King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

紀尾井シンフォニエッタ聞いた

2010年08月22日 23時57分14秒 | ライブ・コンサート・展覧会
先日の『太陽を曳く馬』を読んでいたとき、そして、
ハーバード白熱教室を見たときと、つくづく人生に
おいて実に様々な問題が降りかかり、人はつまづき
一々考えあぐねることになりますが、しかし、よく
そういった問題悉く先人の答えがあり、考える痕跡も
あると感じていたのです。

それはこの夏見た美術館と展覧会でも同様に、人々は
美を求めたとき、人生について考えたとき、自我を
どうにかして取り除き取り払い次なる物を求めた時に
それはすでに誰かが考えていてくれて、もう答えのような
物まで用意されているのです。

人々はそれはうまく見つけられるかその答えにアクセス
する方法を知ればいいだけなのです。

例えば、セザンヌの絵を見て展覧会の人達の漏れ聞こえる
声は、やっぱり上手ねえだったのです。

お、お前らセザンヌは自信満々で展覧会に出品して出品作を
批評家にけっちょんけっちょんにされてそれで故郷に
こもって同じ山の絵をずっと画いていたんだよ。そう、
サントヴィクトワール山です。
CMにも出てくるようになり、知っている人も沢山います。

今回のオルセー美術館展にも一枚ありましたね。

私の前にいたおばさんふたり組は、そう。有名な山。といって
見ていました。名前は出てこないようでした。ですが、40枚
以上画かれたというのは知っていたようです。

モネなども同じテーマで何枚も画いていますが、ひとつには
プロなんだから注文があれば画くということもあるのです。
また習作というのもあるし、イメージを受けて画く場合も
あるのです。

テレビなどでよく、セザンヌの特集があるとその山の姿が
ちっとも絵の中のイメージと違うのでびっくりすることが
あります。

でも特長として、手前に松やら木を配置して裾野から連なる山容を
画いたものとただ山の頂付近をアップにしたものとあり、遠近法
に寄らない描き方を研究していたのか、画面にただものを再配置する
手法を模索したのか考えたら切がありません。

そして静物画が続くのですが、その反対にはいきなりピカソの
絵があります。

あまりに恣意的ではありますが、簡単すぎな見せ方ではないですか。

確かにセザンヌの残した言葉に自然を円柱、球、円錐によって扱い
表現すべきであるという言葉どおりの絵であるということなので
しょうが、それは後から20世紀の人達が考えたことで、ここで
注目すべきは、静物の描き方が実に面白い事を感じる事が一番
なのではと感じたのです。

それと同様に、彼の目指したものがただものを平面に写し出すこと
が目指したものでなく、チベットの仏教者が作る曼荼羅のように
宇宙を構成する姿、精神的な設計図を作る事が究極の精神的作業
なのではないかと感じるのです。

太陽を…でもそうで、高村薫も芸術も宗教もその目指す世界と
用意されていることはそれぞれ違う事をやっているが、人生に
おける役割は、その人それぞれの場面で自ずと現れる壁にぶち
当たった時にそれに答えるものが全て用意されているということ
なんではないかということです。

自我の拡張を求める人には様々な宗教が、人生を生きる意味について
哲学が答え、美その表現するものを求める人には、様々な画家が
色々なアプローチでその答えを与えてくれている。

こんなすばらしい事があるでしょうか。

そして、それぞれが何を目指して何を表現しているのかを突き詰めれば
より自由により拡張したものの見方が生まれてくることでしょう。

少なくとも、セザンヌの絵を見て上手ねなんていわないはず
です。

さて、そんなことを思いつつ、人はなぜクラッシック音楽を聞くのか
と改めて思ったのです。

今日は、横瀬町音楽祭で地元ピアニストが紀尾井シンフォニエッタと
共演するというので、横瀬町町民会館に行ったのです。

土曜日で道が混んでいて時間どおりに入れるか少しきわどい時間に
なってしまいました。

それでも5分前には席に着けました。そこで思ったのです。

バッハで音楽的なアイデアは出尽くしたかのようなクラッシック
では、手法やルールの確立はあったものの、20世紀にストラビン
スキー交響楽まで、回帰と革新が繰り返し、21世紀の今も出尽く
したということではないでしょう。

