京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある天竜寺です。
天竜寺の勅使門は桃山時代のものです。創建以来度々兵火に遭い古い建築はほとんど残っていませんが、勅使門は伏見城のものと伝えられています。
天竜寺は、正式には霊亀山天竜資聖寺といい、臨済宗天龍寺派の大本山です。本尊は釈迦如来です。平成6年(1994)に世界文化遺産に登録されました。
暦応2年(1339)年8月に後醍醐天皇が吉野の行宮で没すると、夢窓疎石の勧めで足利尊氏は翌年4月亀山殿の旧地に寺院建立の工を起こしました。寺号は暦応の年号から暦応資聖禅寺と定めました。
ところが延暦寺が暦の字の使用に反対したため、2年後天竜寺としました。そして夢窓疎石が院宣により開山しました。
工事は戦乱による財政難などで遅れましたが、天竜寺船などの対明貿易の利益をあて康永元年(1342)10月に上棟式と執り行い、貞和元年(1345)8月に盛大な完成の式典を挙行したそうです。
当時は京都五山の第2位でしたが、第1位の南禅寺が五山の上となったので至徳3年(1386)に五山の第1位となりました。
幕府の保護が厚く、元中4年(1387)の文書にと寺納米2402石、銭5721貰文、奉書のときは1720石であったと記されています。足利将軍家と夢窓門徒とともに順調に発展して15世紀前半に最盛期を迎えました。
しかし、しだいに学問研究や詩文の述作に流れて禅風振るわなくなり、応仁の乱で寺は全焼してしまいます。さらに足利家の没落とともに衰退しました。
江戸末期には元治の役で長洲藩の本陣となったため、その報復として薩摩藩の砲撃をうけ主要伽藍が焼失してしまいました。
明治維新では廃仏毀釈で大きな打撃をうけ 明治10年(1887)26町歩が上地されました。明治2年(1869)滴水宜牧が、次いで峨山倡禎が復興に努め、1900年頃ほぼ現在の規模となったようです。
夢窓疎石が築いたといわれる広々とした回遊式の庭園は、景勝嵐山を借景にして曹源池を中心に置く借景庭園です。日本で初めて史跡・特別名勝に指定されました。
法堂の天井に描かれた雲竜は明治の巨匠鈴木松年の作です。この時に使った日本最大の硯石が庭園内にあります。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
天竜寺の勅使門は桃山時代のものです。創建以来度々兵火に遭い古い建築はほとんど残っていませんが、勅使門は伏見城のものと伝えられています。
天竜寺は、正式には霊亀山天竜資聖寺といい、臨済宗天龍寺派の大本山です。本尊は釈迦如来です。平成6年(1994)に世界文化遺産に登録されました。
暦応2年(1339)年8月に後醍醐天皇が吉野の行宮で没すると、夢窓疎石の勧めで足利尊氏は翌年4月亀山殿の旧地に寺院建立の工を起こしました。寺号は暦応の年号から暦応資聖禅寺と定めました。
ところが延暦寺が暦の字の使用に反対したため、2年後天竜寺としました。そして夢窓疎石が院宣により開山しました。
工事は戦乱による財政難などで遅れましたが、天竜寺船などの対明貿易の利益をあて康永元年(1342)10月に上棟式と執り行い、貞和元年(1345)8月に盛大な完成の式典を挙行したそうです。
当時は京都五山の第2位でしたが、第1位の南禅寺が五山の上となったので至徳3年(1386)に五山の第1位となりました。
幕府の保護が厚く、元中4年(1387)の文書にと寺納米2402石、銭5721貰文、奉書のときは1720石であったと記されています。足利将軍家と夢窓門徒とともに順調に発展して15世紀前半に最盛期を迎えました。
しかし、しだいに学問研究や詩文の述作に流れて禅風振るわなくなり、応仁の乱で寺は全焼してしまいます。さらに足利家の没落とともに衰退しました。
江戸末期には元治の役で長洲藩の本陣となったため、その報復として薩摩藩の砲撃をうけ主要伽藍が焼失してしまいました。
明治維新では廃仏毀釈で大きな打撃をうけ 明治10年(1887)26町歩が上地されました。明治2年(1869)滴水宜牧が、次いで峨山倡禎が復興に努め、1900年頃ほぼ現在の規模となったようです。
夢窓疎石が築いたといわれる広々とした回遊式の庭園は、景勝嵐山を借景にして曹源池を中心に置く借景庭園です。日本で初めて史跡・特別名勝に指定されました。
法堂の天井に描かれた雲竜は明治の巨匠鈴木松年の作です。この時に使った日本最大の硯石が庭園内にあります。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
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