虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

小さい舟から豊臣秀吉の船へ

2017-05-20 20:57:16 | 工作 ワークショップ

 教室では、子どもたちの工作リレーがよく起こります。

年中さんたちが作った小さい舟。

いかりはアルミホイルで形を作ってから、こすって固めています。

 

別の日にきた小学2年生たち。歴史マニアのCくんの指示のもと、

豊臣秀吉が挑戦に繰り出したお城が乗っている舟(安宅船)を作りました。

狭いけど、この船に4人、乗り込んでいました。

 

「乗りこめー!船が出るぞー!」と歴史上の人物になって

遊んでいました。

Cくんは加藤清正と伊達政宗。

Dちゃん(Eくんの妹)石田三成(Cくんによると、女性の可能性があるから)

Fくんは織田信忠(すでに信長は亡くなっているからなのだそう)

Eくんは参加したがらなかったため、船に乗らず、敵の亀甲船のイ・スンシンということになっていました。

 


敏感な子ども と 日常の出来事

2017-05-19 07:31:16 | ハイリーセンシティブチャイルド(HSC)・敏感な子
何度か紹介しているマイコー雑記というブログで、

『オールアバウト』へ「ひといちばい敏感な子」の親が知るべき5つの事をまとめました&HSCに無用な苦しみを与えないように

という記事を読みました。

強烈に感じく、良くも悪くも環境から影響を受けやすいという「遺伝子レベル」で決定されている特性をもったハイリーセンシティブな子どもたちは、周りの関わり方次第で、生き生きと活躍する大人にもなり得れば、メンタル面に問題を抱えたり、引きこもりがちで社会への扉を閉ざしてもしまえるとされています。

マイコさんは、敏感な子たちに対して、ネガティブなレッテル貼りではなく、HSCの持つ、「創造性、閃き、驚くべき賢さ、他者への共感」などに目を向けてやりたいですね、とおっしゃっています。

ぜひ、リンク先の記事に飛んでみてくださいね。

 

わたしも子ども時代を振り返ると、とても敏感な子だったと思います。 

でも、難しい家庭環境で育ったので、敏感すぎる自分の感覚を鈍麻させて、本来の自分から乖離したような精神状態で過ごしていることも多く、一周回って鈍感にも見えました。
大人になって子ども時代の出来事を言葉にしようと思う時、自分が、周囲の人々が語ったことと同じくらい、語られなかったことに注意を向けていたことや、実際、見聞きしていること以上に、背景にある空気について、詳細まで観察していたことに思い至ります。
同じ話の繰り返しの部分がありますが、「ハイリーセンシティブ」な感性で眺めていた子ども時代の風景を、もういちどアップしておこうと思います。
 
 
私が子どもの頃、パタリロというマンガの影響で
「だ~れが殺した クックロ~ビン~」と歌いながら
振り付けをつけて踊る友達が何人かいました。
このフレーズはいつも私の耳に残っていて、
あるひとつの事件を思い出さずにはいられなくなります。
 
その事件を書いた記事を貼っておきます。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーー

鳩のフン公害が問題になっていた頃のお話です。

あるとき、ベランダの隣の家との境に
鳩が巣を作ってしまいました。気づいたときには
ヒナの鳴く声が聞こえていました。
「鳩の巣を見つけたらただちに撤去すること」という
団地の決まりがあったのですが、
両親は、さすがに生まれたヒナごと巣を撤去する…ことは
できなかったようです。
そこで、ヒナが巣立つ日まで、家族で罪人のように
コソコソして暮らしていました。
けれど、ついに誰かに通報されてしまいました。
あげくに団地の世話役の方が我が家にすごい剣幕で押し入ってきました。
ベランダでは灰色の大きく育ったヒナが2羽、ちょこんと巣におさまっていました。

次の瞬間、その世話役の人は、怒り狂いながら
私たちの目の前で、ヒナの首をボキンボキンと折ってしまいました。
未だに、ヒナの首がプランっと垂れ下がった映像を
忘れることができません。
当時の大人の世界のルールでは、鳩は悪の存在で
ルール違反も、即罰せられて当然のことなのでした。
でも子どもの私は、それとは別次元で、
その出来事を静かに見つめていました。

別の時、私は友達と子猫を見つけました。
私も友達も飼えません。けれど子猫がノミだらけだったので
せめてお湯で洗ってやって、もう一度この場所に戻しておこう…と
決めました。
ところが、子猫を洗ったあとで 元の場所に置いていく段になって
「あんたたち猫を捨てるの?」と知らない大人から
厳しい注意を受けることになりました。
おまけに、情が移ってしまい
私も友達も猫を抱いたまま、ひたすらうろうろ
ほっつき歩いていました。私は団地の決まりで猫は飼えず
友達はすでに猫をたくさん飼っていて、親から厳重注意を受けていました。
しまいに、私も友達も涙をこぼしながら
友達の家に猫を連れて行きました。
友達のお母さんは、私の顔を見るなり「この猫拾いがー!!」と言いながら
私のほっぺたを引っ張ったあとで
ため息をつきながら子猫を引き受けてくれました。
実は、そこの家の前の猫も、前の前の猫も私が拾ってしまった子でした。
今思うと、本当にいっぱい迷惑をかけました。
○ちゃんのおばちゃんありがとう!!今も感謝しています!

子ども時代って、こんな風に傷ついたり癒されたりの連続でした。
そうした経験の中で、何が正しくて、何が間違っているのか
本当のものは何か?
感じたり考えたりしながら、成長してきたんですね。

ーーーーーーーーーーーーーーー
 
この記事のハトの首をへし折るという出来事が、どうして起こったのか?
その背景について、もう少し記憶を掘り起こして書いてみたいと思います。

この事件が起こる数ヶ月前から、
「ハト公害」と言う言葉が、激しい怒りを伴って世間を賑わせていたように思います。
私の住んでいた団地でも、
「ベランダに干したふとんにハトが糞をする」という理由で、
ハトを徹底的に排除しよう!!
という意見が飛び交っていました。
私の両親も同様の理由で、ハトを嫌がっていました。

ところが、ベランダに出していた家具と隣のベランダとの境界にある隙間に、
ハトが巣をつくり、ヒナがすでに孵ってしまっているのに気づいた時、
ピィピィ鳴く愛らしい姿を前にして、
それらを殺すことまではできなかったようです。
そこで、家の中でまで小声になって、
「どうせ鳥のヒナなんて、すぐに飛べるようになる。あれらが巣立ったら、
あの隙間を埋めてしまおう」と相談していました。

ところがある日、近所からの通報があって、
家の中に乗り込んできた団地の世話役の方の手によって、
私と妹という幼い子どもの目の前で、ハトのヒナの首をへし折られる…
という残酷な出来事へと発展してしまったのです。

この団地の世話役の方は、
礼儀正しくまじめな会社員の方で、
2人の、私と妹より年下のお子さんの父親でもありました。
そうした方が、なぜ、
もしハトのヒナを処分するにしろ、そっと、見えない場所ですることができなかったのか?
なぜ、見せしめのように、ハトのヒナの首はへし折られたのか?
そこから感じた強い憎悪のエネルギーは何であったのか?

私は何度かそのことについて考えたことがあります。

私の住んでいた団地というのは、
美しい桜の並木で有名な場所で、
毎年お花見シーズンには、テレビ局も訪れる場所でした。
そうした良い環境のイメージのおかげで土地は高騰し
団地に住んでいるものですら、
どこかで高級住宅街にすんでいるという特権意識を抱いて暮らしていました。

しかし桜と言うのは、一時期、目を楽しませてくれるけれど、
害虫も多く、害虫駆除の薬の散布や、毛虫の大量発生やらで、
常にストレスを生じさせる木でもありました。
それで、誰もが、桜に敵意すら抱いていたのですが、
それを表に表現する人はいませんでした。

当時、団地に住んでいる人と言うのは、四国、名古屋、沖縄…など
地方から来た人の寄せ集めでした。
ですから、当然、それぞれ、考え方も感じ方も違います。
しかし団地という、あまりにも密接した空間を共有しているため、
お互いに何か不満があっても、
それを口にする人もなければ、
ささいな口論というのも見かけたことはありませんでした。
しかし一見仲がよく、会えばあいさつする間柄の中で、
お互いへの不満や憎悪は、多々存在していたようです。

田舎者の母は、近所の子にねだられれば、
ホットケーキやおやつを焼いて食べさせたりしていましたが、
食事前に甘いものを食べた…という理由で、
そのうちの子が外で立たされているのを見た時、
母に告げることもできず、
私は悲しくなって団地の陰で泣いていました。
 
