旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

明々庵

2009年07月29日 | 旅 歴史
 島根県松江市北堀町にある明々庵です。
 明々庵は松平7代藩主だった松平不昧(ふまい)によって安永8年(1779)に建てられた茶室を中心とした古庵です。不昧は家老の有沢弌善(ありさわかずよし)のために殿町にある有沢邸内に建てたのでした。
 明治初期に明々庵は東京の松平伯邸に移されていましたが、昭和3年(1928)に松平家から出雲に返され、菅田町の有沢山荘内に戻されました。
 昭和41年(1966)に不昧150年忌を記念して、松江城を望むことができる塩見繩手の北堀町の赤山に移築され現在に至っています。
 茅葺の入母屋造の建物は簡素な美しさがあり、入母屋には不昧直筆の「明々庵」の額が架けられています。百草亭では見事な庭園と茶室を目の前して抹茶をいただけます。
 松平治郷(はるさと)こと不昧は江戸後期の大名茶人で不昧流を起こしました。松江で茶の湯が盛んなのは不昧の影響を大きく受けているからといわれています。


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出雲大社

2009年07月29日 | 旅 歴史
 今日は島根県出雲市大社町杵築東にある出雲大社を紹介します。
 出雲大社は、農業の神様を祀る神社でしたが、今では縁結びの神、福の神の神社として広く知られています。
 出雲国の一之宮で旧官幣大社です。祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)です。本殿は国宝に指定されています。日本で最も古い神社建築の形式をもった大社造りで、伊勢神宮の神明造りとともに代表的な神社建築です。
 出雲大社は杵築大社(きづきのおおやしろ)の名で呼ばれていましたが、明治4年(1871)に始まった神社制度により、社格が大社(たいしゃ)となり、社号が出雲大社となりました。
 天上にいた天照大見神(あまてらすおおみかみ)が宮殿を造る条件で、大国主命から葦原中国(あしはらなかつくに)と呼ばれていた今の日本を譲り受け、出雲国多芸志の小浜に天日隅宮(あめのひすみのみや)という巨大な宮殿を造立したことが出雲大社の起こりとされています。
 古事記によると、天照大御神が治める高天原を追放された乱暴な弟の素戔嗚尊(すさのをのみこと)が斐伊川で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治しました。その時、助けた奇稲田姫と結婚し、須我(須賀)に宮殿を構えて産んだのが大国主命です。
 大国主命は御大(みほ)の岬(松江市美保関町)で出会った少名毘古那(すくなびこな)と兄弟となり、二人で協力しながら葦原中国を治めました。その後、少名毘古那は常世(とこよ)の国に去っていきました。
 天上の高天原にいた天照大御神は「葦原中国を統治すべきは、天照大御神の子孫である」と宣言し、高天原の神々を地上に派遣しますがことごとく失敗してしまいました。
 剣と雷の神である「建御雷神(たけみかづちのかみ)」を派遣して、武による威嚇をもって大国主命に「国譲り」を迫ったのです。
 大国主命は息子の事代主命(ことしろぬしのみこと)に相談すると、抵抗せずに、従いましょうと言い、海上に幾重もの青柴垣(あおふしがき)を作り、海中に退去しました。
 もう一人の息子の建御名方(たけみなかた)は、建御雷神に力比べで挑みました。しかし敗れて降伏します。大国主命は帰順するけれど「地中深く根を張り、天まで届く立派な宮殿を造れ」という条件を付け折れたのです。
 現在の出雲大社は、本殿の高さが24mです。中世には今の倍、古代はさらにその倍の96mあったと推測されているそうです。平成12年(2000)に境内から直径1m以上の丸木を3本束ねて一つとした平安時代末の巨大柱が出土し、高層建築物であったことが裏付けられました。
 10月は神無月とよばれます。それは日本中の神様がこの出雲大社に集まっているからです。この地方では神有月(かみありづき)というそうです。

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