3年生のAくんのお母さんから、「学校で個人懇談がありましたが、1学期と比べて格段に成績も上がり、生活態度も問題ないと言われました。
1、2年生の登校も着席もままならない頃とは大違いです。」といううれしい報告をいただきました。
Aくんは、今月の頭に行ったユースホステルのレッスン(はじめて冬に計画しました)にひとりで参加してくれていたのですが、「寝るのがもったいないくらい、やりたいことがあった。また行きたい!」という感想をもらしていたそうです。
Aくんのお母さんが、「ずっと子育ての指針となっています」とおっしゃってくださった過去記事をアップします。
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虹色教室では、赤ちゃんから小学生までのさまざまな年代の子の成長を見守りながら、その都度、親御さんの悩みや迷いに耳を傾けています。
子育てには、悩みと迷いがつきもので、「何学年も先の学習も楽々こなして、聞きわけがよくて、友だちもたくさんいる」といった悩みようがないような子を育てている親御さんにしても、常に新しく現われてくる障害物に頭を抱え込んでいる現状があります。
そうした問題は、親御さんの「考えすぎ」というより、現代の子どもをめぐる環境と深い関わりがあるものが多いです。
ですから、安易に問題から目をそらしたり、不安な気持ちに蓋をしたり、その都度、流行の解決法を盲信したりするのではなく、ひとつひとつの問題にきちんと向き合って、心の整理をしていく必要があると思っています。
そうでなければ問題と問題が複雑に絡み合って雪ダルマ式に膨らんでいって、簡単には解決しない問題に発展することがめずらしくないからです。
幼児を育てている親御さんが悩んでいるとき、
★子どもにハンディーキャップがある場合
★子どもにハンディーキャップがない場合
のどちらかで、考えの整理の仕方も対応方法もずいぶん異なるはずです。
といっても、このふたつのケースは簡単に線引きできるものではなくて、
「子どもに明らかな障害が見て取れて、病院で診断も出ていて、療育の環境も整っていて、親御さんの心が子どものハンディーキャップを受け入れている」方と、
「子どもの発育が良好で、発達そのものには何ひとつ気がかりがない」方の間には、
「周囲の子に比べて気になるところはたくさんあるし、検診や園で指摘を受けているけれど、ハンディーがあるとは受け入れたくない」方とか、
「気がかりな点は多々あるけれど、個性の範囲内。トラブル続出で悩みがつきない」方とか、
「子どもにハンディーはなさそうだけど、親子の相性が悪いために、子どもの問題行動が多い」という方とか、
それは多種多様の立場で悩んでいる方がいらっしゃるはずです。
「子どもには まったく問題はなく、周囲からもそう言われるけれど、親の不安や心の問題が投影されて、しじゅう子どもに問題があるように感じられる」という方もいます。
「子どもが常に周囲の子よりもダントツによくできて、何一つ欠点がないという状態でないと、(普通のレベルだと)子どもに問題があるように感じる」という方もいます。
そうしたそれぞれの違いをあいまいにしたままぐるぐる悩み続けたり、誰かにアドバイスを求めても、その問題は解決したとしても、解決法そのものが次の問題の火種になったり、問題を先送りにして深刻化させるだけだったりするものです。
子どもの問題にぶつかるとき、問題そのものは似通っていても、それにぴったりあった解決法はそれぞれ異なります。
★親御さんが悩みを言葉にして、リラックスして、子どもへのまなざしのあり方や言葉のかけ方を変えると解決するケース。
★子どものハンディーキャップを受け入れ、障害特性を学んで、対応法を改善すると解決するケース。
★ママ友同士の関係や子どもに過剰な期待を抱いてしまう癖といった親の問題が子どもの問題のように感じられていることに気づくと解決するケース。
★現代の子育て環境の中で、子どもの運動量が減っていて、一般的な子の身体や脳の発達不全が原因で問題が起こっていて、十分、暴れまわる時間を作るなどすると解決するケース。
★手と目を協応させる作業を増やすと、解決するケース。
★「泣く」「怒る」といったネガティブな感情を
