フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月27日(日) 曇り

2006-08-28 02:37:41 | Weblog
  昼食を取りがてら散歩に出る。もう日中でもそれほど暑くはない。次の週末はもう9月なのだ。やぶ久ですき焼きうどんを食べてから、サンライズ商店街にある、いまや蒲田駅周辺で唯一の真っ当な古本屋になってしまった南天堂に行く(JRの線路沿いの誠龍書林の入っていたビルも例の地上げ攻勢でなくなってしまったのだ)。以下の本を購入。

  スティーヴン・マーカス『もう一つのヴィクトリア時代』(中央公論社、1990年)
  松本健一・高崎通浩『[犯罪]の同時代性』(平凡社、1986年)
  アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』(早川書房、1993年)
  鶴見俊輔『隣人記』(晶文社、1998年)
  西部邁『学者 この喜劇的なるもの』(草思社、1989年)

          

  シャノアールで、持参した清水幾太郎『倫理学ノート』(1972年)の「余白」と題する長いあとがきを読む。例によってたくさんの傍線とメモを書き込む。「余白」は次のような文章で終わっている。

  「自然的欲望からの自由において、自ら高い規範を打ち樹て、それへ向かって自己を構成して行こうと努力する少数者と、自然的欲望の満足に安心して、トラブルの原因を外部の蔽うもののうちにのみ求め、自己の構成に堪え得ない多数者。飢餓の恐怖から解放された時代の道徳は、すべての「大衆」に「貴族」たることを要求するところから始まるであろう。しかし、それが不可能であるならば、「大衆」に向かって「貴族」への服従を要求するところから始まるであろう。」(講談社学術文庫版、437頁)

  この黙示録的文章の大方の評判はよろしくない。第一に、多数者の少数者への服従は戦後民主主義の多数決原理に反するし、第二に、「貴族」VS「大衆」というオルテガ流の図式は戦後民主主義の平等原理に反する。実際、清水は『倫理学ノート』以後、戦後の教育(および戦後思想)についての批判を開始するのだが、なぜ「庶民の思想家」(南博)である清水が大衆批判を行うに至ったのか。それが今度の論文のテーマである。

          

  夜、清水の最後の著書(書き下ろし)である『「社交学」ノート』(1986年)を読む。窓から入ってくる夜気はひんやりとしている。