最近の車の中の音楽は、バッハの平均律です。
昔聞いたバッハのトッカータとフーガ二短調は、印象に
残るパイプオルガンでしかもコンピューターにより編集された
デジタル音のものが特に印象に残り、それ以来バッハというの
パイプオルガンの人だと思っていました。
その後、グレングールドのゴールドベルク変奏曲などで
バッハを聞きますが、バッハというより彼のピアノの方が独特で
興味があり、なぜにこのCDはピアノなのかとは一度も思わず、
ただただ聞いていました。そして、いつしかピアノはベートーベンの
ピアノソナタになり、月光や情熱などが繰り返しいつも頭の中に
あります。
しかし、何も頭に残したくないときとか何も考えないでいたい時に
バッハのチェンバロがとても心地よいのです。
本の中ではよく翻訳本の訳としてハープシコードとして出てきますが、
ちっともパイプオルガンとピアノと別に区別もなく、古い録音だから
こういう音として聞いていましたが、ピアノ曲を聞けば聞くほど
このハープシコードでないとだめなときというのがあります。
眠れぬときとか、頭が変に興奮したときとか、頭が疲れすぎたときに
ゴールドベルク変奏曲は、ハープシコードで弾いてもらいたいのです。
グレングールドのピアノはその違いを楽しみたい時に暑かった午後でも
水出しの珈琲とともにいただきたいと思います。
そんなわけで、今日はバッハの平均律で過ごしました。
昔聞いたバッハのトッカータとフーガ二短調は、印象に
残るパイプオルガンでしかもコンピューターにより編集された
デジタル音のものが特に印象に残り、それ以来バッハというの
パイプオルガンの人だと思っていました。
その後、グレングールドのゴールドベルク変奏曲などで
バッハを聞きますが、バッハというより彼のピアノの方が独特で
興味があり、なぜにこのCDはピアノなのかとは一度も思わず、
ただただ聞いていました。そして、いつしかピアノはベートーベンの
ピアノソナタになり、月光や情熱などが繰り返しいつも頭の中に
あります。
しかし、何も頭に残したくないときとか何も考えないでいたい時に
バッハのチェンバロがとても心地よいのです。
本の中ではよく翻訳本の訳としてハープシコードとして出てきますが、
ちっともパイプオルガンとピアノと別に区別もなく、古い録音だから
こういう音として聞いていましたが、ピアノ曲を聞けば聞くほど
このハープシコードでないとだめなときというのがあります。
眠れぬときとか、頭が変に興奮したときとか、頭が疲れすぎたときに
ゴールドベルク変奏曲は、ハープシコードで弾いてもらいたいのです。
グレングールドのピアノはその違いを楽しみたい時に暑かった午後でも
水出しの珈琲とともにいただきたいと思います。
そんなわけで、今日はバッハの平均律で過ごしました。