今年の冬の読書は主にのこの『復活』でした。
今多くの人がインターネットやら最新テクノロジーの恩恵を受けて暮らしていますが、
そんな多くの人の心の中では、神がいて、その及ぼす奇跡だとか秘跡というのものを
余りに安易に信じ過ぎ、安易に神を受け入れすぎていないでしょうか。
貧しくひもじい生活を強いられていたり、幻覚を見るほど何かに飢えているとしたら、
そんな神という超自然なものも必要でしょう。
しかし、科学技術とか医療とか合理的なデータ―処理で予測される未来とか
人々の生活もかなりの変化があり、安易な安寧と平穏の底にやすらぎと
幸福を求めるなら、もっと普通に考えていいのではないかと最近は思います。
つまり、大昔の書物以外に信じないとかかたくなな考えの人にときに出会うと
なんでそんな目にも見えず感じられもしない無言の神に心酔してすべてを委ねる
気になるのか疑問に思います。
大概の人はそれが正しいことだからと平然と答えますが、この小説の様な話は
どうとらえるのでしょうか。
昔はやんちゃで大して愛してなくても勢いで子供まで作ってしまったけれど、
身分とか階級的な社会構造の中で自分の考えはいやが上でも今正しく真っ当に
なった時、身分も階級も社会制度も無視してただ人間愛として人をもう一度愛そうと
する主人公にそれが正しい人の道だと感動して喜んでこの本を読むでしょうか。
それとも淡い恋愛小説として、哀れなもの昔の恋心に対した感傷だと思うでしょうか。
やはり私は人の心からすれば、どうしようもない主人公の行動や愛というのは
それで一つの正しい答えでもあるでしょうが、実現可能な正しい行いかといえば
それは無理であると言わなくてはなりません。
社会というのは小さな村でも一人の意思が尊重されてスムーズに動くものでは
ありません。
それが正しいことや正しい行いだという確信があっても地域社会の制度や人との
かかわりがおいそれと簡単に一人の自由意思を受け入れず簡単に阻むのです。
それに宗教的な人の思いが絡めば余計そうです。
昔からの宗教感覚よりより正しき人の道を発見したとしてそれが世界中で信仰されて
肯定されているものに真っ向から逆らう物であったら、それが身を削る行いでも
完全に拒否されて黙殺されるでしょう。
そんな人の心の闇の部分が全く書かれていないのがこの小説です。
それは宗教がどんな目的のために作られたか、原始的な意義を解明した人が
いないから、こんな小説では愛の中での実験的な行為として肯定されてしまう
のです。
全ての哲学や宗教や科学式や法則をも含めて語り尽くす試みもそろそろ必要なの
ではないでしょうか。
そういう物足りない気持ちを強くした小説です。