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この橋渡しの瞬間、風穴が開く瞬間というのは、たいてい、
無意味で無駄で停滞しているように見えたり感じられたりする時間に
起こります。ショッキングな辛い出来事がきっかけとなることも多々あります。
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緊張の強い子には、大きく分けて、
内向的だけれど芯が強くて、頑固で攻撃的な一面を持った子と
慎重でおとなしく穏やかな性質で、人が集まる場に行くと無口になって
身動きできなくなる子の2タイプあるように思います。
今回は、前者の「芯が強い子」について書かせていただきますね。
子どもの世界はすごいな、と思うのは、どんなに周囲との関わりを遮断するように
して遊んでいる子にもちゃんと揉め事が降ってくるところです。
もしこれが大人の世界なら、
「誰ともいっさい関わりたくない」という雰囲気をかもしている人が
後生大事に抱え込んでいるものを借りに行こうとは思わないですよね。
万が一、貸してもらおう思ったとしても、
「それを手放すなんてこの世の終わり」とでも言わんばかりの深刻な拒絶にあえば、
あきらめてほかをあたるでしょう。
でも子どもの世界では、「何が何でもどんなことがあっても貸したくない」という子に、
その子の持っているものが本当に魅力的なのか、自分はそれが欲しいのかなんて
そっちのけで、「何が何でもそれじゃなくちゃ嫌で貸してほしい」という子が
引き寄せられていく瞬間があるのです。
片や手にしているおもちゃを手放すことが、そのまま自分の世界を奪われることや
自分の場を壊されることとイコールでつながっているような緊張の強い子。
片や部屋を見渡せば、ほかにいくらでも面白そうなおもちゃがあっても、
緊張が強い子と同じくらいエネルギーを注いで、それを得ることに固執する子。
そんな二人は、どこか似ているところがあって、
最終的に大の仲良しへと発展することがよくあります。
教室では、子どもたちの心と心がゆっくりと近づいていく過程を大切に見守っています。
誰かが作っていた積み木の駐車場を足で引っかけて壊しちゃった、
どんどんブロックの線路をつないでいた子が自分のスペースに侵入していった……など、
ひとりで静かに遊びたがっているんだから、ずっとそのまま遊ばせてあげる……という
わけにいかないのが子どもの世界です。
周囲から距離を置いている子自身も、
おもちゃについては、ほかの子の遊んでいるものがどうしても欲しくなって奪い取りに
いくこともあります。
そうして揉め事が起こるときには、
それまでほかの子や大人と交わらないで過ごしていた子も
いきなり感情をむき出しにした状態で接近することになります。
緊張が強い子は、もともと人との関わり方に不器用さを持っていることもあるし、
関わりそのものが経験不足でもありますから、
「おもちゃを貸して」「貸さない」「それはわたしがやりたい」「ぼくが一番先」
「ぼくが」といったちょっとしたやりとりが、パニック状態を引き起こしたり、
乱暴に反撃してしまったり、 強い態度で拒絶するため相手の子の手がつい出て
しまった……という事態につながりやすいです。
人との関わり方に不器用さや経験不足がある子たちが
ちょっとしたことをきっかけに周囲との激しい衝突を引き起こすときは、
どのような対応をすればいいのでしょう?
