虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

見えないものが見えるように 触れられるように  続きの続き

2018-06-06 15:15:34 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

(ひと押しで、一番下の段まで宝が落ちる仕掛け作りに知恵を絞る)

 

わたしの話を聞いて、しばらく考え込んでいた息子は、こんな言葉を返しました。

 

息子 「もっともっと上を目指して、知識を増やして、技能をマスターして……

という形で、『単純なものから複雑なものへ』と進歩していくイメージばかり

重要視されがちだよね。

子ども向けにパッケージ化された体験はどれも、単純なものをひたすら足し合わ

せていって、より複雑なものを構成していく価値観でできているようにみえる。

 

でも、実際には、それとは逆方向に

『複雑なものが単純なものに書き換えられていく』ってプロセスも、

大事なんじゃないかな。難しいものを簡単な言葉で言いかえることや

情報のダイエットをするって意味じゃないよ。

 

ほら、ブレークスルーが起こると、それまで苦労して大量の情報を使っても上手く

いかなかったことが、シンプルな新しいやり方であっさり片付くようになるよね。

一つの方法が、それまでの膨大な情報を必要としていたことが、

一瞬にして少ない情報で行われるようになるってこと。

 

そんなふうに複雑なものが単純化されることって、

一人ひとりの頭の中では、よく起こることだと思うよ。

単純なものを複雑化していくのなら、努力次第で、誰がやっても同じプロセスを

踏んで行くよね。

でも、複雑なものを単純化する時には、何に着目して、それをどう捉えたか、

どう認識したか、どう意味づけたかが関わってくるから、

人それぞれ違ってくるはず。

複雑なものをどう単純化するかは、ただ知っているのか、理解しているのかを

分けるポイントにもなると思うよ」

 

わたし 「複雑なものの単純化……。今まであまり考えたことがなかったけれど、

確かに教室の子どもたちにしても、無秩序なものから秩序を見つけ出したり、

ただ『できる』だったものを、応用のきく『わかる』の形にコンパクトに書き換える

ときがあるわ。自分で意味を作りだす力を使って。

複雑なものを単純化するプロセスでは、それぞれの子の資質や個性がはっきり

出やすい気がするわ」

 

息子 「同じものを見ていても、それをどう解釈するかは人それぞれだから。」

 

