそうです。

一昔前の子なら、きょうだいや近所の子と四六時中していたと思われるじゃれつき遊びを30分するだけで、学んだり、我慢したりすることが疲れずにできるような脳に発達していく子がそんなに増えるなんてびっくりしますよね。

「とっくみあい」や「おしくらまんじゅう」など昔ながらの「接触型」の遊びには、こうした「活発型」の脳にしていく効果があったのではないかと見直されているそうです。

関連があるのかはわからないのですが、虹色教室で、ゲラゲラ思いきり笑うとか、自由に友だちとふざけあう時間を持つだけでも、その後の学習時間に、「えー」「わかんない」「何?」といった半分寝ているようなぼんやりした反応が減って、問題を解くときの集中力が増すことがあります。

これも関連があるのかわからないのですが、豊かな自然に囲まれて海外で暮らしている子が教室に来ると、キラキラした目の輝きや体中にみなぎっているやる気や好奇心にハッとするときがあるのです。

一方、お勉強や集団でのしつけを売りにしている幼稚園に通い出すと、それまでいきいきとして頭の働きが良かった子が、ぼんやりとしていることが増えたり、会話を交わすとき体をくねくねさせて返事が遅くなったりすることが気になっています。


話をもとに戻しますね。

「すぐに疲れた、疲れたと体をくにゃくにゃさせて、家に帰ればゲームかテレビ。意欲や向上心が見えず、時折りびっくりするような幼い言動が目立つ」

という小学生を抱える親御さんの悩みは、一朝一石には解決しないのかもしれません。

でも、幼児期に、自然と触れあいながらゆったり外遊びをさせたり、自由遊びの多い園を選んだり、家族でじゃれあって遊んだりすることは、そうした問題の予防にきっと役立つのではないでしょうか。

子育ての悩みと問題は、だいたい次のようなものに分けられると思います。

★ 子どもが、今、他のみんなと同じようでない

★ 子どもが、今、自分の期待通りではない

★ 自分が設定した子どもの目標と、子どもがあっていない

★ 自分が、今、親として自分の理想通りではない

★ 子どもの環境が(幼稚園、学校、友だち、教育、教師、遊び場など)自分の期待通りではない

★ 自分の環境が(ママ友、夫、祖父母、子どもから離れる時間、肉体的疲労、精神的ストレス)期待通りではない

★ 具体的に解決方法を模索したい問題がある

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こうした悩みのひとつひとつは、正確に「誰が、何を、どうしたい悩み」なのか把握しておかないと、もやもやとくすぶらせたままで、見当違いの解決法に走ると、次々と別の悩みを連鎖的に生み出す原因となってしまいがちなのです。

どうして、「誰が、何を」なんて点を明らかにする必要があるのかというと、この悩みには「子ども」という親とは別の人格なのに、
親の一部とも延長線上にあるものとも錯覚してしまいがちな存在が関係しているからなのです。

たとえば、親が「うちの子はみんなと同じではない」と悩みを抱いたとします。

そこで、「みんな」と感じているのは、親子がいっしょに付き合っている同じ月齢の3,4人の子どものことなのかもしれません。

はっきりさせると、自分が近視眼的になっていて、見方にゆがみがでていたことに気づくかもしれません。

「同じでない」と感じているのは、知的な能力のことかもしれないし、乱暴、臆病すぎといった気質のことかもしれません。

この悩みをいったん言語化して客観的に眺めてみると、子どもの発達の順序や時期にはずれがあるので、大きな時間の流れで物事を捉えれば解決するかもしれないし、

実際に、何らかのハンディーを知らせるサインかもしれず、情報を集めたり、病院で診断を受けるきっかけになるかもしれません。

気質の問題だとすると、親がママ友との仲に固執するあまり、その子の気質にあった子と遊んでいないという問題かもしれません。

「誰が」をはっきりさせるというのは、本当に「子ども」が困っているのかという見方で見直すと、「子ども」にとっては、自分よりしっかりしたタイプの子が多い中で過しているおかげで、最適の成長を促されているので、とても良い状態である場合もあるのです。