 
私の住んでいる団地の向かい側の団地に
変質者とうわさされる男性が住んでいました。
年は20~30歳くらいの見るからにもっさりした外見の男性で
いつも近くの公園のブランコの近くにいたように思います。
私自身が被害にあったわけではないので
あくまでもうわさなのですが、
何人かの幼女がブランコの後ろから抱きすくめられた…という
話をよく耳にしていました。

そこで私が公園に行くときや夕方の習い事に行くときは
近所の男の子をまるで護衛のように
あてがわれていた(?)記憶があります。
男の子と言うのは、2人いるんですが、ひとりは本当の仲良しで
小学校の高学年になるまで気持ちの通い合う子だったんですが、
もうひとりは少し年上の苦手な子…。
親同士の気遣いが重かったです。

今の時代なら、近所の人がそんな事件を起したとなれば、
住民同士で団結して追い出しにかかると思うのです。
ですがその時代は、いつもその男性を警戒しながらも
誰も何も言い出せずにいました。

また、そんな折、近所の年上の女の子のお父さんが
近くの路上に車を止めていた男性に殺害されるという
痛ましい事件がありました。
そのお父さんはごく普通のサラリーマンで
また殺害した男性もごく一般的な男性だったと記憶しています。
殺害の理由は おそらく誤解で、とてもささいなものでした。
いつも車をいたずらされて腹を立てていた男性が
たまたま通りかかって車に触れてしまった
女の子の父親を刺してしまったようなのです。
(子どもの時に聞いた話なので正確なことはわかりません。)

あまりの突然のことに、
事件前の口げんかひとつない住宅街のクリーンさと
事件後の何事もなかったかのような静かな(うわさに忙しい人こそいましたが)
光景がどこか異様な風景として記憶に刻まれています。

そんな中で、いつも悪口を言われ、憎まれ、毛嫌いされ
何とかしよう!という住民の話し合いの対象となっているのは
農薬の匂いでも、近所の人の嫌なところでも、変質者でも
女の子の父親を奪っていった殺人者でもありませんでした。

ハト!
ハト!
ハト!
ハト!

団地の人々は、ハトに怒ってました。
ハトをののしり、憎み、いつも何とかして駆除しなければと
頭を悩ませていました。

ハト!

そんなある日、
2羽の小さなハトは、首を、ふつうの人の手で、へし折られたのでした。
それを残虐だと感じる人は、いないかのようでした。 
子どもの目の前で、そうした行為に走ることを
とがめる人もありませんでした。

その後も平和で、会えばみなにこやかに挨拶する団地暮らしは続きました。

しばらくして
「だ~れが殺したクックロ~ビン~」という歌が
友達の間ではやりはじめた時、
私は何度もプラン~と垂れた小さな首のことを思い出しました。

子どもの変化 大人の変化

2017-05-19 07:24:14 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)
写真以外は過去記事です。
 
今年も、地域のキャンプの手伝いと
ジュニアリーダーの研修に行ってきたうちの夫。
手伝い始めた当初の5~6年前と、この1~2年の
子どもたちの変化と、大人たちの変化にとまどいが隠せない様子です。

とにかく年々、子どもたちが幼くなっていることに
危機感を感じていました。
「幼いって?」とくわしくたずねると、
自分で決められないのと、
ちょっと難しくなると、考えもせずにすぐ大人に
やってもらおうとする高学年の子がほとんどなこと、
簡単な質問で、自分がわかっている場合もミスがこわくて誰も
手をあげない……そのため、シ~ンとしたしらけた瞬間が
しょっちゅうあるみたいです。
5~6年前まで、子どもたちは
自分たちで失敗してもどんどんテントを立ててました。で、うまくいかなくなって、試行錯誤をつづけたあげく大人にちょっとだけ助けを求めてきていたのだそうです。
それが、この数年、ひとりの子が「これ間違ってないかな?」なんて言おう
ものなら、
どの子も手がとまって呆然と立ち尽くす
のだとか……。

それと、とにかく手伝いの親たちが口出して口出して、
手も出して~

子どもがちょっと問題を見つめて考えてみようとする間も許さずに
しゃべりまくるので、

やる気なくたらたら指示にしたがう、いかにも面白くない
キャンプになっちゃうんだそうです。

「子どもの頃と言えば、学校の授業なんて面白くないから、
キャンプとかクラブとか、面白いことでいっしょに遊んで仲良くなった
友だちと今も親しくしてんだけど……。
大人が教えてばっかりで、子供同士、全然仲良くなってないんだな~。
いっしょに間違えて、笑いあうとかなくて、
ミスして友だちに笑われたくなくて、構えている子ばかりだ」
と夫の……感想です。
ジュニアリーダーの研修も、少し前のように自覚があってしっかりした子が
ほとんどいなくなって、まるで幼児のまま大きくなったような
中学生と、幼児に教えるように
一挙一動を教え込みたくって、指示したくって、
子どもにつきまとう大人の姿が目立って、
子どもが友だちと少しも楽しそうに遊んでいなかったのだそうです。
それなのに、大人の会議では、子どもに何を教えようか~という
教育的配慮ばかり話し合われていて、
楽しさなんてそっちのけなのです。

夫の話……幼児といっも接している私には、
「これから先、子どもたちはどうなっていくんだろう?」と
頭を打ちつけられるものでした。
今の小学生より、最近の幼児は
さらに顕著にこうした特長があらわれていて、
3歳児でそうした態度をしめす子が少なくないのです。
そして、口出し手出しがやめられなくなってしまう……大人も。

話は変わって、昨日、レッスンに来た知的ゆっくりさんの
小1の☆ちゃんが、この数ヶ月で見違えるように
意欲的で自信に満ち溢れた態度になって、とってもうれしかったです。
昨日はいっしょにポケモンのゲームをしたのですが、
4ヶ月くらい前までは(はじめて会った頃は)
5まで数えることすら危うかった☆ちゃんが、
さいころの目をさっさと読んで
きちんとゲームのルールも理解して楽しく遊べました。
また、ゲームの出し入れの手伝いをていねいにすることも
きちんと身につけて、お手伝いに誇りを感じていることがわかりました。
お家では、しょっちゅう、数字を読むようになって
数に強い興味を持つようになってきたそうです。

☆ちゃんは、最初すべてに自信がない子でした。
でも虹色教室に通うように
なってからは、虹色教室でだけ、やる気のある子でした。
私の前ではできてもできなくても手をあげまくる姿が見られました。
でもお家ではあいかわらず、何でもいやいやだったようです。
それが、その後、お友だちができて以来、
お家でも学校でも
意欲とやる気がみなぎるようになってきたようなのです。

機能不全家族について  もう少し 続きの続き

2017-05-16 21:18:44 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

先の文章にこんなことを書きました。

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父も母も妹も、自分の親と自分自身がプログラムした思考の罠が

自分の人生を蝕んでいくことから

どんなにあがいても抜け出せなかったのに、どうやってわたしはそこから出たんだろうと考えると、

いくつか思い当たる理由があります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ひとつ目の理由として、多くの親以外の大人たちから可愛がられてきたことを書きましたが、

自分が囚われている認知の歪みから解放されるためには、

それとは別に

自分が長年培ってきた技術のようなものも

役立ったと感じています。

 

子どもの頃のわたしは、とにかく高いところに登るのが好きでした。

当時は、三輪車に乗っているような子も、団地の前の自転車置き場の屋根の上を

遊び場にしていましたから、

それはわたしに限ったものではなかったでしょうが、

子ども時代の記憶の半分くらいは、どこか見晴らしのいい場所から、

眼下を俯瞰して眺めた光景で占められています。

 

 わたしの住いは、山を切り開いて作られた公共団地で、

周辺の道はたいてい斜面でした。

坂を上へ上へと登って行って、もうこれ以上登れないというところに着くと、

突然、パアッーと視界が開けます。

 

それまでは見えなかった反対側の景色や

下からは見えるはずもない団地の屋根や

建物で刻まれていない空が目の前に広がるのです。

 その瞬間がたまらなく好きで、来る日も来る日も、どこかに、何かに、

登っていた記憶があります。

 

わたしは、そうやって何度も何度も高いところに登りながら、

「高いところに登るまで見えている風景は、自分の目で確かに確認し、できるだけ詳細に正確に捉えたところで、

見晴らしのいい場所に着いたとたん、

それまで見てきたものも信じていたものも、

それは全体の一部に過ぎない。

自分が歩いている場所から見える景色が限られていたから、それが全てを覆っているように

見えていただけなんだ」

ということを意識していました。

 

