旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

医光寺

2009年07月25日 | 旅 歴史
 島根県益田市染羽にある医光寺です。
 医光寺は貞治元年(1363)創建の崇観寺(すうかんじ)が前身です。益田宗兼(ますだむねかね)が建立した塔頭でしたが、本寺の崇観寺が衰廃したため宗兼が医光寺と合併させたのです。
 現在の諸堂宇は、享保14年(1729)の大火後に再建された建物です。竜宮造といわれる総門は益田城の大手門でした。関ケ原の戦い後、ここに移し、承応年間(1652-55)黄檗宗寺院特有の竜宮造に改築したものです。この門は県の文化財に指定されています。
 益田氏最盛期の15代益田兼尭(かねたか)が、大内氏の山口に逗留していた雪舟を、崇観寺へ招聘しました。周防(山口県)の雲谷庵を出た雪舟は崇観寺にとどまり、後第5世住職となったのです。
 本堂の裏には鶴をかたどった池に亀島を浮かべた武家様式庭園があります。須弥山石からは枯滝石組を作っている構図が雪舟の水墨画を思わせます。雪舟が文明年間(1469~86)に造ったとされています。
 雪舟が崇観寺の住職になっている時、万福寺の庭園も作庭しました。医光寺が力強い武家様式の庭園に対し、万福寺は寺院様式といわれています。両庭とも国の史跡及び名勝に指定されています。  
 雪舟の代表作「花鳥図屏風」はここで描かれたといわれています。また医光寺には雪舟灰塚があります。雪舟を荼毘に付した時の塚だといわれています。

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万福寺

2009年07月25日 | 旅 歴史
 今日は島根県益田市東町にある万福寺を紹介します。
 清瀧山萬福寺は時宗の益田道場であるお寺です。もとは安福寺という名前のお寺で、石見国中洲浦にあった天台宗の大寺だったそうです。
 正和2年(1313)に遊行した第4代呑海上人が再興して時宗の道場となったそうです。呑海上人は時宗の開祖一遍上人から数えて4代目にあたる上人です。
 応安7年(1374)益田兼見(ますだかねはる)が現在ある本堂などを建築して、萬福寺と改めました。
 益田氏の祖先は右大臣の藤原内麻呂(756-812)といわれ、11代後の大納言の国兼が石見国司のまま残り御神本という姓を名乗りました。
 源平の乱の時、平氏ながら、源氏方として戦い勲功をあげました。これにより石見国内の多くの所領を与えられました。国兼の3代あとの兼高から益田の姓を名乗りました。
 益田兼見は、南北朝動乱の中、益田家の惣領として、北朝側についたり、南朝側についたりと、所領を死守するために各地に転戦して生き残り、益田氏の基盤を作り上げました。自ら剃髪し祥兼と号し、この万福寺で他界しました。その後ここは益田氏の菩提寺となりました。
 万福寺本堂は鎌倉様式の手法を伝える一重寄棟造りで、七間四面、九重造りの単層建築です。国の重要文化財に指定されています。
 益田氏最盛期の15代益田兼尭(かねたか)が、大内氏の山口に逗留していた雪舟を、医光寺へ招聘するなどして益田の地を発展させました。国宝の「益田兼尭・水墨画」もこの頃雪舟に書かせたものです。
 雪舟が医光寺の住職になっている時、医光寺の庭園とこの万福寺の庭園も作庭してもらったのです。両庭とも国の史跡及び名勝に指定されています。
 医光寺が力強い武家様式の庭園に対し、万福寺は寺院様式といわれています。須弥山世界を象徴した石庭で、曼茶羅さえ連想されるすばらしい庭園です。

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