でも、そこで、「子どもが、今、他のみんなと同じようでない」という悩みをあいまいにしたまま、子どもに期待をかけると、

「子どもが、今、自分の期待通りではない」という新たな悩みがはじまります。

また安易に、目標を定めて改善しようとすると、「自分が設定した子どもの目標と、子どもがあっていない」という悩みも加わり、そこで子どもを叱ったり、冷たい態度を取ったりすると、

「自分が、今、親として自分の理想通りではない」という悩みも生じます。

そうして悩み出すと、子どもと自分を取り巻く環境すべてがうらめしく思えて、環境が悪いので自分の悩みは改善しようがないという気持に陥るかもしれません。

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幼児を育てている親御さんが悩んでいるとき、

★子どもにハンディーキャップがある場合

★子どもにハンディーキャップがない場合

のどちらかで、考えの整理の仕方も対応方法もずいぶん異なるはずです。
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ということを、書きました。

私はもともと 子どもを「障害のある子」「ない子」で分ける捉え方が好きではありません。

特に発達障害の子の場合、名前の中に「障害」などという言葉が入っているものの、実際には「育ち方の個性が強い子」「対応にちょっと工夫がいる子」といった言葉の方がしっくりくる気がしています。

実際に子どもたちと接していて、ハンディーキャップをもっている子は、ない子に比べて、ある面で苦手なこともあるけど、得意もあるし、短所も目立つけど、磨けば輝く長所も際立っていると感じています。

ただ、気にかかる面がいろいろある子に対して、「子どもには個性があるものだから、何かができないからといって、障害うんぬんの話をするのはおかしい」と決め付けて、

発達障害等に情報を全て遮断してしまうのはどうなのかと思うのです。

変なたとえですが、アトピー性皮膚炎のある子を育てながら、なぜアレルギーが起こるのかという情報を知ろうとしなければ、皮膚のかぶれを悪化させたり、薬を誤用して副作用によって後々苦しむことになったりしますよね。

それと同じで、子どもに気になる点が多いとき、発達障害についての情報に目を通して、

「知らないことが原因で、誤った対応をする。子どもの困った態度をより悪化させるような対応や2次障害を起させるような対応をする」ことを避けるだけで、

気になっていた問題はどんどん消えていき、発達障害かどうかといったことで悩む必要がなくなるケースは多いのです。

ですから、子どものことで悩んでいるとき、「いろいろ気になることはあるけれど、この子に障害なんかない」

という気持ちで、子どもに厳しく当たったり、周囲の対応に不満を感じたりするよりも、

「発達障害かどうかはわからないけれど、まず情報にだけは目を通して、今の気がかりな問題に、取りあえず正しい対応をしておく。」と、悩みが悩みではなくなり、解決することが可能な具体策へと変わってくるはずです。

以前「(今の社会に)発達障害児は多すぎるのでは?」という意見をいただいて、それに対するお返事の記事を書いたことがあります。

過去記事で長くなりますが、興味のある方は読んでくださいね。

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最近、ちょっと問題を感じたらたいしたことない子まで発達障害という名前をつけて、騒ぎすぎる……

と考えておられる方によく出会います。

昔は、そんな診断しなくてもちゃんと育った……そうおっしゃる年配の方々もよくいます。

ここで注意が必要なのは、かつての小学校では、今、発達障害と診断されるような子もそんな診断名はつけられずに普通に育っていたし、そんな診断つけて騒ぐから問題のある子になるんだ……という考えの盲点です。

現在、非常にたくさんの子が不登校となり、たくさんの若者がひきこもりとなっています。

また、就職したくてもできない、就職しても続かない若者がたくさんいます。


もちろん、不登校やひきこもりの子がかならずしも発達障害を持っているわけではありません。

けれども幼稚園や小学校で、周囲とうまくなじめなかったり、攻撃的だったり、不器用すぎたり、言葉の理解にたくさんひっかかるようなところがあったり、

授業中立ち歩いたり妨害したりする子……というのは、親も先生も何らかの対策をとってていねいにその子に向きあっていかないと……

当然、子供同士の関係悪化や「先生に自分だけ叱られる」「勉強がわからない」といった理由で、不登校になるリスクは高くなるのではないでしょうか?