そうやって、高いところに登りながら身体で感じ取っていたものは、

あらゆる物事を考える際にも影響して、

「わたしが見ていること、感じていること……は、実際に自分の五感で捉えているから、

信用できる。自分の感覚が信じられないわけじゃない。

わたしは、自分の周りで起こっていることを見落としなく確認していく自信があるし、

それについて客観的に判断をくだすこともできるはず。

その正誤が問題なのではない。

ただ、今という経過点で、自分が感じて、考えて、こうだと信じているものは、

もう少し見晴らしのいいところに着くまで保留にしておかなくてはならない」

と、考えるようになっていました。

 

そんな風に考えるようになったのには、むさぼるように読んでいた児童文学の世界に依るものも

あるかもしれません。

 

児童文学の世界の主人公たちは、一生懸命、今を生きていて、

真剣に自分で感じて考えて、世界にぶつかっていきます。

しかし、ほとんどの場合、いつしか、

最初に信じていた小さな世界観を打ち砕かれて

より大きな視野から世界を眺めるように成長していくのです。

 

わたしはそうした主人公たちに自分を重ねながら、

今、自分が「絶対にそうだ」と信じていることも、

これから先、「そういう一面もある」という全体の一部へと変化していくかもしれない

と予感して、よくよく考えた上で結論が出たら、

その考えをいったん保留にしておく習慣を身につけていきました。

 

先の記事で、こんなことを書きました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今、自分が「絶対にそうだ」と信じていることも、

これから先、「そういう一面もある」という全体の一部へと変化していくかもしれない

と予感して、よくよく考えた上で結論が出たら、

その考えをいったん保留にしておく習慣を身につけていきました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こうした考え方を身につけたのは、

反面教師としてですが、

父や母の影響が大きいのかもしれません。

 

父にしても母にしても、自分の感情を揺さぶるような何かを前にしたり、

動揺する出来事にぶつかると、

現実をていねいに検証しようとせずに、

最初に「こうだ」と飛びついた考えに、

ずっと、しがみついていることがよくありました。

 

趣味や遊びのルール上では、物事を緻密に分析し計算高い父が、

同じ趣味や遊び上の

「それは本当に確率的に得なのか」といった疑問には、

まるで自分がクジを引いたら一等しか当たらないと信じている幼児のように

バカげた期待に執着していました。

 

母は母で、本当に心が柔軟で気持ちの優しい人なのに、

妹や親戚の一部の人に対しては、

どんなに説得しても、

初めにつけた色眼鏡をはずして、相手の身に自分を重ねてみようとは

しませんでした。

 

それは、子どもの目にも、

「たったひとつの考え」が、

「他のたくさんの可能性を考えない」ために利用されているように映りました。

 

また、ただの思いつきや決め付けのような「根拠のない考え」も、

繰り返し心に刻み、自分に信じ込ませていけば、

後から得たどんなに有力な証拠や疑いようのない現実も黙らせてしまうほど

力を持つことがあるのを感じて、恐れました。

 

そうした両親の姿に胸を痛めるうちに、

わたしは自分が見たり、感じたり、考えたりしていることを

できるだけ言葉にして整理しながら、

先の記事に書いたように即断を避けて、いったん考えを保留しておくようになりました。

後でさまざまな別の視点から眺めなおしてみるためです。

 

子ども時代を通して、わたしが一番関心を持ち、

何度も何度もさまざまな角度から

観察し続けていたのは、

自分の感情や思考の動きです。

 

児童文学の作家になりたい気持ちが強かったので、

ピアニストを目指している子がピアノの練習に明け暮れるように、

自分の心の中を移ろい続ける感情や思いを

とにかく言葉にしなくちゃいけない、言葉で表現しなくてはいけない、

言葉に変換する練習をしなくては作家になれない、という焦燥感に突き動かされながら

自分の心と対峙していたのを覚えています。

そうした癖は、ずいぶん小さい頃からあったのですが、

それはわたしの自分の心を守る自衛手段でもあったからなのかもしれません。

そんなわけで、現実の世界で泣いたり笑ったりして生きているわたしの背後には、

常に自分の心の中身をスケッチしようとしている観察者としてのわたしがいました。

 

大人になってそれらふたりのわたしを統合する必要を感じるまで、

幼稚で、逃避的で、ぼんやりと空想に浸っているか、感情に流されて衝動的に動いているか

している自分と、

クールで大人びていて、いつも冷静沈着で、一風変わった考え方をする自分が、

 互いにあまり交わらずに、ひとつの身体に同居しているようなところがありました。

 

昔からささいなチャレンジにも尻込みして、やってみようともせずに逃げてばかりいる一方で、

周囲の大人たちも茫然とするような困り事にぶつかった時には、

『長靴をはいた猫』という童話の猫のように

何事も先回りして策を練っておいたり、

 『3枚のお札』という昔話の和尚さんのように、

鬼婆をモチでくるんで飲みこみながら冗談を言ったりするような

途方もないアイデアやユーモアで解決を図ろうとする自分の別の一面が、

突如、顔を現していましたから。

 

そうした自分の別の一面が顔を出す瞬間を感じた

8歳か9歳の頃の印象深い思い出があります。

 

母方の田舎で海水浴に行った際、

ビーチボールごと波にさらわれて、

ひとりで沖に出てしまったことがありました。

流されている原因である大きすぎるビーチボールを手放して、

海底に足が届くところまで泳いでいく決心がつかないうちに、

必死で水を蹴る力をはるかにしのぐ波の力に運ばれていました。

事の深刻さに気づいた時には、浜辺に戯れる人々の姿が小さすぎて、目で確認するのが難しいほどで、

周囲は無音の世界でした。

それは流されているわたしがあちらからよく見えないこと、

いくら大きな声で叫んでも、あちらには聞こえないことを意味してもいました。

足元には奈落へ落ちる裂け目のような黒い海がありました。

 

海面に巡らされたオレンジ色の浮きが作る境界線を目にした時、どうあがいても

助かる見込みはないと悟った瞬間、

わたしは泣き叫んだり、怖がったりするのをやめて、

突然、頭を、ひどく合理的で冷淡にも思える考え方に切り替えてました。

 

「おそらくわたしは、このスイカ柄のビーチボールの空気が抜け次第、

しばらくもがいて力つきて死ぬ。

死ぬのはとも怖いし、水が鼻や口の中にどんどん入っていく時は苦しくてしょうがないはず。

でも、泣いても、叫んでも、怖がっても、経過も結果も同じなら、

万にひとつでも生き残れた時に

将来書く小説の一部に書き加えられるように、

今の自分の目が何を見ていて、頭が何を考えていて、心が何を感じているのか、

調べて言葉にしておこう」

そう考えて、

浜辺を眺めると、小さな無数の光が、

まるで夜景のキラキラした街の光の粒を切り抜いて、海と浜の隙間に埋め込んだ

ように輝いていました。

 

「水をたくさん飲んで苦しんだ後には、

もし天国とかあの世とかいう場所があるなら、黒い海の底でもう一度、

こんなキラキラした光を見るのかもしれない。それともずっと死んでしまったままなのかな?

