朝早く新潟から従姉夫婦が来る。一晩中、車を走らせて来たのだ。旦那さんの実家が結城(茨城県)にあり、お盆で帰省する途中に立ち寄ってくれたのである。妹も川越からやって来た。従姉(父の姉の長女)は私が小学生の頃、私の家に間借りしながら東京でOLをしていたことがあり、私たち兄妹とは親しい間柄である。昼食は天ぷらと出前の寿司。今日は父の命日でもあったので、にぎやかな食卓になってよかった。
夕方、散歩に出る。栄松堂と有隣堂を回って、穂村弘『にょっ記』(文藝春秋)、小林信彦『うらなり』(文藝春秋)、早川良一郎『さみしいネコ』(みすず書房)を購入。風が気持よさそうだったので、いつもの地下のシャノアールではなく、東急プラザの屋上のベンチで本を読むことにしたが、小さな子ども連れでもなく、女性同伴でもない、単身の中年男がひとときを過ごすには相応しい場所ではなかったかもしれない。しかし、暗黙の規範を疑って掛かることを習い性としている社会学者は、これくらいのことでひるんだりはしない。
ウルトラマンの頭が大きすぎないか?
穂村弘という人は気鋭の歌人らしいが、作品を読んだことはない。しかし、この日記風エッセー(モノローグ?)は非常に面白く、こういう人の詠む短歌はきっと面白いに違いないと確信する。たとえば、「7月3日 うこん・その3」。
「考えれば考えるほど、「うこん」と「うんこ」は別ものだ。
名前が似ているのは偶然というか、他人のそら似に過ぎない。
だが、それにしては余りにも瓜二つというか、生き写しというか、ほとんど寸止めというか、そういう危うさを感じる。
本来下品ではない私が、そのせいでどきどきびくびくするのは困ったことだ。
いや、これはひとり私だけの問題ではない。
今日もどこかで誰かが、どきっとしている。
明日もどこかで誰かが、びくっとするだろう。
故に、私は「うこん」と「ちんすこう」の改名を要求する。
全く別の名前にしろ、と云うのではない。
ここは一番、「うんこ」と「ちんこすう」に改名するがいい。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、と云うか、死中に活、と云うべきか。
思い切ってどきどきの中心に入ることで、逆にどきどきを消し去る。
ビジネスでいう逆転の発想である。
なまじちょっとだけ違っているから、云い間違えたらどうしようなどと思って、そこにありもしない「うんこ」の面影にどきどきするのである。
自分と瓜二つの先妻の面影におびえる後妻のように。
思い切って「うんこ」そのものにしてしまえば安心だ。
万一、「こうん」とか「んこう」とか、云い間違えたところで何の問題もない。
そんなものはこの世にないのだから。
そして、忘れた頃に「うこん」と小さく呟いてみるがいい。
そのとき、あなたはいつか知っていた大切な何かを、もう少しで思い出しそうになるだろう。
時をかける少女のように。」(41-43頁)
東海林さだおとよく似た感性の持ち主であるが、「自分と瓜二つの先妻の面影におびえる後妻のように」と「時をかける少女のように」の二つの比喩は、さすがに詩人である。
こんなのもある。「10月1日 真夜中の先生」
「真夜中に、ベッドの上でぬいぐるみたちに通知表を配る。
ぬいぐるみたちは、とってもどきどきしていた。」(74頁)
シュールでかわいい。略して、シューかわ。流行るかもしれない。「シュークリームの皮」みたいか。
もっと短いのもある。「6月6日 冗談を思いつく」
「きびしい半ケツが出ました」という冗談を思いつく。」(30頁)
困ったな。これから注目すべき裁判の判決が出る度に思い出しそうだ。「この判決をどう思われますか」と新聞記者に聞かれたときに、真面目な顔で答えられる自信がない(一度も聞かれたことないけど)。
冗談といえば、こんなのもある。「10月4日 冗談を云う」。
「自分の胸に手をあててよーく揉んでみろ、という冗談を思い出す。
思い出しただけでなく、実際に云ってみた。
電話の向こうが、ブラックホールになる。
こわかった。」(75頁)
この冗談は教室では絶対に使えない、と思った。
本書を読みながら思わず吹き出した瞬間を、小さな子どもに目撃されてしまった。その子は私を指さしながら母親に何か言っている。母親は私の方をチラリと見やりながら、子どもに何ごとかを言い聞かせている。子どもは「うん」と肯いている。街の彼方に日が沈もうとしていた。
おーい、雲よ。何処へいくんだー。
夕方、散歩に出る。栄松堂と有隣堂を回って、穂村弘『にょっ記』(文藝春秋)、小林信彦『うらなり』(文藝春秋)、早川良一郎『さみしいネコ』(みすず書房)を購入。風が気持よさそうだったので、いつもの地下のシャノアールではなく、東急プラザの屋上のベンチで本を読むことにしたが、小さな子ども連れでもなく、女性同伴でもない、単身の中年男がひとときを過ごすには相応しい場所ではなかったかもしれない。しかし、暗黙の規範を疑って掛かることを習い性としている社会学者は、これくらいのことでひるんだりはしない。
ウルトラマンの頭が大きすぎないか?
