フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月9日(水) 晴れたり曇ったり、雨も少々

2006-08-10 03:00:19 | Weblog
  午前9時、起床。9時半に歯科の予約を入れてある。今日は下の前歯の歯石を取ってもらう。歯と歯茎の間の歯石を引っ掻き出す。歯が抜けるかと思った…。終わってから医師にそう言ったら、「私も自分がこれをやられるのはイヤなんです」と言っていた。やっぱりね。帰宅して、『ドラゴン桜』の再放送を観ながら朝食(昨日の夕食の残りのカレーライス)を食べる。午後、ジムに出かける(昼食は抜き)。筋トレを2セットとウォーキングを60分。さらうどん一皿分のカロリーを消費。くまざわ書店で三浦しをん『三四郎はそれから門を出た』(ポプラ社)を購入。ルノアールで読む。エッセー風の書評集。評論家が書くような生真面目な書評ではない。かといってふざけているわけではない。喩えて言えば、酔拳のような書評。いい加減に書いているように見えて、実は拳は的確に相手の急所を突いているといった感じだ。たとえば村上春樹『海辺のカフカ』についてはこんな調子。

  「小悦を読む、という行為に伴うスリリングな高揚感と喜びを、あますところなく堪能できる作品だ。しかしそれとはまったく別の次元で私が気になったのは、主人公の少年の超人的な克己心についてである。
  彼は十五歳の健康な男子で、すぐに勃起してしまう(私は弟に、「十五歳の男の子って、ホントにこんなにいつも勃起しちゃうもんなの?」と思わず聞いてしまった。それに対する弟の返答は、冷ややかに無言であった。私はそれを肯定の意に取ることにした)。その点ではいたってフツーの少年だ。私が尋常でないと思ったのは、彼が家出中にもかかわらず、毎朝きちんと近くにある体育館に通い、体力作りのためのかなりハードなトレーニングを、こつこつと積むところである。
  家出したら、たいがいの十五歳男子は自由を満喫して遊びほうけると思うのだが、彼の自律心ときたらどうだ。私も含めた多くの読者は、ダイエットに挑戦してもすぐに挫折し、自堕落な毎日を送っていることと確信するのだが、それでもあえて、修行僧のような十五歳の少年を主人公に設定し、読者の共感と納得を得てしまうのだから、この小説の力は並大抵のものではない。
  最後まで物語を読んだ私の胸の中には、感動や様々な物思いとは別に、「いざというときに必要なのは、やはり基礎体力なのだ」という現実的な教訓が芽生えた。さっそく翌朝から、私は近所をジョギングした。そして五分間かけて八百メートル走ったところで力つきた。それから二日間、股関節が痛くてたまらなかった。負けた。私は、体力はもとより意思力においても、十五歳のこわっぱに負けたのだ。
  物語の発する静かな熱情で少年の爪の垢を煎じ、怠惰なる己の精神に塗りこめたい。」(10-11頁)

  『海辺のカフカ』に限らず、村上春樹の小説の主人公に「自堕落な毎日を送っている」人間はいない。男であれ女であれ、「修行僧」のように「自律心」がある。おまけに教養とユーモアのセンスにも富んでいる。ろくでもない世界の中で、ややもすれば自堕落な毎日を送ってしまいがちな現代人にとっては、生き方のモデルとして機能しているように思われる。そう、村上春樹の小説は現代版修養小説なのではなかろうか。三浦しをんの書評はそこのところを的確に突いている。
  ルノアールを出てから、TSUTAYAで宮藤官九郎が脚本を書いたTVドラマ『ぼくの魔法使い』(2003年)のビデオ(第一話から第三話)を借りる。『三四郎はそれから門を出た』の中で「ここ数年で、私が一番笑ったドラマ」として紹介されていたからだ。

  「『ぼくの魔法使い』は、恥も外聞もない人々を描いているようでいて、実はものすごく含羞に満ちた、楽しい物語だった。
  自分で勝手に「くんく」と名乗り、視聴率と戦いながらものすごい量の仕事をし、偉そうに見えないよう、常に過剰なまでに気を使う。宮藤官九郎はまさに、「含羞の人」だ。」(29頁)

  夕食(春巻、ピーマンと豚肉の炒め、鰹の角煮、かき玉汁、御飯)の後、さっそくビデオを観る。確かに面白い。どうして当時、観なかったんだろう。篠原涼子と古田新太が自転車に乗っていて正面衝突したのがきっかけで、ときどき篠原が古田に変身してしまうという設定は、『吾輩は主婦である』に通じるものがある。レギュラー陣は他に伊藤英明、西村雅彦、阿部サダヲ、大倉孝二、井川遙、小田茜、ベッキーら。こう書き並べただけで、いかにも面白そうなドラマでしょ。そして「含羞の人」という形容は三浦しをん本人にも間違いなく当てはまる。

          
                   不安定な空模様