子どもなんてそんなもの……

発達障害などという考えを追放してしまえば昔と同じように子どもはきちんと育つ

と考えるのは、ある意味「無策」でもあって、今後、さらに子どもや若者の問題を増大させていくように感じます。

子どもの発達障害について切り出すと、「最近の親はしつけもせずに、何でも病気のせいにして……」と厳しい批判を加える方がいます。

「個性よ。個性。昔は、発達障害なんて言葉はなかったし、きちっと叱れば子どもなんてどの子もちゃんと育ったものよ」と言い張る方もいます。

多少対人関係に苦手があっても親の仕事を継いだり身内の職場で雇ってもらえたりした時代なら、親は安心して子育てできたはずです。

人付き合いが極端に下手でも、それはそれで素直に親の指示に従えて良いと考えていたかもしれません。

しかし現在の厳しい就職事情のもとで、社会人としてひとりで自立して生きていくためには社会性のハンディーは死活問題です。

また貧しかった時代とちがって、だらしない服装をしているというだけで、アルバイトで雇ってもらうことすら難しいのです。

偏屈で人嫌いで身なりに構わない人も、世間にはいろんな人間がいる~と、それなりに仕事をして社会に受け入れられて生きていけた時代……

そんな時代なら、たとえ発達障害がある子であっても成長過程のでこぼこを、個性とあきらめて育てていけばよかったのでしょう。

叱られても叱られても悪い癖がなおせずに、しまいに2次障害になってアルコール中毒やギャンブル中毒になっても、男とはそういうもの……男らしさのひとつの形として理解されていた時代なら良かったのです。

しかし現在に生まれた発達障害を持った子は、定型発達の子でも仕事を続けていくのが難しい社会を、自分ではコントロールできない部分に振り回されながら生きていかなければならないのです。

子ども時代なら、親が親身になって、克服しなければならないことを乗り越える手立てをしるしてもらえます。

だからこそ勇気のある親たちが、力を振り絞って病院に出かけたり、診断を受け入れたり、子どものためにできることを真剣に考えているのです。

子どもの言動がわからないところだらけなのに、発達障害についてわかってきた過去の貴重な知識の集積をあてにしないで、一個人の親が思いつくしつけ法で、何ができるといえるのでしょう?

叱ったり、罰したりするうちに親子ともども追い込まれて、たくさんの親子が繰り返してきた悪循環の渦にのまれるだけではないでしょうか?

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上の文に次のようなコメントをいただきました。↓


今は親ともに安らぐ子育てはしてはいけないのですか?

昭和の時代の子育てはジャイアン症候群とかのび太症候群なんて病気はありませんでした。

ジャイアンのような子はガキ大将として、のび太のような子は、優しい子として周りは接してくれていました。

しかし今は少しでも着替えが遅いと病気ガキ大将的存在の子は病気、何か苦手な分野がみつかると、病気!病気!病気!何なんですか?!

大人の手をやかせる子はみんな病気なんですか!