たいていの親御さんは、予期せぬ事態が起こると、
「こんなときはどうすればいいの?」
「どう言い聞かせてやめさせればいいの?」と目にしている一点への解決法を求めます。
わたしが、こういう事態に遭遇した場合、やりすぎたり、引っ込みすぎたり、
激しく感情を爆発させたり、引きこもったりする揺れ幅が大きい期間……
つまり古いものから新しいものへと移り変わって行く途中である『過渡期』として、
扱っています。
子ども同士の揉め事のクッション材となったり、傷ついた子をなぐさめたり、
おしゃべりしたり、物語の世界にあるような解決法を提案したり、
揉め事をテーマにした人形劇を見せたり、一緒になって悪を演じる遊びを表現したり、
粘土や水のような気持ちを落ち着ける素材で遊びを準備したり、
こちらに向けられる攻撃性を受け止めたりかわしたりしながら、
感情の爆発の背後にある新しい心の変化の兆しの一つひとつを、
心に留めていくようにしています。
緊張が強い子は、触角の過敏さや鈍感さを持っている子が多いな、と感じています。
触角が過敏だったり、鈍感だったりする子たちは、
粘土や砂に触れるのを極端に嫌がる一方で、手を洗う時の水の温度を気にしたり、
服の素材に文句をつけたりしています(それが一転して、気に入ると粘土遊びばかり
したがったり、ひんやりしてつるんとした手触りのスライムを、しつこく触りたがっ
たりすることもあります)。
誰かに軽く触れられただけで、ピリピリした攻撃的な目でにらみつけたり、
身体を硬直させて歯をくいしばってみたり、
人と触れる可能性がある場に近づくだけで足がすくんで動けなくなったり……。
嫌いな刺激を避けるために、ちょっとしたことで感情を爆発させて、大騒ぎしたり、
「こうしたい」とか「これはいやだ」と言い張って、意固地になったり、
訳もなくイライラしだしたと思ったら、いつまでも機嫌をなおさなかったりします。
自分に対しては、ちょっとぶつかられただけでも大騒ぎして怒るのに、
親に八つ当たりするときは、子どもとは思えないほどの力で叩いていたり、
おとなしくて自分から揉めるような子ではないのに、お友だちと物の取り合いになった
ときなどに突如、強い力で相手を突き飛ばしたり、物を投げつけたりするので
びっくりすることもあります。
緊張が強い子が、自立心の芽生えや友だちを求める気持ちや周囲の期待に応えなくてはと
いう思いや、好奇心といった自分の内からの要請に突き動かされて、
閉じこもっていた自分の世界から外に出てこようとするとき、
目で見ることができたり耳で聞くことができる形で
恐ろしいものや残酷なものがたくさん必要なんだな、と感じることが多々あります。
鬼や地獄絵や、ピラニアやサメのように鋭い歯を持った水の中の生き物たちや、
指名手配犯などが遊びの主役になったり、
自動車事故、殺人事件、自殺、暴力、肉食動物が他の動物を食べるシーンなどが遊びの
テーマになったり、子どものおふざけの中で、「ぼっこぼこにする」「死ね、死ね」
「じゃ、死ねば?それ、殺したら?」「くそばばあ、くそじじい」「毒薬」
といった言葉が繰り返し使われたりします。
たいていそうした残酷すぎることをいう子に限って、お母さんがちょっと見えなくなるだ
けで涙目になったり、怖がらなくていいようなものに極端に怯えたり、繊細で優しすぎる
一面を持っていたりするものです。
過敏な子たちにとって、安全な自分の空間から一歩外に出てくることや
他者に近づくことは、生死の際に立っているような不安を伴うもので、自分自身の存在を揺るがすような一大事なのでしょう。
最初のうち、とげとげしい攻撃的な態度やハイテンションの冗談や吐き捨てるような
物言いの中で使われていた、残酷な主人公たちや残酷なテーマや残酷な言葉が、
ユーモアを含んだ茶目っ気のある世界で扱われるうちに、次第に必要がなくなって、
等身大の子どもの世界の主人公たちやテーマに取って変わられるようになると、
子どもは周囲の友だちともわたしともとても親しくなっています。
過渡期といえば、これまでこんなことがありました。
ほかの子と関わらずに自分の遊びに固執していて、
気持ちが高ぶるとお母さんを蹴ったり叩いたりする子がいました。
その子が、ほかの子らに心を許して遊びだし、新しいより成長した自分を
表現しはじめたのは、激しいかんしゃくを爆発させて、
わたしをポカポカと叩いてきた出来事がきっかけでした。
友だちと関わろうとせずに内に閉じこもっていた子が
次第に上手に友だちと遊ぶようになっていった過程では、
ふざけて大人を叩いてくる遊びに興じたり、わざとおもちゃやビーズなどを床にぶちまけたり、乱暴な言葉や残酷な言葉を連発したりする時期を通りました。