表現することを許されて、子どもが自分の気持ちを言葉にできるようになると解決するケース。
★子どもの性格タイプにあった働きかけを増やすと解決するケース。
など。
問題が起こったとき、解決法を模索することも大事なのですが、現代の子育て環境が原因で起こっている問題は、事前に予防することも大切だと思っています。
「幼い頃から発達が良好で、幼稚園にも習い事にもすぐに適応できました。友だちも多いし、学習課題も年齢よりずっと先のものまでできています」
という子を育てている親御さんが小学校に通い始めたわが子のことで悩んでいると聞くと、「なんと贅沢な……悩まなくてもいいことで過剰に悩んでいる」という印象を受けるかもしれません。
でも、現代の子育て事情では、小学生を育てている親御さんの非常に多くの方々が、
「すぐに疲れた、疲れたと体をくにゃくにゃさせて、家に帰ればゲームかテレビ。意欲や向上心が見えず、時折りびっくりするような幼い言動が目立つ」
わが子の姿に悩みを抱えているのです。
そうした子のほとんどは、上で紹介したような
「幼い頃から発達が良好で、幼稚園にも習い事にもすぐに適応できました。友だちも多いし、学習課題も年齢よりずっと先のものまでできています」という経歴の持ち主で、
今現在、学校での勉強や友だち関係で何か問題があるのかというと、皆無に等しい子らなのです。
だったら、気にする必要はないのか……というと、親なら誰もが、子どもが毎日疲れ果ててヘナヘナ~と崩れそうになって生活していれば、やはり気にかかるし、
意欲や向上心が見られなくて、愚痴や苦情ばかりつぶやいていたり、ちょっとしたことでキレたりしていれば、先々のことが心配になるものです。
それなら、どうすればいいのかという対応法を考える前に、その原因のひとつ思われる子どもの大脳の活動の働きの変化について
お話しますね。
日本体育大学で、子どもの「大脳新皮質」の覚醒水準や前頭葉の活動のようすを調べる実験をしたところ、次のような結果が出たそうなのです。
大脳活動の働きは基本的には「興奮」と「抑制」の過程から成り立っています。
本来、 刺激に対してあまり興奮もしないが抑制もできないという「そわそわ型」は、幼児には多いけれど、小学校に入ると減ってくるのがこれまでの傾向だったそうです。
それが、90年代中ごろになると、小学校に入学したあとも5割をこえる高い水準になって、高学年になるにつれて増えていく傾向もみられるようになってきたのだとか。
このような子どもたちは、先生の話を聞き続けられるのはせいぜい1分間ぐらいです。
そうした困った脳を持っている子がクラスの多数派になっている現状では、いくら「これから習う漢字や計算はできている」状態で
子どもを学校に送り込んだところで、子どもの教育に関する悩みから解放されるのは難しいのです。
人は成長するにしたがって「何かあれば十分に興奮できるし、必要なときには抑制もできる」という「活発型」の要素を身につけ、発達していくものなのだそうです。
それが、ごく普通の多くの子どもたちが「集中力が弱く、落ち着きもない」という「そわそわ型」の脳のまま小学校生活を過していて、
それが高学年になるにつれ増えていっているとすれば、当然、だんだん学力が下がってくるという問題にもぶつかるでしょう。
そのとき、塾に行かせるとか、通信教材を取るといった解決法で上手くいくのかというと疑問なのです。
「何かあれば十分に興奮できるし、必要なときには抑制もできる」という「活発型」の脳は、平均的な割合では幼稚園年長児で15%前後なのだそうです。
でもある幼稚園ではこの「活発型」の子が55%もいるのだとか。
その園では、毎朝30分、友だちといっしょに、じゃれつきあい、転げまわる「じゃれつき遊び」という遊びを実践しているそうです。
一昔前の子なら、きょうだいや近所の子と四六時中していたと思われるじゃれつき遊びを30分するだけで、学んだり、我慢したりすることが疲れずにできるような脳に発達していく子がそんなに増えるなんてびっくりしますよね。
「とっくみあい」や「おしくらまんじゅう」など昔ながらの「接触型」の遊びには、こうした「活発型」の脳にしていく効果があったのではないかと見直されているそうです。