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昭和の時代は、ある意味、おおらかで生きやすい時代でしたよね。

昭和の時代は、確かに病名こそつかなかったけれど、虐待に近いしつけもまかり通っていたはずです。

また明らかな差別もありました。

理解できないものは、追い払う、排除する、という人権を無視した行為が行われても、だれも疑問も持たないような空気もあったのです。

「窓際のトットちゃん」がちょっと落ち着きがないからと、小学校をやめさせられたことを

知っている方はたくさんいますよね。

私が小学生のころも、クラスに、今なら発達障害と診断を受けるような子がいたのですが、親たちの苦情と、先生の無理解のなかで、転校していきました。☆お塩の足りないスープ鍋という記事で書いています。

私が中学生だったころも、今思うと発達障害があったと思われる子が保健室で体育の先生からボコボコに殴られるなんて日常茶飯事でした。

それこそ、中学3年間、最高の「悪さ」が、廊下を早足で歩いた程度というまじめ一筋の私や友人でも、廊下で少しふざけていたという理由で、体育教師から思い切り平手打ちにあったり、頭をげんこつでなぐられたりしたことが何度もあるのです。

教室で態度が悪い子がいるからと、英語の教師が教室内で竹刀を振り回したこともありました。

でも、どんな理不尽な出来事も、テレビのニュースで取りあげられることもなければ、親たちが騒ぐこともありませんでした。

また、当時は医学的な知識がなかったので、自閉傾向を持つ子の母親は、育て方が原因とされて周囲から責め立てられ、それは辛く苦しい思いをして子育てをしていました。

きちんとさせようという責任感が、子どもへの虐待行為になっていたことも多かったと思います。

実際、大人になって発達障害があることに気づいた方が、子ども時代を振り返って、辛い記憶を告白するとき、先生から汚いもののように扱われたり、裸に近い格好をさせられたり、

「また学校に来たのか?よく来るな…」といやみを言われたり……

と信じられないようなお話をたくさん耳にすることがあるのです。

それでも、昭和の時代は、大人が今のように子どもを監視する習慣はなかったので、どこか間が抜けていて、すき間だらけで、やんちゃで乱暴な子にも、いじめられっ子にも、居場所があったような気もします。

また、確かに、小学校が、親たちから文句を言われない完璧さを保とうと今のようにピリピリしたところがなかったのでしょう。

大人の手をやかせる子はみんな病気なんですか? 

という疑問の『病気』という言葉は、今、親や教師や療育関係者や社会が理解しようとつとめはじめた『発達障がい』という言葉があらわしている概念と重ならなくなってきているように感じます。

確かに、最初、発達障がいは、病院という場で、子どもの不適応や不登校や情緒的な問題を分析する中で、体系化されてきた歴史はあるのでしょう。

そのように障害として見ることからスタートした発達障がいに関する知識の蓄積は、現在、発達に、ある特性がある子、一般的な発達の順序とは少し異なる育ち方をする子、

脳のタイプが多数派ではない子というかつてより幅広い捉え方で、子どもの困り感に寄り添おうとする親や教師たちの情報源となっているように思います。

昭和の時代のように、差別するためにレッテルを貼るという発想は、どんどん社会から失われているのです。

それよりも、違いはある、できるできないはある、といった運命に対するあきらめを含んだ態度から、

ひとりの子の人権、可能性、幸福、最適の教育、教師のあり方を模索していく個にフォーカスしたひとりひとりを大切にする発想が、支持されつつあるのだと思います。

現代の学校は、確かに問題もたくさんあるのでしょうが、かつてより、ひとりひとりの子どもを大切にしていることも事実なのです。

発達障害の知識は、けっして、検品作業の中で、一部の子を粗悪品として除外するために使われている訳ではないはずです。

さまざまな個性を尊ぶ、人権が大切にされつつある世の中の動きのなかで、かつては、読字障害のある子は、知能の遅い子とみなされたり、

一生できないまま終わっていたところを、方法さえ探ればできるようになる可能性を与えたり、かつては感覚過敏の苦痛を訴えればわがままとして、

ただ我慢させられたり、鍛えられたり、わがままと叱られるだけで終わっていたのを、感覚過敏を理解し、最低限の暮らしやすさを約束してあげることにつながったり、

多動ゆえに、知能に問題がないのに教育から恩恵が受けられなかった子に、教育のチャンスを与えたり、

不登校、家庭内暴力、ニート、鬱、離職といった、発達障がいの2次障害の問題が起こらないようにすることに役立ってきたのです。

科学にしたって、最初は錬金術からのスタートです。

同じように、発達障がいをめぐる問題は、最初こそ、障害を研究することからはじまったのでしょうが、今は障害という概念を越えて
さまざまなレベルの子の困り感に役立っていると感じています。

