旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

松江城(千鳥城)

2009年07月31日 | 旅 歴史
 島根県松江市殿町にある松江城(千鳥城)です。
 松江城は慶長16年(1611)堀尾吉晴(ほりおよしはる)によって5年の歳月をかけて築城されました。松江城天守閣は全国に現存する12天守の一つで山陰では唯一の天守閣です
 天守閣の高さは30mで、地下1階を含めて5層6階の独立天守です。桃山様式の天守として築城当時のまま現存しており、国の重要文化財に指定されています。
 白鷺城とよばれる姫路城の白壁に対して、簡素な木造黒塗りの外観で千鳥城ともよばれています。
 天守入口の付櫓をはじめ、各層に設けられた袋狭間や石落し、籠城用の地階の井戸や蔵などに戦国武将としての堀尾吉晴の面影を伺うことができます。
 吉晴は松江城の完成を見ることはできませんでしたが、孫の忠晴があとを引き継ぎました。松江城は石高に比べて贅沢と賞されるほどの広大なものであったようです。。
 堀尾忠晴には正室、側室に嗣子が無く、従兄弟の堀尾宗十郎を養子に立てることを願い出ていましたが認めてもらえないまま、忠晴が亡くなったため堀尾宗家は断絶し、堀尾氏は3代で改易となりました。。
 寛永11年(1634) 京極忠高が若狭国小浜藩より出雲、隠岐両国26万石で入封しました。三の丸の修築を行い、松江城の全容が完成しました。しかし忠高も嗣子ができないまま亡くなり、京極氏は廃絶しました。
 寛永15年(1638)信濃国松本藩より徳川家康の孫に当たる松平直政が18万6千石で入封しました。以後、明治維新まで松平氏がここを治めました。

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月照寺

2009年07月31日 | 旅 歴史
 今日は島根県松江市外中原町にある月照寺を紹介します。
 月照寺は松江藩主松平家の菩提寺で、初代直政から九代斉貴までの墓があります。ここには洞雲寺(とううんじ)という禅寺があったそうです。直政は生母の月照院の霊牌安置所として、寛文4年(1664)この寺を再興したのです。
 浄土宗の長誉を開基とし、「蒙光山(むこうさん)月照寺」と改められました。直政は寛文6年(1666)江戸で亡くなりますが、臨終の時に「我百年の後命終わらば此所に墳墓を築き、そこの所をば葬送の地となさん」と遺しました。
 2代藩主松平綱隆は父の遺言を実行し直政の廟所をここに造りました。この際に山号を現在の「歓喜山」と改めました。この直政の立派な御廟は桃山文化の作風が巧みに取り入れてあり、島根県指定文化財です。
 直政の父親は結城秀康です。家康の次男でありながら疎んじられて豊臣秀吉の養子に出されました。秀吉に鶴松が生まれたため、結城家に養子に入りました。関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城藩10万石から越前北庄67万石に大幅加増移封しています。
 慶長19年(1614)、直政は大坂冬の陣に出陣しました。14歳の初陣でした。生母の身分が低いことから部屋住みの身分にあった直政には軍資金がありませんでした。このとき、忠臣の神谷兵庫なる人物が、西本願寺から2千両もの大金を用立てもらったおかげで、出陣できたといわれています。
 冬の陣では豊臣側の名将・真田幸村が守る真田丸を責めました。その見事な戦いぶりに幸村は軍扇を投げて賞賛したそうです。翌年の大坂夏の陣にも出陣し、兄・忠直に従って活躍しました。忠直軍は幸村はじめとする多くの敵の首を獲り、大いなる戦功を挙げたそうです。
 直政は寛永元年(1624)、越前大野5万石に加増移封、寛永10年(1633)信濃松本7万石へ加増移封し、翌年、松本城に月見櫓、辰巳附櫓を建てています。
 寛永15年(1638)ここ出雲松江18万6千石へ加増移封され、初代の松平松江藩主となったのです。
 山門正面にある7代藩主松平治郷こと不昧(ふまい)の廟門は、名工・小林如泥の作で、飾りのブドウの透かし彫りなどが見事です。島根県の有形文化財に指定されています。
 小泉八雲の随筆「知られざる日本の面影」で、6代藩主宗衍(むねのぶ)の廟所にある寿蔵碑の土台となっている大亀が、夜な夜な松江の街を徘徊して人を食べてしまうことを書いています。そこで亡くなった藩主の功績を石碑に彫り込み、その石碑を大亀の背中に背負わせてこの地に封じ込めたのだそうです。
 宗衍は、茶人として有名な松平治郷(不昧)の父親です。生前に碑を建てました。これを寿蔵碑といいます。月照寺の松平家墓所の中に宗衍の墓があり、その墓前碑として建てられています。隠居してからの宗衍は奇行を繰り返したためにそれにまつわる逸話が多いそうです。
 「松江藩主松平家墓所」として国の史跡に指定されています。境内には雷電為衛門の石碑もあります。天明8年(1788)22歳のとき、治郷(不昧)に4人扶持をもって召し抱えられ、寛政6年(1794)不昧が雷電為右衛門の名前を与えています。

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