フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月12日(土) 雨のち曇り

2006-08-13 01:32:27 | Weblog
  午前7時半、起床。遅寝早起きであるが、寝不足は昼寝で解消することができる。もちろん学期中はそういうわけにはいかない。夏休みの最大の恩恵は昼寝にあると言っても過言ではない。私の場合、昼食を午後2時頃に取ること多いので、昼食+昼寝の時間は伝統的なスペインの「シエスタ」と同じく午後2時から4時まで。本家の方では制度としての昼寝を廃止してしまったらしいが(少なくとも都市部では)、わが蒲田支部では今後も遵守していきたい。

  極楽の剰りの風や昼寝ざめ    山口誓子
  壁に倚り長き昼寝をかへりみる  大野林火
  中年やよろめき出づる昼寝覚   西東三鬼

  歳時記の「昼寝」は夏の季語である  大久保蛇足

  それにしても今日の午後の雷雨は凄かった。一時、道路に降る雨の量が道路脇の排水溝に流れ込む雨の量を上回っていた。これがもし終日続いたら間違いなく床下ないし床上浸水(最後に経験したのは1959年の伊勢湾台風のときであったと記憶している)になったであろう。

          
                   土砂振りの雨

  夕方、雨が上がったので散歩に出る。有隣堂で小阪修平『思想としての全共闘世代』(ちくま新書)を、栄松堂で瀬尾まいこ『温室デイズ』(角川書店)をそれぞれ購入。シャノアールで、前者にザッと目を通す(後者は後日の楽しみとする)。

  「ぼく個人にそくして言えば、六〇年代末から七〇年代初頭にかけての時代をどういうふうに通過したかが、それ以後のぼくの人生を決定してしまった。融通がきかない話である。
  しかしそれはそれでしかたがないものだと思う。またそれらは何ら「特権的」なことではない。人は自分の環境としての時代を選ぶことができないというだけの話だ。ぼくにとってあの時代を通過したということは、何かに「つかまれてしまう」という経験だ。それは同時に、自分自身にとってもつねによくわからない何かが自分の根底にあるということを意味する。僕とは違ったかたちでも、つかまれてしまったという経験は多くの同世代の人間にとって共通のことなのかもしれないとも思う。
  (中略)
  しかも経験において重要なのは、はっきりと認識できることよりも、自分でもよくわからないが自分を動かしているなにものかのほうである。またいろいろな出来事の経験の仕方がどこまでぼくの個人性に由来することなのか、それともある程度世代の共有のもんだいとして考えることができるのか、その境界もはっきりしない。ぼくが自分のことを「全共闘の化石」と自称(自嘲?)しながらもなかなか全共闘運動についてまとまって書くことができなかった理由もそこにあった。
  だが、もういい加減に書ける範囲のものを書いておかないと、結局は何も伝わらないままで終わることになる。…(中略)…書く人が違えばまた違ったものになるだろうが、ぼくの書けるものを書くしかない。」(9-10頁)

  ええ、覚悟を決めて書いてください。あたなたち全共闘世代(=団塊の世代)が覚悟を決めてくれないと、その後に続くわれわれの世代(シラケ世代と呼ばれた)が覚悟を決めて書きにくいから。本書の見所は、全共闘世代に属する小阪(1947年生まれ)が、全共闘時代のことだけではなく、その前後の時代を広く視野に入れて、彼らの世代の成長(ならびに老化)と戦後日本の社会変動との関係について自己省察しているところにある。

  「だが、それにしても全共闘運動の経験は下の世代には伝わっていない。スケールの違いを度外視すれば、太平洋戦争の経験が戦争文学をはじめさまざまな聞き書きや映像作品をつうじて伝えられてたのにたいし、全共闘運動は一世代のかなりの部分をつかんでしまった経験であるにもかかわらず、その全体像が伝わるような小説一つ生み出せなかった。
  (中略)
  しかし全共闘運動からヒッピー、さらにはフォークやロックの登場までの六〇年代後半から七〇年代初頭にかけて経験された出来事は、いまぼくたちが生きている〈現在〉を形づくっている要因のひとつだとぼくはかんがえている。なぜなら、一九七〇年前後は、戦後民主主義にたいする幻想の崩壊から近代批判、知識人の権威の失墜といった戦後的な思想の枠組みがくずれ、あるいは風俗や文化が大きく変化し、後の相対主義の時代につながるような価値観の変化がはじめるといった、戦後日本社会の決定的な転換期だったからだ。いまぼくたちはその後の「豊か」になった社会のなかで生じるさまざまな問題とともに生きている。この〈現在〉のとば口にはなにがあったのか、と問うことは、違う世代にとっても無意味ではないと思われる。」(216-218頁)。

  いい年をした男が自分のことを「ぼく」と書くようになったのは、庄司薫の影響である。青春文学のヘゲモニーを庄司薫から継承した村上春樹も「僕」であった(庄司薫は「ぼく」、村上春樹は「僕」。この違いはそれなりに重要で、小阪修平が庄司薫的文体の影響下にあることがここから推測できる。それにしても小阪はずいぶんと平仮名を多用するなぁ…)。戦後61年というけれども、60年安保闘争と68-69年の全共闘運動を一種の〈内戦〉と見るならば、平和な日本の青春は70年以降なのである。青年論の立場からすれば、戦後36年なのである。〈現在〉のとば口を1970年前後としてそこに着目する小阪の視点は有効だと思う。近いうちに丁寧に読むべき本である。家から持参した磯田光一『戦後史の空間』(新潮文庫)の第九章「〝留学〟の終焉」を読んでから、シャノアールを出る。西の空に夕焼けの名残があった。

          
                      残照