わたし 「そういえば、遊びにしろ、工作にしろ、算数にしろ、一人ひとりの子が

強く意味を感じる部分の違いは見ていて面白い。

今ある環境ですぐに評価されるものもあれば、最終的にはその子の一番大事な力と

なるはずなのに、今は無駄に見えるか、良い成果を出すのを邪魔しているものもある。

お母さんがそういう力を活かしてあげられることもあるし、

この子はこういう能力があるんだな、と心に留めておくしかできないこともあるわ。

★(息子)は、幼稚園時代から、サイコロやチップやトランプをさんざん散らかした

あとで、その並べ方や出し方の中に潜在している秩序に気づいたり、

不思議を感じる点を見つけ出したりするのが得意だったわよね。

教室にも、着眼点や秩序の見いだし方は違うけれど、

そうしたランダムに見えるものから応用のきくシンプルな気づきを得る子らは

たくさんいるわ。

遊びの世界で、子どもがそうやって自分らしい資質を使うのを見るのはうれしい瞬間よ。

考えてみたら、子ども時代、お母さんが複雑なものを単純化する対象は、

いつも目に見えているものの目には見えない部分だったわ。

★のように見えないルールというものではないんだけど。

お母さんにも、子どもの頃のお母さん独特の『複雑なものを単純化』する感性の

ようなものがあった、あった。

団地のぐるりにピラカンサっていうオレンジ色の小さな実を大量につける木が植え

られていたのをしょっちゅう眺めていたのよ。

どんな葉の形でいつごろ実がなるか、なんて、植物図鑑的な興味は微塵も持たない

まま何年も過ぎたのに、飽きもせずに眺めていたのは、

こんなことを考えていたからなのよね。

このオレンジ色の実の一つひとつが顔で、それに一つひとつ心が宿っていたとしても、

お互いに同じ根っこでつながっているなんて気づかないはず。

知らないからけんかして、相手が枯れてしまったら、

結局自分も枯れてしまうなんてことはあるのかな……といったこと。

ピラカンサを見ながら、人間の場合、地球上を移動はしているけれど、

移動しながらも地球の一部としてひっついているってことはあるのかな、とか、

星の光は長い時間をかけて地球に届いて、ずっと昔の姿を今目の前で見ることが

できると聞いたけど、心は、光と同じような性質かな、とか考えていたわ。

団地の壁に貼りついている蛾を眺める時も、蛾の模様が偶然の産物には見えなくて、

進化の過程にどうやって、意味を持った画像が取り込まれていくのか、

誰のどんな目に映ったものが、何世代もかけて美しい模様を作っていくんだろう、

とかね。

受験に役立ったわけじゃないけど、それを思い出すと、自由でのびのびした幸せな

心地になるから、教室で接する子たちには、そういうその子ならではの頭や心の

使い方の自由を守ってあげたいと思う。」

 

 


見えないものが見えるように 触れられるように   続きです

2018-06-06 09:25:37 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

 

(「100ってどんな数?」)

 

わたし 「パッケージ化された体験?

そういえば、去年はいろいろな意味で……いい面も悪い面も、外にあるものとしても、

教室内の課題としても……それを意識しながら仕事をした1年だったわ。

 

事前に山にカブトムシやクワガタを放しておく、

『夏休みの虫とりイベント』みたいにわざとらしいものから、

フランチャイズ化している習い事にしろ、

消費者のニーズを盛り込む幼稚園にしろ、

情報網の中で先回りがあたり前となっている子育て環境にしろ、

いろいろな場が、それ自体で完結しているパッケージ化されたものになりつつ

あるわよね。どれも悪いものじゃないし、商品としての質を約束しようとしている

だけでもあるんだけど、なら何が問題なのかといえば、参加している子が、

あれこれ得ることはできても、人や環境と直に会話していくことができない、

ということにつきるんでしょうね。

 

自分の反応で環境が変化するということがないし、

自分の考えが、結果を別の方向に持っていくこともないでしょ」

 

息子 「パッケージ化された体験は、未来がある程度固定されちゃうし、

ほかの体験の代わりにならないところがやっかいなんだろうな。」

 

わたし 「ほかの体験の代わりにならないって、どういう意味?」

 

息子 「子どもの時に、野球とか将棋に夢中になっても、

そのまま野球選手や棋士を目指す人は稀だよね。

たいてい、夢中になっていた時にした体験は、新たに興味を持った体験の中で

更新されていくよ。

パッケージ化されて他人から与えられた体験じゃなくて、

本当に自分が関わっていた体験の場合だけど。

次のもっと自分にぴったりくる体験をした時には、

前にやっていたことが別の形で活きてくるし、自分にとっての意味もわかってくる。

 ぼくは、子どもの時に必要な体験って、それが別の体験と代替え可能なものか

どうかが、先々役立つかよりずっと大事なことだと思うよ」

 

わたし 「そうよね。お母さんも子どもたちと接していると、

いつもそれを感じるわ。

子どもって一人ひとり個性的だから、同じ体験をしていても、

その体験の何がその子に響くのか、何がその子に残っていくのかは千差万別なのよ。

例えば工作していると、

「これこれこういうふうにしたいんだ」「ここはこうでこうで」と

やたら注釈が多いけれど、不器用さのせいで仕上がりがいまいちって子がいるのよ。

それでも本人が楽しんでいるなら、工作をしながらおしゃべりしていた体験が、

理科や算数の図を見ながら分析していくのを楽しいって思う感性につながって

いくことがあるの。

一方で、作るものはこちらの模倣で作り方も大雑把なんだけど、

できたものを使って遊ぶのが大好きだった子が、それを劇遊びに発展させて、最終的に、

絵本や物語を作るのがその子の日々の楽しみになっている子もいるわ。

他の子が工作する間、ドールハウスにミニチュアを並べる遊びを繰り返していた子が、

最近になって、動画を撮影するのに興味を持ちだしたってこともある。

そんな姿を見ていると、

工作だったら、工作をいかに見栄えのいい作品を作らせていくか、

ピアノならどうやって短期間に上達させていくか、

スポーツなら競技でいい成績をあげるかっていう世界だけで、

どんどん追い立てていくのはどうかと思うのよ。

もちろん、そうした系統的な学びができるように整った環境が大事な場合もあるのは

よくわかるの。

ただ、何もかもが、そうなってしまうことが気になるのかな」

 