わたしが死んでしまっても、この世界は今まで通り、そのままあるんだろうけど、

わたしが死んだ次の日に、この世界が爆発して消えて無くなったところで、

わたしからすると、どうでもいいこと、何でもないことになってしまうのは不思議だな。

生きている時はこんなに大切な世界なのに。

死んでから、今のこの世界があるのかないのか想像しようと思ったら、

生きているわたしがあの世があるのかないのか

想像するのと同じになってしまうのかな?」

 

空は青く澄んでいて、自分が牧場にいて、草を踏みしめながら空を眺めているだけなんだと、

信じようと思えば、信じてしまえるほどのほがらかさでした。

 

その時、ふいに海水浴場の監視に回っているらしいボートが近づいてきて、

わたしを引きずりあげるようにしてボートに乗せると、浜まで送ってくれました。

 


機能不全家族について  もう少し 続きです

2017-05-15 23:27:26 | 日々思うこと 雑感

過去は変えられないものなのに、世代間連鎖を断ち切ることができた理由のひとつに

親以外の大人たちから注がれた愛情を挙げると、

そうした縁に恵まれなかった方に対して、何のアドバイスにもなっていないようで心苦しいです。

でも、そんな方も、

自分の子どもたちに負の連鎖をつなげないための方法として、

こうした捉え方があることを知っていただきたくも

あり書くことにしました。

 

機能不全家族で育つと、何に対しても強い責任感を持つようになる方が多いと思います。

子育てをするにしても、親のような子育てはしたくない、子どもには幸せな人生を歩んでほしい、世代間連鎖を

断ち切りたいと強く望むため、親のがんばりだけで子どもの人生をコントロールしようと

してしまいがちです。

でもそうやって一生懸命がんばる方角に向けていた針を、

あまり無理をせずに、自分が楽しく安心して暮らすことや、

子どもがより多くの人と関わり、異なる価値観に触れることを受容するような

方角に向けることが、

長い間続いてきた問題を消滅させるカギとなることもあると、自分の体験から実感しています。

 

子ども時代を通して、わたしはいろいろな人から、可愛がってもらい、

わたしの個性を大切に扱ってもらった記憶があります。

 

両親が自分の問題でいっぱいいっぱいの時も、

わたしがわたしらしくあることを望み、ありのままのわたしを好きでいてくれる人たちを

いつも身近に感じていました。

だからわたしも教室の子や近所の子らと会う時は、ひとりひとりの個性の輝きと

ていねいに接していきたいと思っているのかもしれません。

また、自分の子ども時代のことをこうした記事に書くのも、他所の子もわが子と同じように

愛せる素地のある人が、今の時代でもそうして良いと思うきっかけになればと期待しているのかも

しれません。

 

 今もはっきりと記憶に刻まれているこんな出来事があります。

友だちとおしゃべりしながら近所をぶらついていた時、やっと目が開くか開かないかくらいの子猫を見つけました。

 

わたしはそれまで何度も捨て猫を拾っては、さんざん周りに迷惑をかけてきたという自覚がありました。

一件家に住んでいる親友のお母さんは、わたしが何年かおきに拾っては押しつけた猫を飼うのに苦労していて、

わたしに会う度に、「猫拾いさん、絶対、もう猫を連れてこないでよ。おばちゃんはもう猫は飼えないよ!」と

苦言を呈していましたし、

田舎に帰省した際は、わたしが子猫を拾ったために、母が駅前で子猫を入れた箱を抱えて

飼い主探しに奔放しなくてはならなかったこともありました。

そのため、普段なら、妹たちが捨て猫にエサを与えているのを見かけても、

「団地じゃ、猫を飼えないのよ」と注意して、猫に近づくこともためらっていたはずでした。

 

ただ、その日、思わずその子猫のそばにしゃがみこんでしまったのは、

子猫の皮膚がむき出しになった白い身体を、

無数のゴマ粒のようなものが這っているのが

目に着いたからでした。

それがあまりにむごたらしかったのと

こんなに気味の悪い虫にたかられていたら、誰も子猫を拾ってくれないと心配でならなかったので、

友だちとふたりで家の風呂場で洗ってやって、もう一度元の場所に戻しておこうと決めました。

 

母はパートに出ていて、留守でした。

まだふにゃふにゃした子猫ですから、

最初はおそるおそる濡らしたタオルで拭いて虫を取ろうとしていたのですが、

相手はしつこい猫ノミで、それではとても埒が明きません。

そこで、ベビーバスで赤ちゃんを洗うようなあんばいで、洗面器にぬるま湯をためて洗ってやりました。

すると、もともと弱っていた子猫が身体の力が抜けたように、くたっとなったのです。

自分のせいで子猫が死んでしまうのではないかと

血の気が引きました。

それからタオルにくるんで移動する間も、子猫の容態が気になってしかたがありませんでした。

いざ、子猫を元の場所に置いて去ろうとした時、駆け寄ってきた女性から、

猫を捨ててはいけない、捨て猫なんてとんでもない、とすごい剣幕でののしられました。

仕方なく、ふたたび子猫を抱いて歩きだしたわたしを、その女性はずっと睨みつけていました。

 

猫を抱いている間中、わたしの余計なおせっかいで猫が死んでしまうのではないかと思うと

頭がまっ白になって、

足がガタガタ震えていました。

そうして近所中をぐるぐる歩き回った挙句、

「絶対、もう猫を連れてこないでよ。」と言い渡されていた親友の家に向かいました。

 

わたしの姿を見て、呆れかえっていたそこのお母さんは、「飼えないよ」と繰り返し釘をさしていましたが、

泣いているわたしの顔を見るに忍びなかったようで、

しまいに、「猫拾いさん」と言って、わたしの頬を少しつねる真似をしてから、

子猫を引きとってくれました。

 

しばらくしてから、遊びに行くと、部屋のあちこちに積み上げてある本の上を

猫たちが占拠していて、そのそばにわたしが連れてきた子猫もいました。

そこのお家の気立てのいい母猫が世話を焼いてくれたようなのです。

 

親友の家のリビングは、壁一面が本棚になっていて、何の本が並んでいたのかさだかでは

ないのですが、分厚い百科事典がずらっと並んでいるコーナーがあったことは覚えています。

わたしが何かたずねると、そこのお母さんがいちいちそれを取りに行っては、

事典の一節を説明してくれていました。

その内容はひとつも思いだせないのですが、百科事典を引き出す後ろ姿は記憶に焼き付いています。

 

わたしが本好きなのを知って、数駅先の図書館まで連れて行ってくれたのは、

別の友だちのお母さんです。

遊びに行く度に、美しい色板や工作素材や質のいい児童文学に触れさせてくれる方でした。

ガラス張りのベランダでセキセイインコを放し飼いにしていました。

せっかく訪ねたのに友だちがいない日には、甘いミルクティーを入れてくれて、

しばらくそこのお母さんとおしゃべりした後で、抱きしめてから家に帰してくれました。

 

前回の記事にこんなコメントをいただきました。(子どもさんのお名前があったので、非公開にしています)

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先生の猫拾いさんの記事を拝読して、子どもたちは地域社会でお育てする、その意味をかみしめました。
先生は幼いころの出来事を社会的な意味を見出して覚えておられるのです。私事ですが、ギャンブラーな父と宗教家の母という対照的な2人に育てられ最近までインナーチャイルドに苦しんできました。
誰でも、完璧な親になる必要はなくて、みんなで子どもをお育てする意識が潜在的にもあれば、うまくいく雰囲気になるのかなぁと思いました。

ここからは、個人的なことですが、先日小学校一の息子のクラスで絵本の読み語りをさせていただきました。私の感受性が強いのは中学生のころからですが教壇に立ったときのくらすの 雰囲気が異様で、イライラした感じの空気がクラスの真ん中にあって敏感な子どもたちはほかの子どもをけったり叩いたりしていました。そうでない子どもたちはどこか、ぼーっとしていて何も受け付けない様子。
絵本を読み始めると、ぼーっとしている感じの子たちは絵本を見つめているのですが、世界に入り込んでいる様子ではない感じの子もいて私には衝撃的でした。
うまく書けませんが、教室のイライラ感(雲?)はなんなのでしょう?謎です。こんな中で何を学ぶのかふしぎです。とりとめなくてすみません。

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わたしの記事から、地域社会で子どもを育てていく意味を見出していただきありがとうございます。


話が少し脱線しますが、うちの子らがまだ小学生だった頃、「地域で子どもを育てていく」大切さと難しさについて

しみじみ感じたことがありました。

それを『本当に悪い子なの?』 という記事にしたことがあります。(時間がある方は読んでくださいね)

 

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 『本当に悪い子なの?』 

息子が小学3~4年生の頃
同じクラスに暴言をはいたり 暴力を振るったりすることが多く
クラスになじめない男の子がいました。
息子とは正反対のタイプで
おまけに息子には他に仲の良いお友達が何人かいたのですが
その子は毎日のように 息子と遊びたいから…と言って
遊びに来ていました。
せっかく遊びに来ても 数分もすると その男の子のワガママが過ぎて
息子たちは よそで遊び始めてしまい
私とその男の子でいっしょにゲームをしたり
遊んだりする日々が続きました。
この子は 私が友達でもいいんだな…と思うと
ちょっとおかしくもあり
時間が許せば遊んであげるようにしていました。

そのうち 
6年生になったその子は
ますます問題行動が増えたようで
たびたび悪いうわさを耳にするようになりました。
その子のお母さんは ずいぶん前に家出していて
暴走族に入っている兄と 粗暴な感じの父親と暮らしている
という話もうわさの中で知りました。