妙な例で、例えると、肩こりは病気って呼べるでしょうか?言えませんよね。

しかし、肩こりという痛みや困り感を軽減するのに役立つ知識は、病気の研究から出発して蓄積されたものですよね。

(そんな肩こりも、病院で薬をもらって直そうとすると、「●●●障害」なんて、えらくかしこまった名前をつけられるかもしれません。)

それと同様に、今、発達障がいについて、正確に知りたいという方が増え、その知識の蓄積が子どものさまざまな問題の解決に役立ち始めた現代は、

子どもの可能性をできる限り伸ばそう、「できない」とあきらめていたことも、解決法があるのではないか……

といった期待のもとで、発達障がいについて考えていく方が増えたのだと思います。

教師が、発達障害では?と子どもに疑問を抱くとき、「変な子だな~」と思って、親を傷つけるために、そうした考えを持つことはめったにないと思います。

どう教えてもできるようにならない子も、きちんと正しい手順を踏めば……方法を学べば……解決法を探れば……できるようになるのではないか?

そうした思いで、発達障がいについて学び始める方がほとんどだと思います。
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発達障害の当事者の方から
次のようなコメントをいただきました。↓
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「何が何だかわからない安心できない世界」の中で生きているということは、社会に対する基本的信頼が形成されにくいということでもあります。
教師の言葉に従って行動したら、学級で自分ひとりだけ違うことをしていたとか、友達と話し合って決めたことを実行したら、自分以外誰もそうしていなかったとか、そういうズレを多数経験すると、何を信用していいのかわからなくなることがあります。
客観的には本人が相手の言葉の意図や場の状況を把握できなかっただけのことですが、本人の主観では虐めに遭ったのと区別がつかない場合もあります。
しかし、どのように生まれつこうと、心的向こう傷のない人生は有り得ないですし、すべてを理解しあえることも有り得ません。
自閉スペクトラムという概念を知って、自分のズレが招いた様々なことに何年かかけて納得した時、社会に対する恨みが減少しました。
ほどよく諦めがついたのが、建設的に作用したのだと思います。
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私は、できるだけ早い時期に 発達障害の可能性に気づいて、親や周囲の大人は、そうした知識に目を通すだけでもしておいた方がいいと考えています。

それを、何でもかんでも「病気」と決め付ける行為とは思っていません。

そうして、いくつかの対応をとってみたら問題が消えて、気にしすぎだったな~と笑えるときがくると、とてもうれしいです。

どうして早めに発達障害かも……という気づきが得たいかというと、知能に問題がないのに、発達障がいによる2次障害が原因で、
勉強についていけなくなる子や、不登校になる子を減らしたいからです。

また、子どもがいじめを受けたと感じて傷ついているときに、親や教師といった大人たちまでも「おまえが悪い」と決め付けて、取り返しがつかないほど子どもを傷つけてしまうようなことをしたくないからです。

そうして、困り感を減らすうちに、発達障害などという言葉がそぐわなくなったなら、それほどうれしいことはないのです。

子どもに、「何が何だかわからない安心できない世界」の中で生きているというそんな辛い思いだけは抱かせたくないと心底 思っています。

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Aくんのお母さんから、「我が子が混沌とした世界にいるなら、道しるべになるような手がかりや、自分で模索できる術を身に付けさせてやりたいと切に願います。」というコメントをいただきました。