関連があるのかはわからないのですが、虹色教室で、ゲラゲラ思いきり笑うとか、自由に友だちとふざけあう時間を持つだけでも、その後の学習時間に、「えー」「わかんない」「何?」といった半分寝ているようなぼんやりした反応が減って、問題を解くときの集中力が増すことがあります。
これも関連があるのかわからないのですが、豊かな自然に囲まれて海外で暮らしている子が教室に来ると、キラキラした目の輝きや体中にみなぎっているやる気や好奇心にハッとするときがあるのです。
一方、お勉強や集団でのしつけを売りにしている幼稚園に通い出すと、それまでいきいきとして頭の働きが良かった子が、ぼんやりとしていることが増えたり、会話を交わすとき体をくねくねさせて返事が遅くなったりすることが気になっています。
話をもとに戻しますね。
「すぐに疲れた、疲れたと体をくにゃくにゃさせて、家に帰ればゲームかテレビ。意欲や向上心が見えず、時折りびっくりするような幼い言動が目立つ」
という小学生を抱える親御さんの悩みは、一朝一石には解決しないのかもしれません。
でも、幼児期に、自然と触れあいながらゆったり外遊びをさせたり、自由遊びの多い園を選んだり、家族でじゃれあって遊んだりすることは、そうした問題の予防にきっと役立つのではないでしょうか。
子育ての悩みと問題は、だいたい次のようなものに分けられると思います。
★ 子どもが、今、他のみんなと同じようでない
★ 子どもが、今、自分の期待通りではない
★ 自分が設定した子どもの目標と、子どもがあっていない
★ 自分が、今、親として自分の理想通りではない
★ 子どもの環境が(幼稚園、学校、友だち、教育、教師、遊び場など)自分の期待通りではない
★ 自分の環境が(ママ友、夫、祖父母、子どもから離れる時間、肉体的疲労、精神的ストレス)期待通りではない
★ 具体的に解決方法を模索したい問題がある
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こうした悩みのひとつひとつは、正確に「誰が、何を、どうしたい悩み」なのか把握しておかないと、もやもやとくすぶらせたままで、見当違いの解決法に走ると、次々と別の悩みを連鎖的に生み出す原因となってしまいがちなのです。
どうして、「誰が、何を」なんて点を明らかにする必要があるのかというと、この悩みには「子ども」という親とは別の人格なのに、
親の一部とも延長線上にあるものとも錯覚してしまいがちな存在が関係しているからなのです。
たとえば、親が「うちの子はみんなと同じではない」と悩みを抱いたとします。
そこで、「みんな」と感じているのは、親子がいっしょに付き合っている同じ月齢の3,4人の子どものことなのかもしれません。
はっきりさせると、自分が近視眼的になっていて、見方にゆがみがでていたことに気づくかもしれません。
「同じでない」と感じているのは、知的な能力のことかもしれないし、乱暴、臆病すぎといった気質のことかもしれません。
この悩みをいったん言語化して客観的に眺めてみると、子どもの発達の順序や時期にはずれがあるので、大きな時間の流れで物事を捉えれば解決するかもしれないし、
実際に、何らかのハンディーを知らせるサインかもしれず、情報を集めたり、病院で診断を受けるきっかけになるかもしれません。
気質の問題だとすると、親がママ友との仲に固執するあまり、その子の気質にあった子と遊んでいないという問題かもしれません。
「誰が」をはっきりさせるというのは、本当に「子ども」が困っているのかという見方で見直すと、「子ども」にとっては、自分よりしっかりしたタイプの子が多い中で過しているおかげで、最適の成長を促されているので、とても良い状態である場合もあるのです。
でも、そこで、「子どもが、今、他のみんなと同じようでない」という悩みをあいまいにしたまま、子どもに期待をかけると、
「子どもが、今、自分の期待通りではない」という新たな悩みがはじまります。
また安易に、目標を定めて改善しようとすると、「自分が設定した子どもの目標と、子どもがあっていない」という悩みも加わり、そこで子どもを叱ったり、冷たい態度を取ったりすると、
「自分が、今、親として自分の理想通りではない」という悩みも生じます。