その頃になっても
その子は 私の元にちょくちょく遊びに来ては
兄のバイクに乗せてもらったことや
白バイへのあこがれなどを話して帰りました。

息子と同じクラスの他のお母さんたちは
その子の不良っぽい言動を気にして
子どもを近づけないように注意していましたが
私自身は その子が息子に暴力を振るうとは思えないし
息子もその子に誘われたくらいで悪いことをするとは
到底 思えなかったので
気にせず遊ばせていました。

あるとき その男の子が青い顔でやってきて
「学校のガラスを割ってしまった…。」と言いました。
わざとやったのか カッとなった時に乱暴が過ぎてしまったのか
事情はわからなかったけれど
「私も 子どもの頃 妹とけんかして
トイレに飛び込んで隠れていたら
妹がどんどんトイレのドアを叩くもんだから
しまいにガラスが割れて すごくびっくりしたことが
あるよ。ガラスがある時は
カッとしていても注意しなくちゃいけないね。」
と言うと、少しホッとしたような
なみだ目になって 帰って行きました。 
 
息子が6年生のある日
いつも何ヶ月か置きに演劇を見に連れて行ってたのですが
ちょうどチケットが一枚余ったので
その子を連れて行くことにしました。
誘ったのは 
息子の仲の良いお友達は みんな塾で忙しく
その日に都合が良いのは その子くらいだったからです。
それで 親御さんに伝えて
いっしょに劇を見に行きました。
終始 予想以上のはしゃぎっぷりで
もう楽しくてしょうがない様子でした。
劇場で会った私のお友達は その子を連れてきたことに
ひどくびっくりしてあきれ返っていましたが
思い切って誘ってよかったと思いました。

その時すでに 年上の非行少年たちとの交流があったようですし
もう一年経ったら 道で会ってもそっぽを向くのかもしれません…。
ふつうに暮らしているだけで 悪い道を進んでいきそうな環境で
その子の夢が「白バイに乗ること」だったことが救いで
少しでもいっしょにいれるうちに
「がんばって警察官になってね。☆くんは きっと良い警官になれるよ。」
と繰り返し言っておきたかったんです。


少しして 6年生の修学旅行がありました。
息子の帰りを学校の校庭まで迎えに行くと
子どもたちが 大きすぎるリュックをしょって帰ってきました。
引率の先生は ひとりの生徒をつかまえて
がみがみと叱りながら 歩いていました。
見ると あの子なのです。
きっとよほど悪いことをしたのでしょう。
でも どの子も
迎えに来た親が リュックを持ってやったり
「どうだった?楽しかった?」と声をかけたりして
楽しく帰宅していく中
その子ひとりお迎えがいないんです。
そんな心細い状態で まるで見世物のように叱られているのです。

たまらなくなって その子のそばまで行って
「自転車にまだリュックを乗せれるから 乗せて送っていってあげるよ。」
と言いました。するとそばにいたさきほど怒っていた先生に
「あなた だれですか?」と冷たい口調で聞かれました。
「この子は息子の友達なので…。」と言うと
ちょっとイライラした様子で どこかへ行ってしまいました。
その日 とても辛かったのは
他のお母さんたちの視線が冷ややかに感じられた
ことです。でも おそらく この子についての嫌なイメージが
先行しすぎていたために 場の空気が凍り付いちゃった
だけだと思うんですが…。
悪意があったわけでもないのに しばらく落ち込んでしまいました。

その子の粗暴な行動は
発達障害にあるのか 環境のためなのかはわかりませんが
どちらも根本的にはその子に因があるわけではないと思うのです。

私は今も その子について 「本当に悪い子なの?」と
疑問に感じています。

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文章の中では触れていないけれど、当時は、自分の選択でわが子たちを苦しめているんじゃないか、

先々、わが子に危害が加わるようなことにつながらないか、

という不安が頭から離れませんでした。

 

それでも、そうしたのは、その子の子ども時代は、

今後、もう2度と体験しなおすことはできない、という焦燥感にかられたからですが、

心配が取り越し苦労に終わってほっとしました。

 

 

話を前回の続きに戻しますね。

子どもの頃、さまざまな方から、単に地域の子として構ってもらうだけではなくて、

人と人とのつながりや絆を感じるような可愛がり方をされていたのを思い出します。


高校時代、定期テストの前に「いっしょに徹夜でテスト勉強しよう」と誘ってくれる友だちがありました。

徹夜どころか、夜更けに散歩に出たり、繰り返し休憩を取ったりした挙句、

早々と寝てしまうのですが、

快く迎えてくれる友だちのお母さんに甘えて、度々お世話になっていました。


そこのお母さんは和装や手芸が得意な方で、ある時、わたしと友だちに浴衣の縫い方を

教えてくださることになりました。

美しい色の布地を裁って、いざ縫い始める段になると、わたしも友だちもたちまち飽きて、

仕事を放り出して

おしゃべりばかりしていました。

それで結局、2着の浴衣を仕上げていくのは、友だちのお母さんとなりました。

 

そこのお母さんは、何かたずねると、遠慮がちに笑って、穏やかな調子で、

よく練られた思慮深い返事を返してくださる方でした。

わたしは悪びれもせずに、

一針一針と自分の代わりにそのお母さんが縫い進めていく傍らで、

あれこれと自分が聞いて欲しいことをしゃべり続けていた記憶があります。

 

高校生にもなって、ずいぶん幼い振舞いなのですが、

家では母子の役割が逆転して、わたしは母の悩みの相談役であり、支え役と指南役も兼ねていましたから、

こんな風にわがままな子どもの状態で過ごせる場所を必要としていたのだと

思います。

結婚後、わたしと友だちはめったに会うことがなくなったのですが、

友だちのお母さんは時折、こちらに連絡をくださいました。

数年前に母が亡くなる直前にも、田舎に療養に向かう母のことを心配して

親身になって相談に乗ってくださったことをありがたく覚えています。

 

数駅先にある図書館の司書の女性も、

図書館に通い始めた小学校低学年の頃から、

ずっとわたしを可愛がってくださった方です。

図書館に顔を見せると、貸出の受付の仕事を他の職員と交代して、

わたしの本選びに長い時間つきあってくれていました

その方がたびたびカニグスバーグの作品を勧めるのに、

表紙の絵が暗いため、なかなか手に取りたがらなかったのですが、

ある時、思いきって読んでみたら面白かったということがありました。

他のカニグスバーグの作品も探していたら、

その方が駆け寄ってきて、

こっちの作品はこんな話、あっちの作品はこんな話と説明しはじめて、

その姿が本当にうれしそうで、はしゃいだ様子だったことが印象に残っています。

たまたまその方の新しい勤務先の図書館が高校の最寄り駅のそばだったので、

そうした関係は高校生になっても続いていて、

資格もないのに、司書の臨時アルバイトとして雇ってもらったこともあります。

 

こんな風に子ども時代に可愛がってもらった人々というのはまだまだいて、

挙げているときりがありません。

面白いことに、自分が大人になって子どもと接する時には、

そうして子ども時代に出会った大人の方々の語り口調や癖やユーモアや喜び方や好みなんかが

知らず知らず、自分の内に蘇ってきて、

自分の性格の一部のように感じられることがあります。

そんな時は、子ども時代の不思議に触れる気持ちになります。

 

 

 


機能不全家族について  もう少し 1

2017-05-15 23:21:58 | 日々思うこと 雑感

記事内容から脱線して、自分の気持ちについて少しだけ書くつもりで、結局だらだらと長い話になってしまった

10~16までの文章。

わがままな振舞いが目立つ子にどのように接すればいいでしょう? 10

わがままな振舞いが目立つ子にどのように接すればいいでしょう? 11

わがままな振舞いが目立つ子にどのように接すればいいでしょう? 12

わがままな振舞いが目立つ子にどのように接すればいいでしょう? 13

わがままな振舞いが目立つ子にどのように接すればいいでしょう? 14

わがままな振舞いが目立つ子にどのように接すればいいでしょう? 15

わがままな振舞いが目立つ子にどのように接すればいいでしょう? 16

 

これで終わりにしようと思っていたのですが、

機能不全家族の問題にこれから向き合いながら子育てをしていこうとしている方から

コメントをいただいたり、

遠方に住んでいる親しい人からメールで苦しい胸の内を打ち明けられたり、

レッスンの中で世代間連鎖を断ち切る難しさを相談されたりするうちに、

あれでは少し不親切な答え方だったと思い直しました。

 

たいした力にはなれませんが、もう少しだけ、自分が当事者としてこの問題と関わり続けて

気づいたこと、理解したことについて書いてみようと思います。

 

