花鳥風月を愛でることがいけないというのではない。
しかし、それが、生きてゆく上でより重く現実的である事柄からの逃避としてある場合もあるのではないか。
だから、花鳥風月をしか愛せなくなった時、私は確実に老いを自覚する時だろうと思う。
実にいやなことに直面している。
それは外部からもたらされたものであるが、それに対してある決断を迫られている。
そしてその決断は、危険なヒロイズムか、あるいは臆病な現状維持かを迫るものなのである。
いずれにしてもそれは、ある種の自己嫌悪と屈辱感を伴ったものにならざるを得ないであろう。
川を挟んでこのボリューム。なかなかのもんでしょう。
こういう時、花について語るのは現実逃避そのものであり、自己嫌悪を倍加するものである。
しかし、今は平静を保ち、そして平静を保つためにも、花に視線を逸らさねばならない。
さもないと、私がつぶれてしまう。
従ってこれは、自覚した逃避である。
何からの逃避かは後日、つぶさに述べるが、今は逃避の結果としての花物語をご覧に入れるばかりだ。
去年もいまごろ報告したと思うが、私の家から徒歩五分ほどのところに、ほとんど名もない川の両岸に並ぶ、マイビーチならぬ「マイ・桜ロード」がある。
むろん、私一人のものではないが、こんなにきれいに、しかもずーっと連なって咲いているにもかかわらず、それをわざわざ見に来る人はほとんどないのである。
こちらは道の方。通る人も少ない。
私は今年、すでに三度ほど行ったのだが(その近くはほとんど毎日通る)、行き会ったのは近くのスーパーの買い物帰りのおばちゃんか、犬の散歩に来ている人(それもほとんど女性)でしかない。
むろん、それらの人が花を愛でていないといっているのではない。写真を撮るのに気をとられているバカな私よりよほど花の美しさを満喫しているかもしれない。
しかし、その人たちもいわゆる常連であって、わざわざ花を見に来た人ではない。
そうした人との共有ではあるが、ほとんど不特定多数の人は来ないという意味で「マイ・桜ロード」と名づけた所以である。
もっともかくいう私も、このお花見ロードは、最寄りの郵便局、銀行、書店という私の生活必需の場所への道なのであり、その行き来の間にその花を愛ではじめたのが始まりなのだ。
この花のボリューム。まさにこぼれるほど。
にもかかわらず、この場所、下手な花の名所にも遜色がないほど花がいいのだ。
多分それは、ここの樹々がちょうど適齢期で、もっとも美しく、しかも重量感のある沢山の花を付けるからではないだろうか。数年前に、ここの花々のこぼれんばかりの重量感に気付いた時からそう思っている。
始めに述べたようにこれは私の現実逃避の話に過ぎない。
考えようによっては、かくも美しい逃避の対象を得ることは幸せであり、なにがしか私が救われてあることは事実である。
しかし、ここに留まるわけにはゆかない。
私はまだまだ、否応なく血生臭いところにいるのだから。
小枝ですらこれだけの花がびっしり付いていて・・
悟りの境地や花鳥風月は、私が枯れ果てた時のためにとっておこうではないか。
願わくば、その前にこの世を卒業したいものだ。
あるいは、ぎりぎりまで無様に現実に食らいついていたいものだ。
冒頭に思わせぶりに述べた件、後日いい形で報告したいのであるが、それには多くの困難が伴い、私や私を含む人々の相当の決断が不可避なのである。
何かをしようとする者にとって、それが一見当たり前なのに、なおかつ不合理な抑圧がある時、少しタンマをして回り道をしたのが今日の記事である。
花の下のシラサギ。優雅に歩いていました。
しかし、それが、生きてゆく上でより重く現実的である事柄からの逃避としてある場合もあるのではないか。
だから、花鳥風月をしか愛せなくなった時、私は確実に老いを自覚する時だろうと思う。
実にいやなことに直面している。
それは外部からもたらされたものであるが、それに対してある決断を迫られている。
そしてその決断は、危険なヒロイズムか、あるいは臆病な現状維持かを迫るものなのである。
いずれにしてもそれは、ある種の自己嫌悪と屈辱感を伴ったものにならざるを得ないであろう。
川を挟んでこのボリューム。なかなかのもんでしょう。
こういう時、花について語るのは現実逃避そのものであり、自己嫌悪を倍加するものである。
しかし、今は平静を保ち、そして平静を保つためにも、花に視線を逸らさねばならない。
さもないと、私がつぶれてしまう。
従ってこれは、自覚した逃避である。
何からの逃避かは後日、つぶさに述べるが、今は逃避の結果としての花物語をご覧に入れるばかりだ。
去年もいまごろ報告したと思うが、私の家から徒歩五分ほどのところに、ほとんど名もない川の両岸に並ぶ、マイビーチならぬ「マイ・桜ロード」がある。
むろん、私一人のものではないが、こんなにきれいに、しかもずーっと連なって咲いているにもかかわらず、それをわざわざ見に来る人はほとんどないのである。
こちらは道の方。通る人も少ない。
私は今年、すでに三度ほど行ったのだが(その近くはほとんど毎日通る)、行き会ったのは近くのスーパーの買い物帰りのおばちゃんか、犬の散歩に来ている人(それもほとんど女性)でしかない。
むろん、それらの人が花を愛でていないといっているのではない。写真を撮るのに気をとられているバカな私よりよほど花の美しさを満喫しているかもしれない。
しかし、その人たちもいわゆる常連であって、わざわざ花を見に来た人ではない。
そうした人との共有ではあるが、ほとんど不特定多数の人は来ないという意味で「マイ・桜ロード」と名づけた所以である。
もっともかくいう私も、このお花見ロードは、最寄りの郵便局、銀行、書店という私の生活必需の場所への道なのであり、その行き来の間にその花を愛ではじめたのが始まりなのだ。
この花のボリューム。まさにこぼれるほど。
にもかかわらず、この場所、下手な花の名所にも遜色がないほど花がいいのだ。
多分それは、ここの樹々がちょうど適齢期で、もっとも美しく、しかも重量感のある沢山の花を付けるからではないだろうか。数年前に、ここの花々のこぼれんばかりの重量感に気付いた時からそう思っている。
始めに述べたようにこれは私の現実逃避の話に過ぎない。
考えようによっては、かくも美しい逃避の対象を得ることは幸せであり、なにがしか私が救われてあることは事実である。
しかし、ここに留まるわけにはゆかない。
私はまだまだ、否応なく血生臭いところにいるのだから。
小枝ですらこれだけの花がびっしり付いていて・・
悟りの境地や花鳥風月は、私が枯れ果てた時のためにとっておこうではないか。
願わくば、その前にこの世を卒業したいものだ。
あるいは、ぎりぎりまで無様に現実に食らいついていたいものだ。
冒頭に思わせぶりに述べた件、後日いい形で報告したいのであるが、それには多くの困難が伴い、私や私を含む人々の相当の決断が不可避なのである。
何かをしようとする者にとって、それが一見当たり前なのに、なおかつ不合理な抑圧がある時、少しタンマをして回り道をしたのが今日の記事である。
花の下のシラサギ。優雅に歩いていました。