昔は、歌曲とかダンスとかその役割があったのですが、西洋の
交響楽を日本人がそのスタイルのままにやる意味というのは
なぜかというのはふと考える事があります。

そして、そんなことは前も考えたと気がつき、太陽を…のなかの
宗教は自我の拡大に美術は自我の開放にそれぞれ手法は違うけど
到達したものは同じだったという全ては心の曼荼羅について
やられたことだと思ったことに今度は音楽もそうだろうと
勝手に答えを用意したのです。

しかし、しかし。いやそんなつまらない考えは必要ありませんでした。

古い音楽とか西洋のただの真似という以外に、一流の演奏家の
生の演奏が何を表現するか、それをただ全身全霊で受け止める事が
新たな自分の曼荼羅を見ることになるのです。

前回地元ピアニストが幻想曲ばかりを弾いた時に、音の視覚化という
事を考えましたが、逆に今回は本来あるべき音を聞くということを
考えたり、音の余韻とかを意識しました。

しかし、そんな事を考えるまでもなく、今回の演奏は今までの交響楽
より、とにかく最初の一音で圧倒され体中の毛が逆立ちました。

今回の編成は、管楽器が参加しない小編成でありながら、本物とは
こうも理屈抜きですばらしいものなのかと最初から頭をがつんと
やられあとはずっとぞくぞくとしっぱなしでした。

こうも完璧にまるで一音符のずれもなくあわせられるものなのか。

音もそうですが、誰も自分のソロで勝手に自分だけで行こうと
しないし、全員がこうだよねと精神のレベルで一致している
そんな感じなのです。

まさに神がかり的なものを見て聞いた感じでした。

これに地元ピアニストは合わせる事ができるのか。

あの律儀なピアノをただまたぴとぴととやるのかと少し心配に
なってきました。

それもモーツアルトのピアノ協奏曲となるとこれはピアノの
力量が試されるところ。

ソロのパートでどんな弾き方でこの一流の皆さんに対抗し
自分らしさも出して弾きこなせるのか。心配になってきたぞ。

そうランランのように顔芸もないし、独特のパッションと魅せる
技もなく、ただ律儀に音符のなりに流れたようなピアノが彼らに
どう受け入れられるのか。

そんな心配は私のようなシロートが述べるまでもなく、音の
引渡しもリズムの滑りも全然違和感なく、彼のピアノは一体と
なったばかりでなく、その技術の高さもすんなりと表現したの
です。

ピアノのソロは、自分だけ目立つことなく、あっさりとその
早弾きのところも音の強弱もシンフォニエッタの皆さんに合わせ
それだけでなく自分の技術も十分に出したという感じでした。

音の面で会話できるかのようなこのやり取り。

すばらしすぎる。もっと違う大編成のオーケストラと共演したら
どんなだろう。

その想いとは裏腹に、今度後半にはさらに小編成でシューベルトの
ますをやるのですが、地元ピアニストのピアノソロでのますを
聞いた事がありますが、それとまるで違う、軽快なジャズっぽい
編曲がなされていて、元曲のダイナミックな音の変わり行く感じ
はなくなっていました。

これで地元ピアニストは退場して、少しトークしてもう演奏が
ないのでした。

最後のアンコールもシンフォニエッタがバッハのアリアをやった
だけでこれはあくまで主役シンフォニエッタで、ピアニストは
ゲスト参加みたいな感じなのかとちょっと不満に思いました。

普通は交響楽団に参加したソリストがひとりで得意な曲を
アンコール演奏するというのがよくあるパターンですが、
せっかく来てくれたシンフォニエッタなんですから、もっと
一緒になんかやってくれたらよかったのに。

そんな不満もありましたが、演奏はただただすばらしいもの
でした。

生のオーケストラも聞きに行きたくなりました。
コメント
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