King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

昔のホテルブレンド

2009年12月09日 00時31分19秒 | 珈琲
日本のホテルではおいしい珈琲は飲めない。という
あまりに悲しい事実。

これについて今日考えてしまいました。

というのも先ほど観たテレビに珈琲ハンター川島氏が
出ていて、日本はホテルでもレストランでもおいしい
珈琲が飲めないことを嘆いていました。

それはおいしい本物の珈琲を広めてこなかったからだと
いい、自分が長年生産国を回り、消費者と生産国の橋渡し
をするうち、本物の味をもっと広めたいという気持ちを
持ったと語っていました。

彼は、ご存知のようにシャンパンのボトルに詰めた珈琲を
会員制で販売しています。

テレビでもそれは出ていました。

その珈琲がJALで供されたというのもやっていました。

これらは全て既知のこと。

だから何というほどのことです。

ただ、気になるのは一流の場であるはずのホテルや
レストランでもこと珈琲については重きを置かれていないと
言う事実です。

ところが以前は、そうではなかったはずです。

一流ホテルは、ホテルブレンドとかハウスブレンドというもの
を持っていて、それをいれる専門の人もいました。

しかし、今はどこもマシンで淹れていていつ焙煎したのか
解らないものを使っています。

ホテルの喫茶室は珈琲を飲みにいくところではなく、商談や
密談の場所なのか、ホテル自体に誇りというものがなくなった
のか。今でも一杯3000円もするような希少豆を使った珈琲を
出すところはありますが、抽出はアルバイトのような昨日
今日入った下っ端が担当していて、やはり重きを置かれる
存在ではないようです。

ドトールやスタバ全盛の時代では当然なのかもしれません。

人の手間を嫌う風潮と万人が簡単に手に入るものを求めると
言う結果、今の事態になったものであると思います。

一杯分の豆を淹れる度に挽いて、一杯づつドリップするという
作業は、食事を供するようなお店ではただ面倒なだけでしょう。

ボタンひとつでいつでもおいしい珈琲が飲めればいいという
ことなのでしょう。

ただ、それは高い機械を導入しても人がやる作業にかないません。

日本の場合、お茶の淹れ方は家庭科の時間で習いますが、珈琲は
習いません。

つまり、おいしい珈琲を飲むというのは文化であり、今世界の
第三位のコーヒー消費国である日本では間違ったものが出来
上がっているのです。

ですから、川島氏が言うおいしい珈琲を広めたいという気持ちは
私も同じです。

ただ、誰もがおいしい珈琲を淹れることを家庭科で習うように
なるような活動が本当は必要なのではと思うのです。

米国では、どこでも珈琲を安く売っています。でも、どこも
機械で淹れているかというとそうでもなく、淹れたてのものを
どこでも飲めます。

日本では、街角に自販機があり、コーヒーは缶で飲むという
ものになっています。

ドトールやスタバでは、一杯200円しますが、缶は120円で
ノンシュガーや微糖というものが多くあり、今までは既に
ミルクも砂糖も入っている甘ったるい飲み物から本来の
コーヒーの味を味わうものも出てきているのです。

夏はアイス、冬はホットとどこでも飲み物にありつけるという
変な文化がはびこってしまったのです。

それに対抗して最高の豆を馬鹿高い値で、シャンパンボトルに
詰めて届けるという手法で対抗できるのでしょうか。

ホテルでもろくな物が出ないというところに解決の
糸口があるような気がしてなりません。

人が淹れる。一杯づつ淹れるという当たり前のことを
当たり前にめんどくさがらずにできる文化。珈琲を省力化や
コストカットの材料にしない文化を持つことを追及すること
が、豊な時間と豊な空間を形成するという当たり前の哲学を
改めて構築することが必要です。

一部の喫茶店にだけ残ったこの文化を当たり前の物にする
それが求められていると思います。
コメント
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