 

(立体迷路)

 

わたし 「何もかもが、そうなってしまうことが気になる……なんて歯切れの

悪い言い方になってしまうけど、自分でも自分の思っていることを整理して

捉えられていない状態なのよね。

 

話が脱線するけど……

子どもの頃住んでいた団地の敷地にある土で、お母さんたち当時の子どもは

よく遊んでいたの。棒を拾って、お姫様や絵描き歌のコックさんを描いたり、

ケンケンパや陣取りゲームの線を描いたり、水で周囲を囲った島を作って

蟻の世界を作ったりもした。掘ると粘土が出てくるのが面白くて、

半日かけて土を削ってみたり、泥だんごには向かない土なのに、

大量のどろだんごをこしらえて、

1階のベランダの下にある隙間に隠しておいて、何日もかけて磨いてた。

当時の子の目には、土は遊び道具のひとつとして映っていて、

さっき★が言っていた『単体で存在しているねじ』のように、

途方もないくらいいろいろな種類の可能性のイメージを重ねることができたのよ。

 

でも、今、砂場以外で、土があっても気づかない子も多いわ。そんなものに

自分の想像力や思考力を重ねていってもいいんだ、と思ったこともないはず。

わたしが子ども時代の情景を思い返すのは、

昔はよかったとノスタルジーに浸りたいわけでも、

昔の子はおもちゃもなしに上手に遊んでいたと自慢したいわけでもないのよね。

正論を振りかざしたいわけでも、自分のやっていることは正しいって再認識したい

わけでもない。

 

たぶん、今の幼い子や小学生たちと接していると窮屈そうに感じる自分がいて、

どうして自分がそう感じるのか正確な理由をつきとめたいんだと思う。

昔も今も、雨も降れば星も月も太陽も空にあるのに、不思議を感じて、

どうして?なぜ?と周囲や自分自身に問いかける子は少数派になりつつあるわ。

目に映るものに、自分の頭や心を使えるんだ、使っていいんだって気づいていないの。

お母さんが教室で教えたいのは、やっている内容がごっこ遊びであれ、

物作りであれ、実験であれ、算数の問題であれ、それに自分の頭や心を使えるし、

使ってもいいんだよ、ということにつきるんだと思う。

 

ただ、実際、教室という形を取って教え始めると、

他人から評価されるようなアウトプットやどんなすばらしい体験をしたのか、

新しく何を吸収したのかという点だけが注目されて、

それぞれの子がどんなものに対して自分の頭や心を使っていいと認識しているかを

気にかける人はあまりいないんだけどね。」

 


見えないものが見えるように 触れられるように 

2018-06-04 07:56:11 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

 

会話のきっかけは、息子の

「今じゃパソコンがどんどんブラックボックス化しつつあって、

すごいことができていても、いったいどんな原理で実現しているんだろうって

興味を持つ人は少ないよね。

日常のあたり前の道具になり過ぎて、不思議を不思議と感じるのも難しい。

 前に見たレイン(lain)ってアニメができた頃(1998年)は、

実際にパソコンで実現できていること自体はたいしたことがないし、

たいて内部構造のシンプルさを理解している人がパソコンを使っていたんだろうけど、

パソコンに対して道具以上のイメージを重ねていた人が多かったんだろうな」

という言葉。

 

わたし 「道具以上のイメージを重ねるって、どんなふうに?」

 

息子 「未知の自然現象のように捉えていたんじゃないかな。拡張していくことで

どんなものでもできそうな無限の可能性を見ていたというか。

ライフゲームのように、空間や時間が不連続だったらどんな世界が形成されるか、

なんて哲学的な問いをパソコン上で確かめようとするなんて、

PCを便利な道具として捉えていたら出てこないイメージだと思うよ。

人工生命とか人工知能の研究とか。

SFでもコンピューターに不可能はないってほど奇想天外な世界が描かれていてさ」

 

わたし 「今は、いろいろ研究しつくされて、ある程度、

パソコンでできることの限界が見えてきたってこと?