そうして悩み出すと、子どもと自分を取り巻く環境すべてがうらめしく思えて、環境が悪いので自分の悩みは改善しようがないという気持に陥るかもしれません。
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幼児を育てている親御さんが悩んでいるとき、
★子どもにハンディーキャップがある場合
★子どもにハンディーキャップがない場合
のどちらかで、考えの整理の仕方も対応方法もずいぶん異なるはずです。
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ということを、書きました。
私はもともと 子どもを「障害のある子」「ない子」で分ける捉え方が好きではありません。
特に発達障害の子の場合、名前の中に「障害」などという言葉が入っているものの、実際には「育ち方の個性が強い子」「対応にちょっと工夫がいる子」といった言葉の方がしっくりくる気がしています。
実際に子どもたちと接していて、ハンディーキャップをもっている子は、ない子に比べて、ある面で苦手なこともあるけど、得意もあるし、短所も目立つけど、磨けば輝く長所も際立っていると感じています。
ただ、気にかかる面がいろいろある子に対して、「子どもには個性があるものだから、何かができないからといって、障害うんぬんの話をするのはおかしい」と決め付けて、
発達障害等に情報を全て遮断してしまうのはどうなのかと思うのです。
変なたとえですが、アトピー性皮膚炎のある子を育てながら、なぜアレルギーが起こるのかという情報を知ろうとしなければ、皮膚のかぶれを悪化させたり、薬を誤用して副作用によって後々苦しむことになったりしますよね。
それと同じで、子どもに気になる点が多いとき、発達障害についての情報に目を通して、
「知らないことが原因で、誤った対応をする。子どもの困った態度をより悪化させるような対応や2次障害を起させるような対応をする」ことを避けるだけで、
気になっていた問題はどんどん消えていき、発達障害かどうかといったことで悩む必要がなくなるケースは多いのです。
ですから、子どものことで悩んでいるとき、「いろいろ気になることはあるけれど、この子に障害なんかない」
という気持ちで、子どもに厳しく当たったり、周囲の対応に不満を感じたりするよりも、
「発達障害かどうかはわからないけれど、まず情報にだけは目を通して、今の気がかりな問題に、取りあえず正しい対応をしておく。」と、悩みが悩みではなくなり、解決することが可能な具体策へと変わってくるはずです。
以前「(今の社会に)発達障害児は多すぎるのでは?」という意見をいただいて、それに対するお返事の記事を書いたことがあります。
過去記事で長くなりますが、興味のある方は読んでくださいね。
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最近、ちょっと問題を感じたらたいしたことない子まで発達障害という名前をつけて、騒ぎすぎる……
と考えておられる方によく出会います。
昔は、そんな診断しなくてもちゃんと育った……そうおっしゃる年配の方々もよくいます。
ここで注意が必要なのは、かつての小学校では、今、発達障害と診断されるような子もそんな診断名はつけられずに普通に育っていたし、そんな診断つけて騒ぐから問題のある子になるんだ……という考えの盲点です。
現在、非常にたくさんの子が不登校となり、たくさんの若者がひきこもりとなっています。
また、就職したくてもできない、就職しても続かない若者がたくさんいます。
もちろん、不登校やひきこもりの子がかならずしも発達障害を持っているわけではありません。
けれども幼稚園や小学校で、周囲とうまくなじめなかったり、攻撃的だったり、不器用すぎたり、言葉の理解にたくさんひっかかるようなところがあったり、
授業中立ち歩いたり妨害したりする子……というのは、親も先生も何らかの対策をとってていねいにその子に向きあっていかないと……
当然、子供同士の関係悪化や「先生に自分だけ叱られる」「勉強がわからない」といった理由で、不登校になるリスクは高くなるのではないでしょうか?
