郵便局へ出かけた。
片道10分ぐらい、田園に沿い、また川沿いに自然が臨める道を行く。
花々はあでやかに咲く・・ばかりではない。
以下は、その道すがら見かけた野草ないしは地味な花たちである。

コノテガシワという木だと思う
花が植物の生殖に関わる機関であることは誰でも知っている。
そしてそのために、できるだけあでやかに咲くのだと思っている。
とりわけ虫媒に頼る植物にとってはそうだろうと思っている。
この木にも十字架のようなかわいい花が
しかし、それは私たちの後知恵である場合が多い。
色合いも大きさも、さほどあでやかではなく、むしろ私たちがよほど気をつけて見ないと見過ごしてしまうような、地味な花たちが、それなりに虫を集め、ちゃんと繁殖しているのである。
もちろん元々あでやかな花は自然界に多いのだが、今日、園芸品種としてもてはやされているもののほとんどは、本来はより地味であったものを観賞用にと人間が手を加え、生み出したものが多いのである。

アカメガシの花だろうか
地味な花では虫も寄るまいと思うのは大きなお世話である。
あでやかな色にしたって、虫が私たちと同じ視野や視界を持ち、その上で判断しているとは限らないのだ。
大きさにしたって、虫の身体の大きさからすれば、小さな花でも十分大きいのだ。
人間にとってのバラの大輪と、虫にとってのイヌフグリの花とどちらが相対的に大きいかを考えてもわかろうというものだ。

石灯籠の石積みにしがみつくカタバミ
だから、植物や虫にとって、花はあでやかで大きい方がいいというのは、私たちが勝手に花や虫を擬人化し、彼らの目的意識やその関連などを付与しているに過ぎないのである。
花はなぜなしに咲き、虫はまたなぜなしに飛ぶ。
それらは全く異なった行動の系列であって、それぞれの系列にとっては偶然にしか過ぎない。
しかし、それら二つの系が交差するところに、花の営みと虫の営みの相互の共同性のようなものが生み出される。
それが自然のおもしろいところである。

ぺんぺん草の仲間の群落
だから、自然の営みは、私たちが後知恵で考えるように、「何々のために」という目的意識の系列ではないのである。
自然という言葉には、「おのずから」とか、「ひとりでに」という意味があることを思い出してみよう。

よく見る花だが名前は知らない(ゴメンね)
では人間様の営みはどうか。
一人一人は目的意識を持っているだろう。
あるいは、ある集団もそうしたものを持つであろう。
しかし人は何十億人といて、また、国家や民族をはじめとする各種集団も無数である。
それらがクロスするところに私たちは生きている。
だから、相互の目的意識の違いのようなものが、私たちのありように無数のバラエティを与える。

よく見る花だが名前は知らない(ゴメンね)
要するに、そうした複数の系列が織りなすベクトルの偶然性のうちに私たちはあり、それがその時々の歴史的な相をもたらす。
その意味では、私たち人間世界の置かれた状況は、花と虫との系列がクロスする平面より遙かに複雑で不安定だといえる。

よく見る花だが名前は知らない(ゴメンね)
それが証拠に、あるスパーンで捉えてみると、花再々、虫再々なのに、それに比べて人間様の栄枯盛衰は遙かにせせっこましいのである。
これが野に咲く地味な花々から見た、哀れな人間のありようなのであるとひとまず彼らの立場からいっておこう。
あ、私もまた、いわれなき擬人化の禁を犯しているようだ。
片道10分ぐらい、田園に沿い、また川沿いに自然が臨める道を行く。
花々はあでやかに咲く・・ばかりではない。
以下は、その道すがら見かけた野草ないしは地味な花たちである。

コノテガシワという木だと思う
花が植物の生殖に関わる機関であることは誰でも知っている。
そしてそのために、できるだけあでやかに咲くのだと思っている。
とりわけ虫媒に頼る植物にとってはそうだろうと思っている。

この木にも十字架のようなかわいい花が
しかし、それは私たちの後知恵である場合が多い。
色合いも大きさも、さほどあでやかではなく、むしろ私たちがよほど気をつけて見ないと見過ごしてしまうような、地味な花たちが、それなりに虫を集め、ちゃんと繁殖しているのである。
もちろん元々あでやかな花は自然界に多いのだが、今日、園芸品種としてもてはやされているもののほとんどは、本来はより地味であったものを観賞用にと人間が手を加え、生み出したものが多いのである。

アカメガシの花だろうか
地味な花では虫も寄るまいと思うのは大きなお世話である。
あでやかな色にしたって、虫が私たちと同じ視野や視界を持ち、その上で判断しているとは限らないのだ。
大きさにしたって、虫の身体の大きさからすれば、小さな花でも十分大きいのだ。
人間にとってのバラの大輪と、虫にとってのイヌフグリの花とどちらが相対的に大きいかを考えてもわかろうというものだ。

石灯籠の石積みにしがみつくカタバミ
だから、植物や虫にとって、花はあでやかで大きい方がいいというのは、私たちが勝手に花や虫を擬人化し、彼らの目的意識やその関連などを付与しているに過ぎないのである。
花はなぜなしに咲き、虫はまたなぜなしに飛ぶ。
それらは全く異なった行動の系列であって、それぞれの系列にとっては偶然にしか過ぎない。
しかし、それら二つの系が交差するところに、花の営みと虫の営みの相互の共同性のようなものが生み出される。
それが自然のおもしろいところである。

ぺんぺん草の仲間の群落
だから、自然の営みは、私たちが後知恵で考えるように、「何々のために」という目的意識の系列ではないのである。
自然という言葉には、「おのずから」とか、「ひとりでに」という意味があることを思い出してみよう。

よく見る花だが名前は知らない(ゴメンね)
では人間様の営みはどうか。
一人一人は目的意識を持っているだろう。
あるいは、ある集団もそうしたものを持つであろう。
しかし人は何十億人といて、また、国家や民族をはじめとする各種集団も無数である。
それらがクロスするところに私たちは生きている。
だから、相互の目的意識の違いのようなものが、私たちのありように無数のバラエティを与える。

よく見る花だが名前は知らない(ゴメンね)
要するに、そうした複数の系列が織りなすベクトルの偶然性のうちに私たちはあり、それがその時々の歴史的な相をもたらす。
その意味では、私たち人間世界の置かれた状況は、花と虫との系列がクロスする平面より遙かに複雑で不安定だといえる。

よく見る花だが名前は知らない(ゴメンね)
それが証拠に、あるスパーンで捉えてみると、花再々、虫再々なのに、それに比べて人間様の栄枯盛衰は遙かにせせっこましいのである。
これが野に咲く地味な花々から見た、哀れな人間のありようなのであるとひとまず彼らの立場からいっておこう。
あ、私もまた、いわれなき擬人化の禁を犯しているようだ。