勉強が好きになるまでのプロセス 5

2016-12-09 22:41:56 | 教育論 読者の方からのQ&A

前回の記事の続きを書く前に、虹色教室のことについて、少し触れさせてください。

虹色教室の特徴は、ひとりひとりの子と長い期間関わることが多いことです。

1,2歳の頃出会って、それから10年あまりの年月、見守り続けることもめずらしくありません。

もうひとつの大きな特徴は、子どもとの関わり方が多岐にわたっていることです。

工作したり、実験したり、ゲームをしたり、ブロック遊びをしたり、ごっこに興じたり、算数を学んだり、お泊まりのレッスンに行ったり、それぞれの子のその時期の興味やニーズにそった活動をしたりしています。

そんなふうに、幼い頃から大人のような口をきくようになる頃まで、その子がどんな風に成長していくのか見守りながら年月を重ねるうちに、

子どもというものやそれぞれの子の個性、子どもの育ちというものに対して、深い信頼感や安心感や自然を前にして感じるような敬虔な気持ちを抱くようになりました。

 というのも、どんなに今、目の前の子の問題行動が目立っていても、できないことばかりが目についても、子どもは成長の過程でそれを取り戻すかのような劇的な成長の時期が訪れたり、

個性の力で、不利な条件を利用して、他の子らが真似できないような面を大きく伸ばしたりする姿を何度も目にしてきたからです。

 

戸塚滝登著の『子どもの脳が学ぶとき』に、数学者のシーモア・パパートの『パパートの原理』がの一部が紹介されています。

 

「子どもの脳は単に知識を詰め込まれるだけでは発達できず、その知識を使うための知識(より良い方法を見つけたり、発展させたりする体験などの知識)を与えられない限り、うまく成長することはできない」という考えのことです。

 

子どもの脳は単に新しいスキルや知識を身に付けるだけでは成長できない。

「知識を使いこなすための知識」

「知識についての知識」を学ぶことも、

子どもの脳の発達にとってかけがえのないステップになる。

ーー『子どもの脳が学ぶとき』戸塚滝登著

 

この著書には、脳神経科学者、ジュディス・ラポポートとジェイ・ジードの脳スキャナーを使った脳発達の研究の話題も取り上げられています。

ララポート博士が、普通のIQの子どもたち、ややIQが高い子どもたち、最もIQが高い子どもたちの3つのグループに分けて子どもの脳発達と知能指数との関係を追跡したところ、もっとIQが高い子どもたちにだけ、奇妙な現象が見つかりました。

それは、

IQの高い子どもたちの脳ほどスロースペースで成長し、思春期がやってくるまで成長をやめなかったということです。

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虹色教室では、先に書いたように長い期間、多岐にわたる活動を通して子どもたちとかかわるため、知識を使うための知識、つまり知恵を獲得していく場面にしょっちゅう遭遇します。

また、教室では、子どもがよりよい方法を見つけたり、オリジナルアイデアをひらめいたり、問題の解決法に気づいたり、それらを繰り返しによって洗練させ、より高度なものへと発展させていけるように環境を整え、私自身や親のスキルアップに努めてもいます。

 

最近、10年以上続けてきたそうした活動が実を結び、思った以上の成果を得るようになったのを肌で感じています。

その一方で、新たな問題に頭を悩ませてもいます。

「教室での子どもたちとの関わり」という現場の仕事について経験知が上がるにつれて、ブログを読む不特定多数の人々に伝えることがより難しくなってきたのです。

 

子どもの成長のスイッチはいつどんな時、どのような条件で入るのか、子どもとの関わりでどんな点に気をつけていけばいいのか、

現場の子どもとのやり取りのなかでは正確に把握できても、それを言葉でさらっと説明すると、どうしても言葉足らずになってしまうのです。

虹色教室通信は、そうした 現場での気づきを日誌のようにつづっているものです。忙しい日は日誌というよりメモの状態でアップしています。

 

