<写真の説明>以下のものは、すべて、私の家から半径三百メートル以内で、この時期、実を結びつつあるさまざまな果実です。
他にも、ナス、キュウリ、トマト、インゲン、などなどがあるのですが、これらはすべて、いわゆる露地物です。
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ちょっと変な話ですが、人間のみが季節感を持つということについて考えてみます。
異論があるかもしれません。人間より、自然の方が季節に敏感なのではないかと。
それはそうだと思います。しかし、自然は季節感を持つから季節に対応するのではないと思います。
なぜなら、自然の変転そのものが即、季節なのですから。

椿の実です。硬そうですね。
その意味では、人間のみが季節感というものの仲立ちの中で季節を感じ、それに対応するのではないでしょうか。
暑くなったなとか、寒くなったなとか、もうこんな花がとかいった具合にです。
こうして人間はその季節に対応するのですが、その仕方には二通りがあるように思われます。

鬼灯(ほおずき)。これから活躍。
そのひとつは、その季節のありように自分を調和させる方向です。
暑ければ汗をかき、裸になり、水を浴びたりするといったことです。
寒ければふるえ、せいぜい重ね着をします。
こうして、その暑さや寒さに身を任せたり、あるいは、楽しんだりします。

ザクロ。まだ子どもです。
もうひとつは、その季節に逆らい、季節間の違いを薄めたり、なくしたりする方向での対応です。
典型的で分かりやすいのは冷暖房ですが、他にも、季節の旬を無視した野菜や花などの栽培と流通があります。
工場生産として作られ、年中市場に出回る野菜たちの本来の収穫時は、もう、すっかり分からなくなってしまいました。
世界中から掻き集められるとなおさら分からなくなります。
もう松茸すらでているのですから(子どもの頃から「まったけ」といっていたので、ついそれでタイピングするのだが「松茸」とは出てこない)。

近くに畑の持ち主らしいおばちゃんがいたので、「西瓜は盗らんよ。写真撮るだけだから」といったら、「写真なら減らへんで、いっくらでも撮っていきんさい」とバリバリの岐阜弁!
魚にしたってそうです。
昔は日本の沿岸に接近した時期に獲ったのですが、今はこちらから出迎えて獲ってしまうので、どんどん時期が先行します。
カツオなどもその例です。
目には青葉山ほととぎす初鰹(素堂)
などとかつては詠まれたのですが、今は青葉どころか桜の前に、しかも一月や二月に、初物が入荷します。
サンマもそうです。秋の味覚の筈が、七月半ばにはもう新物が出てきます。
ですから、肝心の秋には、もう飽きが来てしまう有様です(ここんところ洒落ですからそのつもりで読んでね)。
これに、冷凍ものや養殖もの、輸入ものを加えると、もはや魚介類からも季節を云々することはほとんど不可能となります。

西瓜のすぐ南側にあって、こちらは南瓜。
こうした季節の間の違いをなくして行く方向はどんどん強まるでしょう。
そしてそれは、最初に述べた、人間のみが季節感を持ち、それぞれの季節に対応するということ自体が怪しくなってきていることを意味します。
何かの危機状態で人工的なインフラが取り払われ、裸で季節と向かい合わねばならないとき、私たちのどれだけが生き残れることでしょう。

トンモロコシ
人間は、次第に、季節の変化とは関わりのない無機的な時間を生きるようになってきたことは確かです。
こうした季節の平準化は、同時に、人々の感性の、そして人間そのものの平準化をも意味するのではないでしょうか。
なんてことを、炎天下を歩いた後で、冷房の効いた建造物に辿り着いて考えたのでした。

珊瑚樹の実。珊瑚の玉のようだから。
そして同時に、昔、好きだった泉谷しげるの『春夏秋冬』という歌を思い出したのでした。
季節のない街に生まれ、風のない丘に育ち
夢のない家を出て、愛のない人に逢う
人のために良かれと思い、西から東へかけずり回る
やっと見つけた優しさは、いともたやすくしなびた
春を眺める余裕もなく、夏を乗り切る力もなく
秋の枯れ葉に身を包み、冬に骨身をさらけ出す
今日で全てが終わるさ、今日で全てが変わる
今日で全てが報われる、今日で全てが始まるさ
(以下略)

