今はやっているパワースポット巡りですが、昔も今も神社仏閣を
めぐるというのは人それぞれの命題があるようです。
他人のことはどんな興奮を伴って語られても意外とどうでもいい
ことがほとんどです。
逆にあまりに興奮されて語られてこちらはどう反応していいか
困ることもあります。
もっぱら私の場合、相手にそんな困惑を提供する側でしたが、
その状況を語る人が意外と少なく、新聞のコラムにそんな興奮を
受け止め正当にコメントする文章を見つけ、そんなやりとりも
あれ違うのではと違和感を持ってしまったり全く人の感情と情緒
というのは勝手なものです。
そんな感情の高ぶりに相手が同調してくれなくても、やはり
素晴らしい芸術作品や滅多にお目にかかれない景観に心奪われ
どんな心境に陥ったかをどうしても伝えたいと一気に話しても、
相手はやはりどうでもいいやという思いを強くする場合が多い
のです。
例えば絵の感動を熱く語ったとして、それが絵はまさにライブ
だからねなどと言われたら、私は芸術作品とはそんなもんだろうか
とどうしても反発してしまうのです。
洋画、それも印象派のような華々しく溢れんばかりの光を描かれると
なんと素晴らしいという感動と同時にやはり芸術の本質とは作家の
破綻した魂であり、それがどれだけ痛く大きく叫んでいるかだと若い
時には感じていました。
絵の場合にはそれは作家の生傷そのもので、どくどくと血をまだ流して
いる痛々しさです。
ところが日本画の美となるとそんな生々しさよりもどうももっと違う
精神背景を感じます。
それはやはり破綻した魂ではあってもそれは生傷というより瘡蓋です。
きれいにできたばかりの瘡蓋だったり、ごつごつと盛り上がりやっと血を
止めたような物々しいのまでそれぞれに違う形の瘡蓋です。
子供心に自分の傷の自慢をするそんなものが芸術鑑賞なのでは。
それはやはり語る物でなく見せ合うものであり、心地は逆に語るもの
なのではないでしょうか。
その語る前に静かに眺めてみることも必要で、そこに禅語の
水急不流月があるのです。
水急不流月。
その前に飲んでもらいたい『不流月』。
そうすると語る必要もなく自身の心の中に浮かぶものもあるかと思います。
めぐるというのは人それぞれの命題があるようです。
他人のことはどんな興奮を伴って語られても意外とどうでもいい
ことがほとんどです。
逆にあまりに興奮されて語られてこちらはどう反応していいか
困ることもあります。
もっぱら私の場合、相手にそんな困惑を提供する側でしたが、
その状況を語る人が意外と少なく、新聞のコラムにそんな興奮を
受け止め正当にコメントする文章を見つけ、そんなやりとりも
あれ違うのではと違和感を持ってしまったり全く人の感情と情緒
というのは勝手なものです。
そんな感情の高ぶりに相手が同調してくれなくても、やはり
素晴らしい芸術作品や滅多にお目にかかれない景観に心奪われ
どんな心境に陥ったかをどうしても伝えたいと一気に話しても、
相手はやはりどうでもいいやという思いを強くする場合が多い
のです。
例えば絵の感動を熱く語ったとして、それが絵はまさにライブ
だからねなどと言われたら、私は芸術作品とはそんなもんだろうか
とどうしても反発してしまうのです。
洋画、それも印象派のような華々しく溢れんばかりの光を描かれると
なんと素晴らしいという感動と同時にやはり芸術の本質とは作家の
破綻した魂であり、それがどれだけ痛く大きく叫んでいるかだと若い
時には感じていました。
絵の場合にはそれは作家の生傷そのもので、どくどくと血をまだ流して
いる痛々しさです。
ところが日本画の美となるとそんな生々しさよりもどうももっと違う
精神背景を感じます。
それはやはり破綻した魂ではあってもそれは生傷というより瘡蓋です。
きれいにできたばかりの瘡蓋だったり、ごつごつと盛り上がりやっと血を
止めたような物々しいのまでそれぞれに違う形の瘡蓋です。
子供心に自分の傷の自慢をするそんなものが芸術鑑賞なのでは。
それはやはり語る物でなく見せ合うものであり、心地は逆に語るもの
なのではないでしょうか。
その語る前に静かに眺めてみることも必要で、そこに禅語の
水急不流月があるのです。
水急不流月。
その前に飲んでもらいたい『不流月』。
そうすると語る必要もなく自身の心の中に浮かぶものもあるかと思います。