それともお金にならない研究を続けるのは難しいのかな?」

 

息子 「お金の問題はもちろんあるんだろうけど、

限界が見えてきたわけじゃないと思うよ。ただ、機能が複雑で高度になるほど、

用途が限定されて、応用がききにくくなるし、夢が広がらないんじゃないかな。

高機能なものは、その特殊性のせいで全体像が見えにくいじゃん。

使い方の制限も増える。

使う分には、機能が高くていろんなことができた方がいいに決まっているんだろうけど、

それから別の可能性をイメージしていくことや自分の考えを組み込んでいくのは

もっともっと単純な機能の方が向いているんだと思う。

たとえば、2、3行のプログラムなら、どこか書き変えたら新しい何かが生まれるん

じゃないかと子どもでもいろいろやってみるだろうし、そこから何が正しく

何が間違っているか、何ができて、どうしたら元通りになおせるのか学び取れるよね。

でも、それが1000行とか2000行といったプログラムだったら、

ブラックボックス相手の使用者の立場なら、高度なことができていいわけだけど、

多少いじっただけでもまともに動かなくなる。

そこから自分でイメージしたり考えたりできる可能性は限られるよ」

 

(しゃぼん玉膜の中の雲の粒)

 

わたし「河合隼雄先生が、最近読み返している『日本人とアイデンティティ』 の中で、

新しい発想や創造性は、既存のシステムと相いれない。

既存のシステムに固執する限り、新しい発想も創造性も悪の烙印をおされて

しまいがち……といったことを書いておられたんだけど……。

★(息子)が言う機能の高さが想像の可能性を狭める原因って、

高機能になるとどうしても機能が上がる過程で、

付け加えられるシステムに固執してしまうからってこと?」

 

 息子 「そうとも言えるけど、ぼくがさっき言いたかったのは

パッケージ化されることからくる制限と言った方が近いかな。

たとえば、ねじが一つあるとすると、実際に使えるかどうかはそのサイズや

質に左右されても、その形状からイメージできる使い道は多岐に渡るよね。

家具とか建築物とか乗り物とか、目に見えないほどのサイズにして使うことも

考えられるはず。あくまでもイメージだけど。

でも、テレビのリモコンに使われているねじは、同じねじでも、

その用途以外のものを想像しにくいよ。

 

そんなふうにパッケージ化されることで、型にはまった見方しかできなくなることって、

教育の世界でもあるんじゃないかな。

お母さんの教室でも、すぐに、それやったことあるからいい、

それ知ってるからやりたくない、っていう子がいるじゃん。

そういう子が体験済みだって主張する体験は、おそらくパッケージ化された体験に

含まれているものなんだと思うよ。

だって、本当に自分の頭と身体で体験したことを再体験するなら、

繰り返しの中で感動や理解が深まったり、

工夫して新しい価値を見つけだしたりするものだから。

でも、体験の中には、さっき言ったテレビのリモコンのねじみたいに、

パッケージの一部から切り離してイメージできないようなものがあるんじゃないかな」

 

 

 


物作りと成長(小3のAちゃんの作った物語 ♪ )

2018-06-03 20:16:41 | 工作 ワークショップ

小3のAちゃんが虹色文庫のために本を作ってきてくれました!!

読んでくださった方は、コメント欄にぜひファンレターをお願いします!

 

(中学生になった虹色出版社の編集長がさっそくコメントをくれました。)

小学3年生なのにこんなに長い本が書けて凄い!
しかも絵が上手い!
私が3年生の時は本を作るなんて考えたことも無かったのにとびっくりしました
小切手を送らせてもらいます!
これからもたくさん本を読んで語彙力を高めていってください
応援してま〜す!

 

(虹色文庫に本を作ってきてくれた子は編集長が億単位の小切手を切ってくれています)

 

すごい力作です。

Aちゃん、大好きな物作りを続けるうちに、苦手だった算数も得意になってきました。

教室の子どもたちを見ていると、その子が輝く好きなことを応援し続ける

大切さを思います。それと、たっぷりと自分の時間を持っていること。

36ページ、ぎっしり書きこまれた文章とすばらしい絵に、

感無量です。