子どもなんてそんなもの……
発達障害などという考えを追放してしまえば昔と同じように子どもはきちんと育つ
と考えるのは、ある意味「無策」でもあって、今後、さらに子どもや若者の問題を増大させていくように感じます。
子どもの発達障害について切り出すと、「最近の親はしつけもせずに、何でも病気のせいにして……」と厳しい批判を加える方がいます。
「個性よ。個性。昔は、発達障害なんて言葉はなかったし、きちっと叱れば子どもなんてどの子もちゃんと育ったものよ」と言い張る方もいます。
多少対人関係に苦手があっても親の仕事を継いだり身内の職場で雇ってもらえたりした時代なら、親は安心して子育てできたはずです。
人付き合いが極端に下手でも、それはそれで素直に親の指示に従えて良いと考えていたかもしれません。
しかし現在の厳しい就職事情のもとで、社会人としてひとりで自立して生きていくためには社会性のハンディーは死活問題です。
また貧しかった時代とちがって、だらしない服装をしているというだけで、アルバイトで雇ってもらうことすら難しいのです。
偏屈で人嫌いで身なりに構わない人も、世間にはいろんな人間がいる~と、それなりに仕事をして社会に受け入れられて生きていけた時代……
そんな時代なら、たとえ発達障害がある子であっても成長過程のでこぼこを、個性とあきらめて育てていけばよかったのでしょう。
叱られても叱られても悪い癖がなおせずに、しまいに2次障害になってアルコール中毒やギャンブル中毒になっても、男とはそういうもの……男らしさのひとつの形として理解されていた時代なら良かったのです。
しかし現在に生まれた発達障害を持った子は、定型発達の子でも仕事を続けていくのが難しい社会を、自分ではコントロールできない部分に振り回されながら生きていかなければならないのです。
子ども時代なら、親が親身になって、克服しなければならないことを乗り越える手立てをしるしてもらえます。
だからこそ勇気のある親たちが、力を振り絞って病院に出かけたり、診断を受け入れたり、子どものためにできることを真剣に考えているのです。
子どもの言動がわからないところだらけなのに、発達障害についてわかってきた過去の貴重な知識の集積をあてにしないで、一個人の親が思いつくしつけ法で、何ができるといえるのでしょう?
叱ったり、罰したりするうちに親子ともども追い込まれて、たくさんの親子が繰り返してきた悪循環の渦にのまれるだけではないでしょうか?
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上の文に次のようなコメントをいただきました。↓
今は親ともに安らぐ子育てはしてはいけないのですか?
昭和の時代の子育てはジャイアン症候群とかのび太症候群なんて病気はありませんでした。
ジャイアンのような子はガキ大将として、のび太のような子は、優しい子として周りは接してくれていました。
しかし今は少しでも着替えが遅いと病気ガキ大将的存在の子は病気、何か苦手な分野がみつかると、病気!病気!病気!何なんですか?!
大人の手をやかせる子はみんな病気なんですか!
