7時半、起床。
チーズトースト、目玉焼き、ロースハム、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。
昨日のブログを書いてアップする。
村上春樹の新作長編『街とその不確かな壁』を腰を据えて読み始める。旧友というのは、しばらく会わなくても会った途端に昔のように語り合えるというけれど、それは正確ではないと思う。最初に「しばらく会わなくても会った途端に昔のように語り合える」というふうに振舞うのである。旧友を演じるのである。そしてしだいにエンジンがかかってきて昔のように回り出すのである。この新作の場合も、7章あたりまでは長年の愛読者(デビュー作の『風の歌を聴け』からすべての小説を刊行の順序通りに読んでいるのである)を演じつつ読んでいたが、8章からそういう意識もなく読み耽るようになった。
珈琲を淹れる。
書斎のソフェーで読む。
書斎のデスクで読む。
ラジオは言葉が邪魔になるのでCDをかける。バッハのヴァイオリンとピアノための6つのソナタ。ヴァイオリンは知らない名前の人だが、ピアノはグレン・グールド。
2時間ほど読んだところで、本を鞄に入れ、昼食を食べに出る。朝から雨が降っている。晴耕雨読というわけだが、読書は必ずしもインドアな行為ではない。
外川田跨線人道橋を渡る。
橋の上から電車の運転手さんに手を振ったら(大人でも)手を振って応えてくれるかを検証してみようかと一瞬考えたが、雨の日に傘を差した大人がそれをやると運転手さんがドキッとするかもしれないと思い、やめておく。
「きりん珈琲」に行く。
いつも好んで座るカウンター席は空いていなかったので、テーブル席に案内される。注文をして、鞄から本を取り出して開く。そのときこの席は読書にはあまり向いていないことに気づいた。本に影ができるのである。
この電球の傘が作る影である。(カウンターの上の照明では影ができない)
うどんナポリタン(目玉焼きをトッピング)が運ばれてきた。本を閉じる。食べながら本は読まない。
一緒に注文したきりんブレンド。飲みながら本を読むことはOKである。
読みながら思いついたことを余白にフリクションペンで書き込む。読み終えたら古本屋に売る、ということは考えていないので、こういうことは平気である。
「目が悪くなって、また耳鳴で頭がジーンとして、本がろくに読めなくなった・・・と思っていた。しかし面白い本は読めるのである」と。
「きりん珈琲」には1時間ほど滞在した。場所を替えよう。「リトルミトン」を目指す。
雨の土曜日なので空いていた。「雨の中、いらしていただきありがとうございます」と店主さんに挨拶される。いいえ、私は雨は苦にしません。風が加わると別ですが、ストレートに降る雨は散歩の妨げにはなりません。「ストレートに降る雨」と店主さんは私の言葉を復唱した。新しい単語に出会ったときみたいに。
プリンと紅茶(ダージリン)を注文する。デザートは食べながら読書できる。
「リトルミトン」には1時間ちょっと滞在した。切りよく第一部読了。『街とその不確かな壁』は三部構成で、第一部が137頁、第二部が一番長くて413頁、第三部が一番短くて56頁だ。そしてチラッと見たら「あとがき」が5頁付いている。
雨はまだ降っている。あいかわらずストレートに降る雨だ。
その「街」の「不確かな壁」の高さは8メートルほどだという。『進撃の巨人』の舞台となった街の壁の高さは50メールほどだそうだから(妻に聞いた)、それと比べるとずいぶん低い。この左の3階建てのビルよりちょっと低いくらいではなかろうか。棒高跳びでは越えられないが(男子の世界記録は6メートル18センチ)、スポーツクライミングの選手ならあっという間に越えてしまいそうだ。
帰宅して夕刊を広げたら、またこんなことが起こっている。
外出中に届いていたメールをチェックし、すぐに返信を書く。返信の必要なメールにはできるだけ早く返信するように心がけている。「返信しなくちゃ」と思っている時間が持続するのがイヤなのだ。とくに本を読んでいるときは。
オンデマンド授業のレビューシートをチェックする。
夕食は麻婆茄子、鶏胸肉の大葉チーズ挟み焼き、キャベツと玉子の吸物、ごはん。
食事をしながら『おとなりに銀河』(録画)を観る。
『福山雅治 福のラジオ』をタイムフリーで聴きながら、今日のブログをあらかた書く。
風呂から出て、今日の日記を付ける。
寝る前の1時間、『街とその不確かな壁』の第二部の最初の数章を読む。早く先を読みたいという気持と、早く読み終えたくないという気持が共存している。前回の長編『騎士団長殺し』から6年待ったのだ。読み終えてしまったらまた何年も待たなくてはならない。
お茶と柿の種を読書のお供にして。
1時半、就寝。