先の記事を書いている最中に、次のようなコメントをいただき、

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いつも拝読させていただいております。
私は父がDV、母が家族に共依存しているという典型的な機能不全家族に育ち、
3歳、1歳の育児をしています。
今、実家は家族の機能不全関係が表面化した問題に直面しており、
私は、両親を手助けすれば重い依存がのし掛かってくることが予想され、常に実家が心配で育児は上の空、という状況です。
私が親として、母の優柔不断で家族の機嫌を取ってばかりの面、父のストレスが溜まると怒りという形で爆発する面を受け継いでしまっていないか、自信なく子育てしてます。

3歳の息子のわがままかんしゃくが、私の育ちを投影しているのではないかという心配があること、
過去の記事から先生が機能不全家族に悩んでいらっしゃったお話を聞き、勝手に親近感を持っていたこと、
から、今回の記事を興味深く読ませていただいています。

先生が、機能不全家族に悩まされながら、どのように精神衛生を保ち、子育てをされていたのか、
どのようにして、世代間連鎖を断ち切ったのか、
機会があればお聞かせ頂きたいと思っております。

先生とお会いできる機会があればとレッスンの応募を何度かしておりますが、ご縁がなく残念に思っています。
けれど、先生の記事に出会えただけでも育児の指針、心の支えとなり、とても有難い出会いと思ってます。これからもどうぞよろしくお願いします。

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その後、

記事を16まで書き終えた時、とてもありがたい感想をいただきました。

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 先日コメントで質問をさせていただいた者です。
先生の記事、噛み締めながら拝読いたしました。
機能不全家族に悩まされたり、子育てをしながら自分の育った道を思い返して苦しむ中、有難く、心救われる気持ちがしています。
先生の優しさと強さの源を見せて頂いた気がしました。
自分の置かれた状況を被害的に捉えてばかりで子育てに自信を失っておりましたが、心を澄ませて自分らしく道を拓いていけたらという気持ちになりました。
心に染み入る素敵な物語のお話でした。私もいつか自分と家族の影を抱きしめて、最後に丸い円を描けるようになりたいです。
ありがとうございました。これからも記事を楽しみにしております。

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心を澄んだ状態に整えて、自分の生き方を考えておられる姿に

息を引き取るまで共依存の状態から抜け出すことができなかった母の人生が

誰かの未来の中で活かされるようでうれしく感じました。

 

しかし、同時にコメント主さんの前向きで純粋な思いが、

わたしが書いた文章によってより傷つくことにならないか

少し怖しくもあって、数日間、この記事に続きを書くべきかどうか悩んでいました。

 

怖いという言葉をここで使うのは、残酷で奇妙に聞こえますが、わたしの正直な思いでもあります。

今から夜の登山をしようという人や

砂漠に入って行こうとする人に、

そこを抜け出せた体験を語り、方法を伝えても、

その方法とは、山を消す魔法でもなければ、砂漠から出る地図でもありません。

 

より過酷な状況になっても、自分を取り戻すために

一歩一歩歩みを進めるためのエールを送ることしかできません。

 

それでもそれをやり抜くための知恵なら

言葉にすることができるかもしれないと思い、続きを書くことにしました。

 

機能不全家族という言葉を耳にすると、

それは家族間の関係の問題であって、前向きながんばりや純粋な意志や深い愛情によって、

乗り越えていけるようにも思われます。

 

でもその背景には、依存症の問題が隠れていて、

少し頼りない性格程度に思われる共依存のようなものであっても、

社会から敵視される薬物依存同様に

人の心や意志やがんばりだけではどうしようもないものがあることを

わたしはこれまでの数十年間の中で、心の深い部分で実感しました。

 

わたしは、先に紹介したコメント主さん同様、

父のDVやギャンブル依存、母の共依存などの多くの問題を抱えた家庭に育ちました。

わたしも妹もそうした機能不全家族の中で割り当てられた役割……

妹は「スケープゴート」、つまり「悪い子」の役を、

わたしは「プラケイター」と「責任を負う子」、

つまり親をなだめたり、支えたりする家庭内ソーシャルワーカーの役と

家庭内の混乱に秩序をもたらすために一生懸命がんばって親の期待に応える役を

担って子ども時代を過ごしました。

 

そのように子ども時代を子どもとして生きれなかった子は、

心に慢性的な喪失を抱えたまま

健全な自己愛や自尊心を獲得できずに

大人になっていくと聞きます。

自分を信頼し、「やれば何とかなる」といった前向きな姿勢で、人生を切り開いていくことが

難しいとも言われています。

 

父母の思い出話から推測するに、おそらく父の父母もその父母も、また母の父母もその父母も

家族の関係の問題によって自分たちの人生を蝕まれてきたのだろうと思われました。

そして、父も母も、表現の仕方ほど異なるものの、

アダルトチルドレンの特徴をたくさん持っていました。

 

父は、白黒、二極化した思考をしがちで、人を試す発言が多く、怒りを抑えられず、

漠然とした不安感や空虚感をギャンブルへの依存で埋めていました。

母は、自己信頼感が希薄で依存心が強く、何でも人にたずねて、自分で判断することができませんでした。

いつも周囲に合わせばかりで、人からの頼みごとを断れず、自分の人生に希望を抱けないまま

何となく日々を過ごしていました。

 

 そんな両親のもとで育ったわたしは、身体的にも精神的にも脆弱な子どもでしたし、

実際に心が深く傷ついてもいたし、ずいぶん遠回りをしながら大人になりはしたものの、

幼い頃から、どんな時も、父の考えにも母の考えにも染まらないところがありました。

 

たとえ一時期、両親の思考のあり方の影響を受けて認知に歪みが生じていたとしても、

それに気づいて、自力でそこから抜け出す知恵も持っていました。

 

そして、今、生きづらさを感じずに生活しているし、わが子たちが

自己愛や自尊心や自己信頼感が成長していく過程を支えてあげることもできます。

 

父も母も妹も、自分の親と自分自身がプログラムした思考の罠が

自分の人生を蝕んでいくことから

どんなにあがいても抜け出せなかったのに、どうやってわたしはそこから出たんだろうと考えると、

いくつか思い当たる理由があります。

 

そのひとつは、

両親の伺い知らないところで、

両親や祖父母以外の

さまざまな大人たちから、自分の子どもに対するような深い本物の

愛情をかけてもらっていたからじゃないかと思っています。

また、大きくなるまで続いていた幼なじみとの心の絆も

両親との関わりに別の視点をもたらしてくれました。

 


祇園祭 <熱い工作熱 2>

2017-05-14 21:04:45 | 工作 ワークショップ

 前回の記事に続いて、今日の工作の様子です。

小5のAくんとBくんが、祇園祭の様子を再現していました。

Aくんは山車。Bくんは、人形に着せる衣装です。

山車の車輪には、一枚一枚、金色の色紙が貼ってあります。どのパーツも

とてもていねいに作られています。

Aくんの工作技術は、わたしよりも上手で、プラスチックスのものに穴を開ける時は、

熱した きりやカッターを使っていました。

AくんとBくんも正三角形が転がる際の動点の問題にチャレンジ。

円の面積や円周の問題、比の問題なども解きました。

工作の後の算数は、とても楽しいです。どんな問題も解ける気がします。


徳島の渦潮、つり橋『星のブランコ』、交差する道路、宝箱 <熱い工作熱 1>

2017-05-14 18:58:46 | 工作 ワークショップ

今日は、午前、午後とも、小学生たちの燃えあがる(?)