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昭和の時代は、ある意味、おおらかで生きやすい時代でしたよね。
昭和の時代は、確かに病名こそつかなかったけれど、虐待に近いしつけもまかり通っていたはずです。
また明らかな差別もありました。
理解できないものは、追い払う、排除する、という人権を無視した行為が行われても、だれも疑問も持たないような空気もあったのです。
「窓際のトットちゃん」がちょっと落ち着きがないからと、小学校をやめさせられたことを
知っている方はたくさんいますよね。
私が小学生のころも、クラスに、今なら発達障害と診断を受けるような子がいたのですが、親たちの苦情と、先生の無理解のなかで、転校していきました。☆お塩の足りないスープ鍋という記事で書いています。
私が中学生だったころも、今思うと発達障害があったと思われる子が保健室で体育の先生からボコボコに殴られるなんて日常茶飯事でした。
それこそ、中学3年間、最高の「悪さ」が、廊下を早足で歩いた程度というまじめ一筋の私や友人でも、廊下で少しふざけていたという理由で、体育教師から思い切り平手打ちにあったり、頭をげんこつでなぐられたりしたことが何度もあるのです。
教室で態度が悪い子がいるからと、英語の教師が教室内で竹刀を振り回したこともありました。
でも、どんな理不尽な出来事も、テレビのニュースで取りあげられることもなければ、親たちが騒ぐこともありませんでした。
また、当時は医学的な知識がなかったので、自閉傾向を持つ子の母親は、育て方が原因とされて周囲から責め立てられ、それは辛く苦しい思いをして子育てをしていました。
きちんとさせようという責任感が、子どもへの虐待行為になっていたことも多かったと思います。
実際、大人になって発達障害があることに気づいた方が、子ども時代を振り返って、辛い記憶を告白するとき、先生から汚いもののように扱われたり、裸に近い格好をさせられたり、
「また学校に来たのか?よく来るな…」といやみを言われたり……
と信じられないようなお話をたくさん耳にすることがあるのです。
それでも、昭和の時代は、大人が今のように子どもを監視する習慣はなかったので、どこか間が抜けていて、すき間だらけで、やんちゃで乱暴な子にも、いじめられっ子にも、居場所があったような気もします。
また、確かに、小学校が、親たちから文句を言われない完璧さを保とうと今のようにピリピリしたところがなかったのでしょう。
大人の手をやかせる子はみんな病気なんですか?
という疑問の『病気』という言葉は、今、親や教師や療育関係者や社会が理解しようとつとめはじめた『発達障がい』という言葉があらわしている概念と重ならなくなってきているように感じます。
確かに、最初、発達障がいは、病院という場で、子どもの不適応や不登校や情緒的な問題を分析する中で、体系化されてきた歴史はあるのでしょう。
そのように障害として見ることからスタートした発達障がいに関する知識の蓄積は、現在、発達に、ある特性がある子、一般的な発達の順序とは少し異なる育ち方をする子、
脳のタイプが多数派ではない子というかつてより幅広い捉え方で、子どもの困り感に寄り添おうとする親や教師たちの情報源となっているように思います。
昭和の時代のように、差別するためにレッテルを貼るという発想は、どんどん社会から失われているのです。
それよりも、違いはある、できるできないはある、といった運命に対するあきらめを含んだ態度から、
ひとりの子の人権、可能性、幸福、最適の教育、教師のあり方を模索していく個にフォーカスしたひとりひとりを大切にする発想が、支持されつつあるのだと思います。
現代の学校は、確かに問題もたくさんあるのでしょうが、かつてより、ひとりひとりの子どもを大切にしていることも事実なのです。
発達障害の知識は、けっして、検品作業の中で、一部の子を粗悪品として除外するために使われている訳ではないはずです。
さまざまな個性を尊ぶ、人権が大切にされつつある世の中の動きのなかで、かつては、読字障害のある子は、知能の遅い子とみなされたり、
一生できないまま終わっていたところを、方法さえ探ればできるようになる可能性を与えたり、かつては感覚過敏の苦痛を訴えればわがままとして、
ただ我慢させられたり、鍛えられたり、わがままと叱られるだけで終わっていたのを、感覚過敏を理解し、最低限の暮らしやすさを約束してあげることにつながったり、