その珊瑚樹全体を見渡すと・・。
他にも、ナス、キュウリ、トマト、インゲン、などなどがあるのですが、これらはすべて、いわゆる露地物です。
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ちょっと変な話ですが、人間のみが季節感を持つということについて考えてみます。
異論があるかもしれません。人間より、自然の方が季節に敏感なのではないかと。
それはそうだと思います。しかし、自然は季節感を持つから季節に対応するのではないと思います。
なぜなら、自然の変転そのものが即、季節なのですから。

椿の実です。硬そうですね。
その意味では、人間のみが季節感というものの仲立ちの中で季節を感じ、それに対応するのではないでしょうか。
暑くなったなとか、寒くなったなとか、もうこんな花がとかいった具合にです。
こうして人間はその季節に対応するのですが、その仕方には二通りがあるように思われます。

鬼灯(ほおずき)。これから活躍。
そのひとつは、その季節のありように自分を調和させる方向です。
暑ければ汗をかき、裸になり、水を浴びたりするといったことです。
寒ければふるえ、せいぜい重ね着をします。
こうして、その暑さや寒さに身を任せたり、あるいは、楽しんだりします。

ザクロ。まだ子どもです。
もうひとつは、その季節に逆らい、季節間の違いを薄めたり、なくしたりする方向での対応です。
典型的で分かりやすいのは冷暖房ですが、他にも、季節の旬を無視した野菜や花などの栽培と流通があります。
工場生産として作られ、年中市場に出回る野菜たちの本来の収穫時は、もう、すっかり分からなくなってしまいました。
世界中から掻き集められるとなおさら分からなくなります。
もう松茸すらでているのですから(子どもの頃から「まったけ」といっていたので、ついそれでタイピングするのだが「松茸」とは出てこない)。

近くに畑の持ち主らしいおばちゃんがいたので、「西瓜は盗らんよ。写真撮るだけだから」といったら、「写真なら減らへんで、いっくらでも撮っていきんさい」とバリバリの岐阜弁!
魚にしたってそうです。
昔は日本の沿岸に接近した時期に獲ったのですが、今はこちらから出迎えて獲ってしまうので、どんどん時期が先行します。
カツオなどもその例です。
目には青葉山ほととぎす初鰹(素堂)
などとかつては詠まれたのですが、今は青葉どころか桜の前に、しかも一月や二月に、初物が入荷します。
サンマもそうです。秋の味覚の筈が、七月半ばにはもう新物が出てきます。
ですから、肝心の秋には、もう飽きが来てしまう有様です(ここんところ洒落ですからそのつもりで読んでね)。
これに、冷凍ものや養殖もの、輸入ものを加えると、もはや魚介類からも季節を云々することはほとんど不可能となります。

西瓜のすぐ南側にあって、こちらは南瓜。
こうした季節の間の違いをなくして行く方向はどんどん強まるでしょう。
そしてそれは、最初に述べた、人間のみが季節感を持ち、それぞれの季節に対応するということ自体が怪しくなってきていることを意味します。
何かの危機状態で人工的なインフラが取り払われ、裸で季節と向かい合わねばならないとき、私たちのどれだけが生き残れることでしょう。

トンモロコシ
人間は、次第に、季節の変化とは関わりのない無機的な時間を生きるようになってきたことは確かです。
こうした季節の平準化は、同時に、人々の感性の、そして人間そのものの平準化をも意味するのではないでしょうか。
なんてことを、炎天下を歩いた後で、冷房の効いた建造物に辿り着いて考えたのでした。

珊瑚樹の実。珊瑚の玉のようだから。
そして同時に、昔、好きだった泉谷しげるの『春夏秋冬』という歌を思い出したのでした。
季節のない街に生まれ、風のない丘に育ち
夢のない家を出て、愛のない人に逢う
人のために良かれと思い、西から東へかけずり回る
やっと見つけた優しさは、いともたやすくしなびた
春を眺める余裕もなく、夏を乗り切る力もなく
秋の枯れ葉に身を包み、冬に骨身をさらけ出す
今日で全てが終わるさ、今日で全てが変わる
今日で全てが報われる、今日で全てが始まるさ
(以下略)

その珊瑚樹全体を見渡すと・・。