工作熱に圧倒されっぱなしでした。

連休も明けて、落ち着いた生活が戻ってくる中で、

連休中に経験したさまざまな経験が、自分の内面できれいに結晶化したり、

次への好奇心につながっているようです。

小学3年生のAちゃんの『渦潮』。

ゴールデンウィーク中に徳島で見てきたそうです。

Aちゃんは、この頃、作りたいものを家でメモしてきます。

写真に撮りそびれたのですが、下の絵といっしょに、ぐるぐる巻く渦のような絵を描いた

ものを持ってきて、「ブラックホールのような……。」と書いていました。

「ブラックホールが作りたいの?」とたずねると、「ちがうよ」と言いながら、

あれこれ説明してくれたものの、結局何のことかわからず、

お母さんがお迎えにいらした時に、徳島で見てきた渦潮を表現しようとしたんだと

わかりました。

 

裏面も隙間なく青いビニールテープを貼るAちゃん。

どこまでも手を抜きません。

渦潮の中央部分は、ままごとで使っていた100円ショップのアイスクリーム用の

容器を使っています。渦は、なわとびのひもに青い毛糸をからめ、下地にセロファンをていねいに

貼って作りました。青いPPシートで作った水面の下には、水色のロウを敷く力の入れようです。

素材に凝っているため、本物の作品は写真よりずっときれいです。

 

 

小学3年生のBちゃんの交差する道路。

お家で留守番している幼い弟のために作りました。

Bちゃんは弟君のために何度も何度も、ミニカー用の道路を作ってあげています。

いつもすぐ壊されているため、今回は壊れにくさにもこだわってていねいに作りました。

いろいろな穴からミニカーがのぞけるようになっています。展望台と道路の上には

シート状の虫眼鏡を貼っているので、ミニカーが大きく見えます。

何度も作っているので、手慣れたもの。

あっという間にすばらしい作品ができあがっていました。

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下の写真は、小2のCちゃんのつり橋です。

先日、『星のブランコ』という つり橋を渡ってとても感動したそうです。

 

 

わり箸をたくさん並べて、布テープでとめてから、毛糸で編んでいきます。

つり橋の強度を上げるため、4角のわり箸は、はりがねでとめました。

女の子たちも、「きり」「カッター」「ニッパー」「ペンチ」といった

ちょっと危険な道具にも慣れてきています。

 

いっしょに来ていた小5のお姉ちゃんはきれいな宝箱を作りました。

お姉ちゃんがしていた正三角形が転がる時にひとつの頂点が描く図について

小2、小3の子たちも三角形やコンパスに触れながら学びました。

 

今日は、みんな工作にとても熱中していたので、算数のレッスンは、

それぞれ自分の作った作品について、まわりの長さや必要なものの数などを考える

簡単なものにしました。どの子も確かな思考力が育っています。


感覚が優れている子の工作のプロセス

2017-05-12 13:32:52 | 工作 ワークショップ

年長のAくんは、感覚が優れている男の子です。写真はAくんが作ったレコードプレーヤーです。

この日、Aくんは、タゴラスイッチの本で

レコードプレイヤーの上に「ピタゴラ」の文字のついた旗が立っているのを見つけて、

「これ、作りたい」と言いました。

 

工作の材料入れを物色して、適当な箱とDVDケースの一部を見つけてきました。

感覚がすぐれている子たちは、触感を楽しむことから工作に入っていくことが多々あります。

Aくんは、作りたいと言っていたレコードプレーヤー作りはそっちのけにして、

教室のままごとコーナーから見つけてきたおはじきをさすったり、手で押してみたりして、

長いこと遊んでいました。しまいに、掃除用の立方体のスポンジにおはじきを貼りたがりました。

まだ使っていないスポンジだったので、貼らせてあげることにしました。

といっても、テープでつく素材ではなかったので、おはじきごとスポンジをテープでくるむように貼りつけました。

 

このすべてを覆ってしまうという作り方も、感覚が優れている子たちが好む作り方です。

色なども、隙間なく塗りつぶしたり、紙や布テープを貼ってデコレーションする時も、小さい隙間にこだわって、

後から貼り重ねていくのです。

レコードプレーヤーの土台にした紙箱も、オレンジに近い黄色のガムテープでぐるぐる巻きにするように

覆いました。

道具の使い方を覚えると、完全にマスターするまで道具を何度も使いたがるのも

このタイプの子らの特徴です。

レコードプレーヤーの針をつけるために、目打ちで穴をあけてあげると、

自分でもあちこちに目打ちで穴をあけたがり、

「ぐるぐるまわすねじをここにつけたい」と言われました。

ねじをつけてみました。ボルトのサイズが小さくて下までとめれませんでした。

でも、それが幸いして、押し上げできる音の出るスイッチができました。

おまけにボルトを自分でつけるために開けてあげた四角い穴に、おはじきを貼り付けたスポンジがぴったりはまり、

押し心地抜群のスイッチになりました。

こちらも偶然、ねじがあるおかげで、押してもスポンジが入ってしまいません。

 

レコードプレーヤーがくるくる回転するようにペットボトルの上部を

箱の中に入れています。

 

こちらはいっしょにレッスンしていたBくんが作った刀です。

持ち手部分がすごく凝ったできだったのに、写真に納まっておらず、残念。

 

 


子どもの内面に 言葉にできないうっぷんが溜まっている時には?

2017-05-12 08:22:37 | 幼児教育の基本

2歳10ヶ月のAくんは、大らかで茶目っ気のある性質。

2歳を過ぎた頃から、周囲で起こっていることをじっくり観察して

自分なりの意見をよく口にしていました。

 

ところが今回のレッスンでは、ちょっと様子が違いました。

やりたいことがあっても、他の子がしている間は

身構えた慎重な態度で立ちすくしている姿が何度も見られました。

 

これまでニコッと顔をほころばせては自分の考えをつぶやいていたのに、

終始、表情をこわばらせて黙りこくっていました。

そういえば、数ヶ月前から、Aくんが何かしようとするたびにAくんのお兄ちゃんに

全て奪い取られてしまったり、Aくんが「これで遊びたいよ」と言っても、

「こっちで遊ぶんだよ」と無理強いされたり、

Aくんが何か言おうとするとお兄ちゃんが割りこんできたりすることが続いていたのです。

男の子の兄弟は、こんな風に周囲をヒヤヒヤさせるほどの衝突を繰り返しながら成長していく

ものです。

とはいえ、あまりに理不尽すぎる出来事の連続に、

さすがに大らかな気質のAくんも自分のなかに溜めこんでいるものがあるようでした。

 

この日、Aくんのお兄ちゃんは教室に来ていなかったのですが、お友だちのBくんのお兄ちゃんが来ていて、

いっしょに遊んでいました。

Aくんが、Bくんのお兄ちゃんと同じおもちゃを使いたがり、同じ遊びをしたがるものですから、

自分のお兄ちゃんとの衝突ほど激しくないものの、たびたび思いがぶつかりあっていました。

 

といっても、Aくんは以前のように自分の意見を主張しようとせず、黙ったまんま

固まっていました。その表情から、口には出さないものの

Aくんの心のなかには、さまざまな思いが渦巻いているのが見て取れました。

 

この日教室には、他の子が「これは、いらない」と残していった

工作作品が置いてありました。それを見つけたAくんは、ゆっくり

それをやぶきだしました。

あわててお母さんが注意しても、さらにやぶいていきます。

「それはね、お友だちが、もういらないよって言ってた作品だから、Aくんがもらうことができるよ。

好きなように改造してみたら?」と問いかけても、まだやぶいています。

やぶいているAくんの表情は、派目をはずして悪さをしている感じではありませんでした。

何か言いたいことがあるけど、うまく言葉にできなくて

いじいじしている……そんな感じです。

 

内面に言葉にできないうっぷんが溜まると、子どもによって、

家のようなリラックスできる場で大泣きしたり、

攻撃的になったり、消極的になったり、赤ちゃん返りをしたりします。

本人の心は深い混乱にあるはずなのに、そうした素振りを少しも見せずに明るく過ごしている子もいます。

でもそうした子は数年先に、

一年以上難しい時期(年長や小1の頃に、問題行動を繰り返したり、極端な赤ちゃん返りをしたりすることです)

を送る姿を教室でよく見かけます。

 

それでは、子どもの内面に言葉にできないうっぷんが溜まっているような時、どうすればいいのでしょう?

