フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月11日(金) 晴れ

2006-08-12 03:04:39 | Weblog
  午前9時、起床。寝たのが午前4時くらいだったので、やや寝不足気味(だからといって昼まで寝ているなんて学生みたいな真似はできない)。『ドラゴン桜』の再放送を観ながら朝食(目玉焼き、トースト、牛乳)をとり、朝刊(読売)に目を通す。19日スタートの次の朝刊小説が告知されていた。沢木耕太郎「声をたずねて、君に」である。著者初の恋愛小説だという。突然声が出なくなったラジオのDJの若者が、失われた声を探すように「旅」に出る話とのこと。「作者の言葉」が載っている。

  「主人公の「彼」に何が起こるかわかっているし、どうして一種の「旅」に出ることになるのかもわかっている。だが、その旅の終着駅がどこで、「彼」が何者になっていくかまではわかっていない。つまり、書き手の私もまた、「彼」と同じく、「声をたずねて、君に」というタイトルを一行の杖として、地図のない旅に出ようとしているのだ。途中に待ちかまえているだろう深い谷をうまく渡り切ることができれば、と願っている。」

  結末が決まっていない状態で小説を書き出す。そして書きながらストーリーが生成していく。そんな危なっかしいことがよくできるなと人は思うかも知れない。でも、そういうものだろうと思う。私は小説を書いたことはないが、論文で同じようなことは何度も経験している。「途中に待ちかまえているだろう深い谷をうまく渡り切ることができれば」という気持は、実によくわかる。いま執筆している新学部の基礎演習のガイドブックを一両日中に仕上げたら、私も「地図のない旅」に出発しよう。
  昼食は冷やし中華。夕方、海棠尊『チーム・バチスタの栄光』を読み終えてから、散歩に出る。この小説は投稿の時点では『チーム・バチスタの崩壊』というタイトルであったが、出版にあたって改題したのである。正解と思う。物語の事実上の主人公である「白鳥圭輔」(厚生労働省大臣官房秘書課付技官)が第二部から登場してくるという破格の構成は、物語の語り手である「田口公平」(東城大学付属病院神経内科講師)と「白鳥圭輔」を同じ人物の陰画(ネガ)と陽画(ポジ)と考えれば、決して不自然なものではない。むしろ不自然なのは、あれだけ「氷姫」(白鳥の部下のあだ名)の話をしておいて、彼女が最後の最後まで登場しないことだ。それと、個人的に怖かったのは、脊髄硬膜腔にチューブを留置して局所麻酔液を注入する「エピドラ」(硬膜外麻酔)という手法と事件との関わりである。私、一昨々年、一昨年、昨年と3年連続でこの「エピドラ」で手術を受けているので…。
  有隣堂で『文藝春秋』9月号を購入し、シャノアールで芥川賞受賞作の伊藤たかみ「八月の路上に捨てる」を読む。上手な小説だとは思うが、「受賞作なし」の佳作というのが妥当ではなかったか。選評を読むと、作者は今回で三期連続で候補になっているという。どうやら今回の受賞は、「八月の路上に捨てる」単独での受賞ではなく、「以前の二作もかなりよかったが、今度の作品では確実な成長が感じられた」(河野多恵子)ということでの受賞のようである。ふ~ん、直木賞ならわかるけど、芥川賞には相応しくない考え方ではないだろうか。芥川賞というのは、彗星の如く現れて、圧倒的な才能で掴み取るべきものではないのか。庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(1969年)のように。その文体は当時の若者たちの心を鷲づかみにして、70年代を代表する文体となった。その覇権は村上春樹が『風の歌を聴け』(1979年、群像新人文学賞)でデビューするまで続いた。庄司薫も村上春樹もいきなり登板して160キロの速球を投げた。1年目は130キロ台、2年目は140キロ台、そして3年目は…という努力型の投手ではない。エースは最初からエースであった。芥川賞がそうしたエースを輩出しなくなって久しい。新人賞の乱立で作家の青田買いが起こっているためだろうか。そう考えると、『チーム・バチスタの栄光』の海棠尊が44歳の新人であることは、栄光というよりも、むしろ奇跡である。

          
                    芥川賞受賞作

  帰宅すると玄関先に半飼い猫の「なつ」「あき」のきょうだいとその母猫がいた。昼間は日陰を求めては居眠りをし、夕方から活動を始める。本当に仲がいい。夕食(もちろんわれわれ人間の)はオムレツ、焼き鶏、茄子田楽、大根の味噌汁、御飯。

          
          われわれは猫である。母猫だけ名前がない。

  深夜、いまモロッコの旅をしている学生のブログを読んだ。現地のインターネットカフェからアップしているのだ。素敵な文章なので紹介したい。

  夜10時。
  砂丘の間にマットを敷いて今夜はここで寝るのだと知る。
  仰向けになると視界を空だけで埋めることができる。
  が、しかし、思ったほどすごくない。
  まあきれいと言えばきれい。
  しかし愛知県幡豆郡や宮城で見た星空とさほど差はない。

  それはひときわ輝く月のせいであった。
  月もきれいだが星が見たい。
  あと数時間すれば月は沈む。
  そしたら・・・。

  そのまま空の下で眠りに落ちた。

  数時間してふと目が覚める。
  砂をかぶったのか目が痛い。
  ようやく目を開けるとさっきの倍以上の星が瞬いている。

  息を呑んだ。
  泣こうと思えば泣けた。
  このまま逆さになって空に落ちたかった。
  濃紺の空にちりばめられた無数の星。

  すごく暗くて、すごく静かで。
  でも何も、何も怖くない。

  心がいっぱいだ。
  心が、満ちている。

  次に目を覚ますと星は減り、うっすら紫色の空に。
  次に目を覚ますと快晴のスカイブルー。
  元気な太陽が砂山の向こうからやってくる。
  サハラ砂漠の夜明け。