旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

大覚寺

2009年10月11日 | 旅 歴史
 京都市右京区嵯峨大沢町にある大覚寺です。  
 嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の総本山です。嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部で天皇崩御の後の貞観18年(876)、嵯峨天皇の皇女、淳和天皇皇后が寺に改められ大覚寺と名付けられました。
 一時荒廃しましたが、鎌倉時代には後嵯峨、亀山天皇が入寺、徳治3年(1308)には後宇多天皇が入寺しここで院政をしき、嵯峨御所とも呼ばれました。ここに南朝の大覚寺統を形成されました。 
 皇室ゆかりの格式高い門跡寺院となり代々にわたり法親王が住持し格式を保ってきています。客殿と宸殿は重要文化財の指定されています。宸殿は後水尾上皇が寄進した宮中の建物で、狩野山楽筆の豪華な障壁画が有名です。
 北朝方の持明院統と皇位継承で争いました。明徳3年(1392)、ここの正寝殿にて南北両朝の講和が成立しました。
 大覚寺は門跡寺院らしく王朝風の伽藍が優美な姿を見せてくれます。御所のようなたたずまいは寝殿造りを思わせます。それらは回廊で結ばれていて雅やかです。
 回廊で結ばれた宸殿(しんでん)や御影堂などの御所風の建物に、武家風の明智門、明智陣屋が彩りを添えています。
 明智陣屋は門と同じく、亀山城の一部と伝えられています。切妻部分を正面とし、そこに瓦葺唐破風造りの差掛屋根を設け、玄関としています。内部は天井を張らず、大寸の丸太で梁組され、西屋根に煙だしが設けられています。
 式台玄関は正面に銅板葺きの唐破風を備えています。妻飾りは木連格子懸魚附きです。東福門院の女御御所、長局の一部と推定されています。
 玄関の部屋は「松の間」とよばれ、正面北側の広大な2面の壁貼付を中心として、西側の襖6面、東側襖4面にわたって豪華な金碧画の「松に山鳥図」が描かれている。狩野永保筆です。
 図様は正面の壁貼付2面に、老松の巨幹が根を張り山鳥のつがいが羽を休めています。松の左右には楓が1本ずつ配され、これが東西両側にも連続し、巨大な老松を浮き上がらせています。
 重要文化財に指定されている東の宸殿は入母屋造、檜皮葺(ひわだぶき)です。後水尾天皇の寄進で旧紫宸殿ではないかといわれています。
 宸殿の内部は壁画にちなんで牡丹、柳松、紅梅、鶴の4間があり、前には右近の橘と左近の梅があります。
 御影堂は心経前殿と呼ばれています。大正天皇即位式場に建てられた饗宴殿を式後賜り移築したものです。大正14年建造です。心経殿の前殿ですので心経殿を拝するため開けてあります。
 内陣の左右に嵯峨天皇、秘鍵大師(弘法大師)、後宇多法皇、恒寂入道親王など大覚寺の歴史に大きな役割を果たされた方の像を安置しているのです。
   勅使門は嘉永年間(1848~54)に再建されたものです。門は四脚門とし、屋根は切妻造り、正面および背面に軒唐破風をつけ、全体は素木造りですが唐破風の部分だけ漆を塗っています。
 大沢池です。嵯峨天皇が離宮嵯峨院の造営にあたって、中国の洞庭湖を模して造られたところから、庭湖とも呼ばれています。日本最古の人工の庭園です。池には天神島・菊ケ島と庭湖石があります。
 遠くの山並みは東山連峰です。正面の山は大文字山(如意ヶ岳)、左手前には朝原山(遍照寺山)が見えます。
 観月台からの仲秋の名月は有名です。
 松尾芭蕉は次のように詠んでいます。
 名月や 池をめぐりて 夜もすがら
 重要文化財の正寝殿です。宮中から移築された桃山時代様式の書院造りの建物です。ここには12の部屋があります。
 上段の「御冠(おかんむり)の間」は13世紀の後半、鎌倉時代に後宇多法皇が上皇として院政を執られた御座所です。
 またこの場所は明徳3年(1392)室町時代の初め、南北朝争乱を治めるために南朝の後亀山天皇とと北朝の後小松天皇によって講和が成立したところでもあるそうです。




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広隆寺

2009年10月11日 | 旅 歴史
 今日は京都市右京区太秦蜂岡にある広隆寺を紹介します。
 広隆寺は、真言宗の寺院です。推古天皇11年(603)建立の京都最古の寺で、「日本書紀」によれば、渡来氏族の秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から与えられた仏像を本尊にして創建したといわれています。
 国宝の弥勒菩薩像は国宝第1号に指定された弥勒菩薩半跏思惟像の仏像です。永遠の微笑をたたえて霊宝殿に安置されている。高さ124cm赤松の一本造りで新羅より聖徳太子へ贈られたものだそうです。
 広隆寺には、仏像だけでも国宝が17体、重要文化財が31体もあります。この寺は818年と1150年に火災にあって創建時の諸堂はことごとく失われました。それにもかかわらず、これだけ多くの仏像が残っているのです。
 南大門を入ると石畳が続いていて、その右手には赤堂と通称される講堂が、左手には薬師堂、能楽堂、地蔵堂が甍を並べています。石畳の正面には本堂の上宮王院(じょうぐうおういん)太子殿が建っています。
 重要文化財の広隆寺の講堂です。講堂内には国宝の講堂の本尊である阿弥陀如来座像(平安時代)、重要文化財の虚空蔵菩薩座像(平安時代)、地蔵菩薩座像などが安置されています。
 講堂の北には秦河勝を祀る太秦殿(太子堂)があり、その隣りに本堂の上宮王院太子殿があります。
 広隆寺には塔というものがありません。それぞれの堂宇も古代の寺院にありがちな肩苦しい様式で配置されていません。
 603年(推古11)11月聖徳太子は群臣を前にして、「私は尊い仏像を持っている。だれかこの仏を祀るものはいないか」と尋ねられました。
 そのとき秦河勝が「私が祀りましょう」と名乗り出で、仏像を拝領したそうです。そして、その仏像を祀るために建てた寺が、今の広隆寺の前身である蜂岡寺であったと日本書紀には載っています。
 「広隆寺縁起」には聖徳太子が秦河勝に次のような話をしたそうです。「私は昨夜、不思議な夢をみた。香ばしい香りに満ちた桂の林の中に大きな枯れ木があり、五百羅漢がその下に集まってお経を読んでいる。」
 「枯れ木からは大光明が放ち、羅漢の読経が微妙な声で仏法を説いているように聞こえ、まことに格別な霊地に思えた」と語ったのです。
 河勝は「その場所は我々が住む葛野(かどの)です」と答え、その場所へ聖徳太子を案内しました。そこでは、大きな桂の枯れ木の周りを無数の蜂が飛んでいて、その蜂の群は羅漢が説法しているように見えたのでした。
 そこで、仮の宮殿を造って楓野(かえでの)別宮となずけ、河勝に命じて蜂岡寺を建立させたというのです。楓野別宮は現在の桂宮院の当るということです。




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