Aくんは、しょっちゅう遊びを妨害するお兄ちゃんのせいでストレスを感じつつ、

お兄ちゃんに強く惹かれていて、お兄ちゃんのすることが面白くてたまらない様子です。

今回のレッスンでも、葛藤を抱えて黙りこみながらも、同年代のBくんではなく、

遊びを一人占めしてしまうBくんのお兄ちゃんにピッタリひっついていました。

 

Aくんの態度が以前に比べて全体的に消極的で自分らしさを抑えたものに見えたので、

Aくんの今の「旬の興味」を探ってたっぷりやらせてあげる必要を感じました。

自分がやりたいことを存分にやりつくすことで、子どもは情緒の落ち着きと

自分への信頼感や自信を取り戻しますから。

 

Bくんのお兄ちゃんがブロックで作ったストッパーを使って、

並べたミニカーを一気に滑らせるという遊びをしていた時、

Aくんの関心はこの遊びのメインである「ストッパーをあげた瞬間、ダイナミックに滑っていくミニカー」にあるのではなく、

車と車の間にできる一台分の隙間にミニカーを詰めることにありました。

他の遊びでも、空所を目にするたびに、そこにあうものを

詰めようとしていました。

 

 
そこで、写真のような木のパズルを用意して、ひとつだけ隙間をあけてみたのですが、
Aくんは興味を示しませんでした。
 そういえばAくんは、どっしりとした手ごたえのあるものを扱うのが好きなのです。
また、ストーリーのあるお話が好きなので、ボードゲームや知育玩具も、
無機質な教具教具したものよりも、それを手にしてお話ししながら遊ぶような
どこか温かみのあるものやとぼけた風合いのものを好むのです。
 
ですから、同じ「詰める遊び」にしても、Aくんが操作を心地よく感じるもので、ストーリーを展開しながら
それらで詰めていく作業ができるように枠を工夫することにしました。
 

ブロックで枠を作って、新幹線を入口から入れます。

Aくんは入れた後で、奥に電車を詰めていく作業が面白くてたまらない様子でした。

 

それを見ていたBくんのお兄ちゃんが、「ぼくもやらせてよ」と

言いました。Aくんは、列車を全部抱え込んで返事をしません。

「お兄ちゃん、Aくんは今貸したくないみたい。

列車ね、Aくんがこうやってこうやってこうやって

ギューッて奥に入れて遊んでいるのよ。まだ、もっともっとそうやって遊びたいはずよ。

教室にはたくさんミニカーがあるから、

いっぱいいーっぱいお兄ちゃんに出してきてあげるよ。

先生といっしょに駐車場を作らない?

Aくんのより大きくて、車が出たり入ったりするところと面白いしかけが

いろいろあるようにしたらどう?」とたずねても、

「いやだよ。ぼくも、列車で遊びたいんだ。列車を貸してよ」とBくんのお兄ちゃんも譲りません。

Aくんはというと、絶対、ひとつも貸すものかと

電車を抱え込んでいました。

しばらく経った時、Aくんのお母さんが穏やかな口調で、ひとり占めをせずにお友だちとわけあう大切さを教えながら、

「お兄ちゃんにひとつ貸してあげたら?」と誘いかけていました。

Aくんのお母さんの対応は正しいものでしたが、

これまでさんざん有無も言わせずおもちゃを取り上げられることが多かったAくんに対して

「今回は特別」という機会を作ってもいい気もしました。

 

「Aくん、列車を1台だけ貸してくれる?」とたずねると、「いや」と小声で答えます。

「じゃぁ、この列車は貸してくれる?」「いや」

「じゃあ、これは?」「いや」

「Aくんは、一台も貸したくないのね。ぜんぶ、Aくんが使いたいの?」と聞くと、

真剣な表情でこっくりします。

 

「お兄ちゃん、あのね、前にAくんが遊ぼうとしたらね、だめー貸さないよ、全部取っちゃうよ、って

Aくんのお兄ちゃんがおもちゃを全部取ってしまったのよ。それに、今日は、Aくんがミニカー並べたいなと思ったら、

だめだめ、触っちゃだめってBくんのお兄ちゃんが言ったでしょ。だから、今度はAくんは、この列車は

全部自分で使いたいんだって。ね、今日だけ、お願いよ。

今日は、Aくんが列車で遊ぶことにして、お兄ちゃんは先生とすごくいいおもちゃを探しに行くことにしたらどう?

お兄ちゃんの大きな駐車場を作って、宝物も隠せるようにしたらどう?」とたずねると、

Bくんのお兄ちゃんは「いやだよ。ぼくは列車で遊びたい。列車、取っちゃうよ!」と言いました。

 

するとその時、Aくんが、いいことを思いついたという様子で、

「電気を消して、まっ暗にしたら、取れないよ。遊べない。」と言いました。

「そうよね。電気消したら、夜になっちゃうかな?

きっとおもちゃが見えなくなって取れないよね。暗くしてみよう」と言うと、

それまで緊張して引きつっていたAくんの表情がほころんで、

笑顔がこぼれました。

 

部屋の電気を消してみると、少し薄暗くなりました。

「見えるよ。それに取れるよ!遊べるし。」とBくんのお兄ちゃん。

「えっ、電気を消したのに、本当に見えるの?」とびっくりした様子でたずねると、

「見えるよー!!」と答えます。

「お兄ちゃんは、暗くても、ちゃんと目が見えるの?」

「見えるよー!」

Aくんはそのやりとりをニヤニヤしながら見ています。

昼間なので電気を消しても、ちょっと薄暗いかな程度なのですが、

自分以外の人の目にその世界がどのように映っているのか

興味をそそられたようでした。

 

再び、電気をつけた後も、「列車を貸して」と言い続ける

お兄ちゃんに、「じゃあ、列車に聞いてみようよ。

お兄ちゃんがたずねてみてよ、いっしょに遊ぶ?って」と言うと、

「それは、先生が答えるんでしょ?いやだ、遊ばないって先生が答えるんでしょ」

とお兄ちゃん。怒ったふりをしていますが、目が笑っています。

 

Aくんはというと、「電気を消して、まっ暗にしたら、取れないよ。遊べない。」と言ってから、

急に本来のAくんらしいほがらかな茶目っ気たっぷりの態度に戻って、

ああだから、こうだから……と思いつくままにいろいろなおしゃべりを始めました。

 

Aくんいわく、貨車は列車の仲間じゃないので、列車といっしょに

並べるわけにはいかないのだとか。

前にも後ろにも新幹線の顔みたいなとんがったところがないからだそう。

 

いきいきしたAくんらしさを取り戻したとたん、新しい遊びを試してみたり、

不思議さに心を奪われたように覗きこんだりする姿がありました。

 

前回の記事で、Aくんに笑顔が戻ってきて、いきいきとしたAくんらしさが

発揮されだしたのはなぜでしょう?

 

子どもにはいろんな意味で、十分なスペース(余白)が必要だと感じています。

しつけ上のルールにも。

時間にも。

空間も。

人間関係も。

大人の考えにも。

 

 子どもは、自分の本当の気持ちを言っても大丈夫というスペースが保証されていないと、

自分の思いを別のネガティブな行動で表現することがよくあります。

本当の気持ちを言っても大丈夫というスペースを作るとは、「その場で本音を言ってごらん」

とアクションをかけるような浅い対応ではなく、

子どもは過去の出来事を事細かに記憶しているものだし、従う従わないに関わらず

大人の言葉の影響を大きく受けているものだと知った上で

子どもの思いを尊重して対応することです。

Aくんの「貸したくない」「全部、ひとり占めしたい」という気持ちには、

「電車は、全部電車の仲間だからここだよ。電車が1つなくなったら、間があいちゃうからダメだ」という

今、敏感になっている秩序への思いが含まれているのでしょうし、

「ぼくが最初に遊んでいたよ」

「さっきBくんのお兄ちゃんに別のおもちゃを貸してもらえなかったよ」

「前の時はぼくのお兄ちゃんが全部取ってしまって、ひとつも貸してもらえなかったんだよ」

 という訴えや過去の体験で味わった不満感を再び心の浮上させようとする行為でもあるのでしょう。

また、「今、やっている途中だよ。面白いからもっとやっていたい。やりだしたことを落ち着いて完成させたい」という

発達上の要求や、

「お母さんや先生は、お友だちに貸してあげなさい。順番よっていうから、言うこときかなくちゃ。

でもお母さんや先生の言うこと聞きたくない」という反抗期の葛藤もあるでしょう。

 

そうした複雑に絡みあった思いを整理して、自分を素直に表現できる状態になるには、

どう見積もっても、たっぷり時間が必要です。

 

訴えを言葉にできないものも含めて聞いてもらう時間も必要です。

 

不満感が満たされる体験、

不満やイライラなんてどうでもよくなるくらい自分のやりたいことをやりきる時間もいります。

 

自分の個性的な資質を発揮することで、自分の強みを手にして

いやな出来事を眺めることも大事です。

 今回の話でいうと、Aくんの強みは、「物語を作っていく力」です。

Aくんは自分の強みを使って、

「電気を消して、まっ暗にしたら、取れないよ。遊べない。」というアイデアを

言葉にした瞬間から、

「おもちゃを取ったり取られたり……」というストレスフルな体験を

ごっこ遊びのストーリーの一部として、

ちょっぴり刺激的で創造的に関わっていく

対象へと変化させていました。

おもちゃを貸してくれず自分のおもちゃを執拗に取り上げようとする

存在だったお友だちのお兄ちゃんは、

Aくんの遊びの世界を豊かにする案内人へと変わりつつあるようでした。