フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月26日(土) 曇り

2006-08-27 01:09:32 | Weblog
  午前7時半ごろ起床。とりあえず書斎のパソコンの前に座り、1時間半ほど論文のための資料作り。そうやって食欲が出てくるのを待って、朝食にする。目玉焼き、ハムとレタスのトースト(2枚)、牛乳。少し横になって一服してから、先日購入した瀬尾まいこ『温室デイズ』を読み始める。途中に昼食(冷やし中華)をはさんで最後まで読む。

          
                    読書的空間

  小説の舞台は学校崩壊しかかっている中学校。主人公は3年生の中森みちると前川優子。二人は同じクラスの友人だが、家庭環境や性格は対照的だ。1・3・5章(最終章)は中森みちるが、2・4章は前川優子が語り手である。左右に音質の違う2つのスピーカーを配したこのステレオ的手法は、Aにとっての現実は必ずしもBにとっての現実と同じではないという作者の「薮の中」的世界観の表明であり、人物や出来事の描写に奥行きを与える効果がある。
  中森みちるは自分たちの学校の崩壊に体を張って(自分がイジメの対象となることを覚悟の上で)抵抗する。彼女の気持ちの中には、小学校のとき、前川優子をクラスのイジメから救えず、むしろイジメに加担してしまったという自責の念がある。

  「正しいことができない苦しさ、だらけきったどんよりした空気、立て直す時のもどかしさ。もうあんな日々は送りたくない。誰かを傷つけたり、仲間を追い込んでしまう後味の悪さ。もうあんな気持ちは味わいたくない。
  私たちはもう三年生だ。中学校を卒業するまで半年もない。今、崩れたら卒業までに元に戻すことは不可能だ。重い空気のまま、中学校を終えたくない。私は祈るような気持で崩れていく学校を見ていた。」(15頁)

  前川優子は中森みちるがイジメに遭うのを見ていられず、教室に出ることをやめ、相談室と呼ばれる学校の中の一種の避難所に逃げ込み、しかし、やがて登校そのものができなくなり、「学びの部屋」とう名前のフリースクールに母親に連れて行かれる。

  「学びの部屋はぬるま湯だ。勉強をしている子は一部で、みんなトランプをしたり、読書をしたり、手芸をしたりしている。これで中学校に出席していることになるんだ。こんなことをしていたって、私は宮前中学校の生徒であり、宮前中学校を卒業できるのだ。義務教育というのはすごい。ドロップアウトした人にとことん優しい。
  教室に行きたくない。そういう私に別室登校が認められ、学校に行きたくなくなれば、次のものが用意される。教室でまともに戦うみちるには、誰も手を差し伸べないけれど、逃げさえすればどこまでも面倒見てもらえる。教室で戦うのは、ドロップアウトするよりも何倍もつらいのに。
  私はそんなことを考えながらも、ひたすら『坊ちゃん』を読んだ。」(112-3頁)

  もし前川優子がここで決然と立ち上がって中森みちるとタッグを組んで学校崩壊と正面から戦い始めたら、それはそれで痛快な物語であろうが、もちろん中学校の現役の国語教師でもある瀬尾まいこがそんな紙芝居のような展開にもっていくはずはなく、前川優子は中森みちるとは別のいかにも彼女らしいやり方で学校を崩壊から救うべく静かに立ち上がるのである。
  『温室デイズ』の「温室」とは「学校」のことである。教師たちはことあるごとに「学校」を「社会」と対比させ、その「温室」的性質(ぬるま湯)を強調したがる。しかし、社会学的な目で見れば、現代は「社会」そのものが「学校化」(学校的価値が社会の全域を覆っていく過程)していっているのである。生まれて間もなく幼稚園や保育園に入園し、ほとんどの者が20歳前後まで「学校」の中で一日の多くの時間を過ごすのだから、「学校」を卒業した途端に「学校的なるもの」から自由になると考える方が不自然だ。「温室」の中で生きられなかった人間が「社会」で生きていくのは大変だろう。しかし、同様に、「温室」の中で戦えなかった人間が「社会」で戦っていくのは大変だろう。そして戦い方には一つではない。二つでもない。『温室デイズ』には主人公の2人の女の子以外にも、同級生の斎藤君や、講師の吉川のように、自分なりのやり方で学校の崩壊と戦おうとする人物が登場する。「戦いなさい」-物語のメッセージは明快である。なにしろ『温室デイズ』は雑誌『野性時代』に連載された小説なのだ。ただし、戦いのやり方は「覇権的な男性性」にこだわらないで、という副次的メッセージを読み落としてはならない。前作『強運の持ち主』(文藝春秋)にはガッカリしたけれども、今度の新作は瀬尾まいこファンの期待にしっかりと応えてくれた。