<補足>

断片的な日々の話題なので、もしもう少しまとまった形で読みたいという方は、

 PHP研究所で、『子どもの考える力をぐっと引き出すお母さんの話し方』という本にこれまでの気づきをまとめていただいたので、

手に取ってみてください。

 

前置きが長くなってしまったのですが、次回は、具体的な子どもとのかかわりについて書きますね。(数日、忙しくなるので、この続きを書く前にレッスンに記事をはさむ予定です)


その子独自の「こんなことしたい」から膨らむ活動

2016-12-08 21:55:18 | 理科 科学クラブ

4歳4ヵ月のAくんのレッスンで。(前日の記事もたまたま同じ月齢の子でしたが、別の男の子です)

教室に着いたAくんは、あれこれおもちゃを出してきて触りながらのんびりしていました。

「今日、どんなことがしたい?工作や実験やゲームができるよ」と誘うと、「先にまず遊んでから……」といって、次のおもちゃを探しにいきました。

 

Aくんは好奇心旺盛でがんばり屋の男の子です。

一度何かを始めると、最後までじっくり取り組みます。

そんなAくんですから、Aくんの気持ちのスイッチが入るまでもう少し待つことにしました。

そうした後で、「時計の長い針が4のところに来たら、今日することを工作か実験かゲームのどれをしたいか選んでね。でも、今日はもうちょっとゆっくりしてから決まった活動がしたいなら、長い針が6のところまで遊んでいてもいいよ。」

そう告げると、Aくんは、にこっと笑って、

「もう工作したい」と言いました。

最近、教室では、ビー玉を使ったコリントゲーム風のおもちゃ作りが流行っています。

わたしが簡単な見本を作ってみせると、

「それもいいけど、ぼくがしたいのはそれじゃないな」という顔で、「ふうーん」とのぞきこんでいたAくんが、急に思いついたように、

「海の中の恐竜を作りたいよ。住んでいるところが本物みたいに海の中とか外とかが本当のやつみたいなのを作りたい」と言いました。

水色の色画用紙を切り抜いて海を作り、落とし穴がある山を作ったところで、大好きな海の恐竜の絵を描いて切り取りました。

 

この海の中の恐竜は、前回のレッスンでも描いて、磁石を使った魚釣りゲーム作りに発展したのでした。

「Aくん、前は魚釣りしたけど、他のグループの子は海の中の生き物でよく影絵をして遊んでいるよ。影絵のスタジオの作り方を教えてあげようか?」とたずねると、喜んでうなずきました。

海を表現するために、透き通った青い色水を作って懐中電灯を当ててみたらどうかとたずねると、

Aくんの目がたちまち輝いて、「色水作りたいよ。いろんな色のが作りたい!!」と言いました。

 

ペットボトルの中の水に絵の具を溶かしてみると、半透明で光を通しませんでした。

そこで、これまで他のグループでよくやっていた水性マジックでティッシュペーパーに点を打ってから水につける手の込んだ色水作りをすることにしました。

すると、それまでは、たんたんと工作していたAくんが声が裏返るほど喜んで活動に参加しはじめました。

自分がやりたいと思ったことに対する子どもの熱心さは格別ですね。

 

影絵遊びが楽しくてたまらないAくん。

影絵の恐竜に取っ組み合いをさせたり、Aくんの影が天井まで届くよう調節したりして遊びました。

Aくんは、お母さんの影が大きくなってエアコンに頭をぶつけたのにおなかを抱えて笑っていました。

 

いらないDVDを使って虹を作りました。

 

Aくんの心のスイッチが入ったのは「色水作りたい」という思いでしたが、それ以降は、ゲームも算数も、大乗り気で目を輝かせて取り組んでいました。

 

始めて遊んだストラテゴ。

 

算数タイムでは、数のボードを使ってたし算やひき算をしました。