穂村弘という人は気鋭の歌人らしいが、作品を読んだことはない。しかし、この日記風エッセー(モノローグ?)は非常に面白く、こういう人の詠む短歌はきっと面白いに違いないと確信する。たとえば、「7月3日 うこん・その3」。
「考えれば考えるほど、「うこん」と「うんこ」は別ものだ。
名前が似ているのは偶然というか、他人のそら似に過ぎない。
だが、それにしては余りにも瓜二つというか、生き写しというか、ほとんど寸止めというか、そういう危うさを感じる。
本来下品ではない私が、そのせいでどきどきびくびくするのは困ったことだ。
いや、これはひとり私だけの問題ではない。
今日もどこかで誰かが、どきっとしている。
明日もどこかで誰かが、びくっとするだろう。
故に、私は「うこん」と「ちんすこう」の改名を要求する。
全く別の名前にしろ、と云うのではない。
ここは一番、「うんこ」と「ちんこすう」に改名するがいい。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、と云うか、死中に活、と云うべきか。
思い切ってどきどきの中心に入ることで、逆にどきどきを消し去る。
ビジネスでいう逆転の発想である。
なまじちょっとだけ違っているから、云い間違えたらどうしようなどと思って、そこにありもしない「うんこ」の面影にどきどきするのである。
自分と瓜二つの先妻の面影におびえる後妻のように。
思い切って「うんこ」そのものにしてしまえば安心だ。
万一、「こうん」とか「んこう」とか、云い間違えたところで何の問題もない。
そんなものはこの世にないのだから。
そして、忘れた頃に「うこん」と小さく呟いてみるがいい。
そのとき、あなたはいつか知っていた大切な何かを、もう少しで思い出しそうになるだろう。
時をかける少女のように。」(41-43頁)
東海林さだおとよく似た感性の持ち主であるが、「自分と瓜二つの先妻の面影におびえる後妻のように」と「時をかける少女のように」の二つの比喩は、さすがに詩人である。
こんなのもある。「10月1日 真夜中の先生」
「真夜中に、ベッドの上でぬいぐるみたちに通知表を配る。
ぬいぐるみたちは、とってもどきどきしていた。」(74頁)
シュールでかわいい。略して、シューかわ。流行るかもしれない。「シュークリームの皮」みたいか。
もっと短いのもある。「6月6日 冗談を思いつく」
「きびしい半ケツが出ました」という冗談を思いつく。」(30頁)
困ったな。これから注目すべき裁判の判決が出る度に思い出しそうだ。「この判決をどう思われますか」と新聞記者に聞かれたときに、真面目な顔で答えられる自信がない(一度も聞かれたことないけど)。
冗談といえば、こんなのもある。「10月4日 冗談を云う」。
「自分の胸に手をあててよーく揉んでみろ、という冗談を思い出す。
思い出しただけでなく、実際に云ってみた。
電話の向こうが、ブラックホールになる。
こわかった。」(75頁)
この冗談は教室では絶対に使えない、と思った。
本書を読みながら思わず吹き出した瞬間を、小さな子どもに目撃されてしまった。その子は私を指さしながら母親に何か言っている。母親は私の方をチラリと見やりながら、子どもに何ごとかを言い聞かせている。子どもは「うん」と肯いている。街の彼方に日が沈もうとしていた。
おーい、雲よ。何処へいくんだー。