  夕方、散歩に出る。くまざわ書店で、安西水丸『大衆食堂へ行こう』(朝日文庫)を購入。西口の駅前広場では、男女5人組のバンドが路上ライブをやっていた。昨日の「こころね」はおじさんおばさんも立ち止まらせる70年代フォーク系だったが、今日のバンドはロックバラード系で若者たちに囲まれていた。なかなかのサウンドで、もし雨がパラパラと降り出さなかったら、しばらく聴いていたかった。

          
                 去りゆく夏の路上ライブ

8月25日(金) 雨のち曇り

2006-08-26 00:03:44 | Weblog
  朝、強い雨の音で目が覚める。このところ晴れと曇りと雨が一日の中に混在する不安定な天気が続いている。昨夜は寝たのが遅かったので、トイレから戻ってもう一度、昼近くまで眠る。朝食兼昼食はウインナーソーセージとキャベツの炒め、鰹の角煮、大根の味噌汁、御飯。新聞やTVで冥王星が惑星を降格になったというニュースを盛んに報じている。冥王星が惑星でなくなることの影響を訊かれた占星術師が、「天文学と占星術では惑星の定義が違うから…。占星術では太陽も月も惑星なのです」と答えているのに驚いた。そうか、これまで気にとめたこともなかったが、占星術っていうのは天動説の立場に立っているわけだ。考えてみれば、占星術はコペルニクス以前から存在しているわけだから、当然と言えば当然か。でも、近代版というか、地動説的占星術っているのは存在しないのだろうか?
  ルノアールに出かけていって、清水幾太郎が『中央公論』1970年3月号に書いた「見落とされた変数-一九七〇年代について」を読む。傍線を何カ所も引き、余白にもたくさん書き込みをした。刺激的な論文だった。ところで蒲田にはルノアールは2店あって、パリオ(東口駅ビル)4階に入っている小さなルノアール(64席)と、西口のグランタウンビル2階の大きなルノアール(147席)である。以前から気になっていたのだが、ブレンドコーヒーの値段が小さなルノアールは440円なのに対して、大きなルノアールは480円である。チェーン店なのに店によってブレンドコーヒーの値段が違うのはなぜなのだろうか。いつかレジで尋ねてみようと思いつつ、今日も訊けなかった。ちなみに今日のルノアールは480円の方である。
  西口駅前広場で「こころね」という2人組のミュージシャンが路上ライブをやっていた。先日(22日)もここでライブをやっていて、その日のフィールドノートにアップした写真にその模様が写っている。きれいなメロディー、素朴な歌詞、ピュアーな高音…、素人っぽいがいい歌だと思った。その日は、帰宅してから、即売していたCDを購入すればよかったなといささか後悔したので、今日はその『ウタギタ』というCDを2000円で購入した。帰宅してさっそくCDをかけてみたが、ライブで聴いたときの方がよかった。たぶんこれは一般的に言えることで、音楽はライブで聴くのが一番なのだろう。一期一会というやつなのだ。

          
           こころね。SHO(左)とATSUYOSHI(右)

8月24日(木) 晴れ時々曇り、一時雨

2006-08-25 03:09:41 | Weblog
  午後、昼飯を取りがてら散歩に出る。蕎麦を食べたかったが、木曜日で「やぶ久」は定休日のため、「満月」に行く。場所が駅に近い分、「やぶ久」よりも値段の設定はいくらか高目である。天ざる(1500円)を注文。蕎麦つゆが天つゆを兼ねている蕎麦屋が多いが、「満月」ではちゃんと別々の器で出てくるので、蕎麦つゆが天ぷらの油で汚れることがない。もちろん蕎麦つゆは冷たく、天つゆは温かい。蕎麦湯も熱かった(蕎麦湯がぬるいと本当にがっかりする)。天ぷらは数が多く、1つ1つの天ぷらも大きい。これで1500円は高いとは言えないだろう。
  「満月」を出て、そのまま床屋に行く。「理髪一番」というチェーン店で、席は7つあり、平日の昼間に行けば、たいてい待たずにやってもらえる。今日もそうだった。年輩の職人が多く、仕事が丁寧な印象を受ける。これで料金2400円は安い。なんだか申し訳ない気がするくらいだ。もちろん安いだけならもっと安い店もあるが、それで技術やサービスが落ちては意味がない。
  散髪を終えて、商店街を散歩する。蒲田駅西口には3本の商店街が平行して走っている。一番道幅が広いのはサンライズ商店街。私がよく行くシャノアールはここにある。数年前まで古書店としては大きな店構えの「書林大黒」があって、散歩の途中で必ず立ち寄ったものだが、いまではどこにでもあるようなドラッグストアーになっている。真っ当な古本屋が街から一軒なくなることの文化的損失は計り知れない。

          
                   サンライズ蒲田

  いまは何か別の名前になったらしいが(誰もその名前を知らない)、昔は蒲田銀座と呼ばれたその商店街は人通りが少ない。昔からの個人経営の小さな洋品屋が多いが、いまの時代、誰もそういう店で服など買わない。もし私が商店会長なら、あれこれのお総菜を売る店(もちろん自家製のものを店頭販売する)を目玉にして商店街の復興を目指すだろう。生活感と活気が商店街には何よりも大切だ。

