旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

毛利家墓所(長府毛利累代墓)

2009年07月09日 | 旅 歴史
 山口県下関市長府川端にある毛利家墓所(長府毛利累代墓)を取り上げてみます。
 毛利家墓所は長府功山寺の仏殿裏手にあります。初代長府藩主である毛利秀元を始め、9人の藩主達の墓があります。
 毛利秀元は元就の孫で、秀吉の朝鮮出兵において武将として高く評価された武将でした。関が原の戦い後、毛利氏の削封に際して長府藩を創設、城下町としての基礎を築きました。
 慶長7年(1602)毛利秀元は荒廃した功山寺の堂宇を修営しました。二代藩主光広が、秀元の霊位をこの寺に安置し、長府毛利家の菩提寺となりました。慶安3年(1650)秀元の法号の智門寺殿功山玄誉大居士にちなんで功山寺と改められました。

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日清講和記念館

2009年07月09日 | 旅 歴史
 今日は山口県下関市阿弥陀寺町にある日清講和記念館を紹介します。
 明治28年(1895)4月17日、日清講和記念館は日清戦争の講和会議が開かれた旅館春帆楼(しゅんぱんろう)の敷地内にあります。
 日本の全権は伊藤博文、陸奥宗光、清国の全権は李鴻章、李径方でした。日清講和条約を締結した際のテーブル、椅子、調度類や資料が、当時のままに再現されています。
 春帆楼は老舗の割烹旅館です。明治21年(1888)、内閣総理大臣だった伊藤博文が春帆楼でフグ料理を食べました。豊臣時代以降フグ料理は禁制品でした。ご禁制が解かれ、フグ料理公許第1号となったところでもあるのです。
 朝鮮半島の権益をめぐり対立していた日本と清国は、明治27年(1894)東学党の乱をきっかけに開戦しました。この戦争は日清戦争と呼ばれ、戦況は日本軍の圧倒的優勢に進み、翌年 清国は日本に講和の打診を始めました。
 李鴻章が小山という青年に狙撃され、負傷し会議は一時中断しましたが4月17日に講和条約が調印されたのです。この講和条約は「下関条約」と呼ばれ、清国は日本に朝鮮半島の独立承認、領土の割譲、賠償金の支払いなどを約束しました。


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