多動ゆえに、知能に問題がないのに教育から恩恵が受けられなかった子に、教育のチャンスを与えたり、
不登校、家庭内暴力、ニート、鬱、離職といった、発達障がいの2次障害の問題が起こらないようにすることに役立ってきたのです。
科学にしたって、最初は錬金術からのスタートです。
同じように、発達障がいをめぐる問題は、最初こそ、障害を研究することからはじまったのでしょうが、今は障害という概念を越えて
さまざまなレベルの子の困り感に役立っていると感じています。
妙な例で、例えると、肩こりは病気って呼べるでしょうか?言えませんよね。
しかし、肩こりという痛みや困り感を軽減するのに役立つ知識は、病気の研究から出発して蓄積されたものですよね。
(そんな肩こりも、病院で薬をもらって直そうとすると、「●●●障害」なんて、えらくかしこまった名前をつけられるかもしれません。)
それと同様に、今、発達障がいについて、正確に知りたいという方が増え、その知識の蓄積が子どものさまざまな問題の解決に役立ち始めた現代は、
子どもの可能性をできる限り伸ばそう、「できない」とあきらめていたことも、解決法があるのではないか……
といった期待のもとで、発達障がいについて考えていく方が増えたのだと思います。
教師が、発達障害では?と子どもに疑問を抱くとき、「変な子だな~」と思って、親を傷つけるために、そうした考えを持つことはめったにないと思います。
どう教えてもできるようにならない子も、きちんと正しい手順を踏めば……方法を学べば……解決法を探れば……できるようになるのではないか?
そうした思いで、発達障がいについて学び始める方がほとんどだと思います。
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発達障害の当事者の方から
次のようなコメントをいただきました。↓
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「何が何だかわからない安心できない世界」の中で生きているということは、社会に対する基本的信頼が形成されにくいということでもあります。
教師の言葉に従って行動したら、学級で自分ひとりだけ違うことをしていたとか、友達と話し合って決めたことを実行したら、自分以外誰もそうしていなかったとか、そういうズレを多数経験すると、何を信用していいのかわからなくなることがあります。
客観的には本人が相手の言葉の意図や場の状況を把握できなかっただけのことですが、本人の主観では虐めに遭ったのと区別がつかない場合もあります。
しかし、どのように生まれつこうと、心的向こう傷のない人生は有り得ないですし、すべてを理解しあえることも有り得ません。
自閉スペクトラムという概念を知って、自分のズレが招いた様々なことに何年かかけて納得した時、社会に対する恨みが減少しました。
ほどよく諦めがついたのが、建設的に作用したのだと思います。
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私は、できるだけ早い時期に 発達障害の可能性に気づいて、親や周囲の大人は、そうした知識に目を通すだけでもしておいた方がいいと考えています。
それを、何でもかんでも「病気」と決め付ける行為とは思っていません。
そうして、いくつかの対応をとってみたら問題が消えて、気にしすぎだったな~と笑えるときがくると、とてもうれしいです。
どうして早めに発達障害かも……という気づきが得たいかというと、知能に問題がないのに、発達障がいによる2次障害が原因で、
勉強についていけなくなる子や、不登校になる子を減らしたいからです。
また、子どもがいじめを受けたと感じて傷ついているときに、親や教師といった大人たちまでも「おまえが悪い」と決め付けて、取り返しがつかないほど子どもを傷つけてしまうようなことをしたくないからです。
そうして、困り感を減らすうちに、発達障害などという言葉がそぐわなくなったなら、それほどうれしいことはないのです。
子どもに、「何が何だかわからない安心できない世界」の中で生きているというそんな辛い思いだけは抱かせたくないと心底 思っています。
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Aくんのお母さんから、「我が子が混沌とした世界にいるなら、道しるべになるような手がかりや、自分で模索できる術を身に付けさせてやりたいと切に願います。」というコメントをいただきました。