          
                     蒲田銀座

  蒲田銀座は奥まで行くと、途中からアーケードがなくなる。その先には昭和30年代の面影を残した飲食店街がある。安くて旨い鰻屋の寿々木や、私の中学時代のクラス担任だったH先生が学校を辞めて板前になった釜飯屋もここにある。

          
                   レトロな食堂街

  東急池上線と多摩川線(昔の目蒲線)の高架線沿いにあるのが、正式な名称は知らないが、くいだおれ横丁である。もっとも食堂が多いのは途中までで、その先は飲み屋街になっている。夕暮れ前のこの時刻は、これから開店という店が多く、人通りはまばらだ。夜になると活気が出るのかどうか、酒飲みでない私は知らない。赤い服を着た小さな女の子が父親に手を引かれて歩いていた。

          
                   くいだおれ横丁

8月23日(水) 晴れのち曇り

2006-08-24 02:17:18 | Weblog
  今日の昼食は、妻が恵比寿の手芸教室に教えに行っていて留守なので、娘がトマトとアボガド入りのカレーライスを作った。トマトの酸味とアボガドの甘さがうまくミックスしていて美味しかった。
  昼寝をしてから、散歩に出る。呑川沿いのガード下のトンネルを通って、東口にある復活書房へ行く。昨夜、娘が私の書斎にやってきて、「奥田英朗の『町長選挙』はある?」と聞かれたのだが、「トンデモ精神科医・伊良部」シリーズは第2作までしか購入していなかったので(『町長選挙』はこの4月に出た第3作)、カレーライスが上手に作れたご褒美ではないけれども、復活書房にあれば買ってやろうと思ったのである。案の定、それはまるで私が来るのを待っていたかのように、入口を入って目の前の売れ筋本の棚に置いてあった。定価1300円が850円である。もちろん即決で購入。それからシャノアールに寄って、持参した清水幾太郎の論文(『中央公論』1969年12月号掲載の「六〇年代について」)を読む。以前読んだものだが、再読して大変興味深かった。たぶん三読することになるだろう。

          
               蒲田の空の下、呑川は流れる

  16日のフィールドノートで太陽系の惑星の数が9から12になるかもしれないという話を書いたが、国際天文学連合の大会出席者の間でその案は評判が悪く、むしろ冥王星を惑星から格下げして、惑星の数を8にする修正案が浮上しているようである。やはり惑星のインフレが懸念されたのだろう。おかげで冥王星はとんだとばっちりを喰うことになりそうだ。冥王星からすれば、カロンやセレスやゼナは新惑星ではなく、迷惑星だったわけである。

8月22日(火) 晴れ

2006-08-23 00:03:11 | Weblog
  午前9時、起床。予約している近所の歯科医院で歯石の除去をしてもらう。帰宅して朝食(ハムトースト、サラダ、牛乳)。それから原稿書き。調子が出てきたので、昼食は卵かけ御飯でササッとすませ、原稿書きを続ける。午後4時頃に書き上がり、関係者にメールで送る。
  父のカセットテープを整理していた母が、私や妹の子どもの頃の歌が入っているテープを見つけて、聴いてごらんよというので聴いてみる。このテープなら何度か聴いたことがある。当時、隣人だったEさん一家が引っ越すことになり、その送別会を私の家でやったときのものだ。父母、私と妹、同居していた従姉のTちゃん、みんなのど自慢大会のような雰囲気で歌を歌っている。司会進行役は父だ。もちろんカラオケなどない時代だから、アカペラ(そういう言葉もなかったが)である。私は、曲名は思い出せないが、運動会をテーマにした唱歌を歌っていた。上手でも下手でもないというレベルの歌唱力である。元々録音してあったのはオープンリールのテープで、父がある時期にカセットテープに再録音したものと思われる。今度は私がカセットテープからMDにダビングしておく番か。
  夕方、床屋に行ったのだが、昨日から明日まで三連休の貼り紙がしてあった。お盆休み返上で働いたその振り替えか。栄松堂で『オール読み物』(文藝春秋)9月号を立ち読みする。直木賞受賞作が掲載されているのだが、受賞作の三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』と森絵都『風に舞いあがるビニールシート』は購入済なので、わざわざ雑誌を購入するには及ばない。受賞者二人の受賞記念エッセーと選者たちの講評だけ読む。三浦のエッセーのタイトルが凄い。「生きるとは、本を読むこと」。私も読書に投下している時間とエネルギーとお金にかけては人並み以上だと思うが、とてもここまでは言えない。突き抜けたものを感じる。一方、森のエッセーのタイトルは「父に捧ぐ」。まともな感覚の人である。

          
                夕暮れの蒲田駅前西口広場