かつて飲食店の店主だった頃、午後1時半頃に岐阜の家を出て、途中、銀行で釣り銭の両替などをして、3時過ぎには今池(名古屋)の店へ入るのが日課でした。
この時間帯にいつも車中で聴いていたラジオ番組にCBC(中部日本放送)の「ばつぐんジョッキー」という、月曜日から金曜日まで日替わりでパーソナリティが出演する番組がありました。
この番組、結構の長寿番組で1968年から86年まで続くのですが、私が聴いていた頃のパーソナリティは、以下のようでした。
月曜日 板東英二
火曜日 三笑亭夢楽*
水曜日 田中小実昌*
木曜日 上岡龍太郞
金曜日 高橋基子
(*は故人)
いずれも口八丁の人たちで、そのウイットは奔放にして楽しいものでした。
このうち、ほとんどのパーソナリティはその後、別の人に交代したのですが、上岡龍太郞は最初から最後まで出演し続けました。
そのオープニングの自己紹介は以下のようでした。
「女性の方でしたら小学生、中学生、高校生、浪人生、大学生、お嫁入り前のお嬢さんは言うに及ばす、主婦の方から未亡人、出戻り娘にご隠居さん、果ては嫁かず後家の皆さんにまで 声を聴いただけで四畳半のた打ち回って喜ばれている、芸は一流、人気は二流、ギャラは三流、恵まれない天才、阪神タイガースのオーナー、上岡龍太郎です。」
かくして彼は、ドラファンの本拠地へタイガースの旗印を背負って殴り込んだのでした。
それを迎え撃つドラ側の板東英二とのやりとりは、曜日を挟んでとても面白いものでした。
現在のCBCの正面で
しかし、ここで語ろうというのはそれらのパーソナルティについてではありません。
これらの猛者を相手に、一歩も引かず渡り合い、番組を盛り上げていた女子アナ(このいい方はあまり好きではありませんが一般的な通称として使います)の「おケイさん」についてです。
その番組を聴いている頃から、「しっかりした方だなぁ。一癖も二癖もあり、しかも脱線ばかりするパーソナリティをてなづけ、番組を盛り上げている」と思っていました。
しかし、時代は昨今のように女子アナブームはなく、あくまでもアシスタントとしての存在として「おケイさん」を記憶していたため、失礼ながらそのフルネームも定かに憶えてはいなかったのです。
ただし、今から考えても驚異的なのは、相手は変わるのですが、その月曜日から金曜日までの約4時間の放送をおケイさんが一人で引き受けていたことです。
その「おケイさん」が今、意外と身近なところにいらっしゃるのです。
私が2、3年前から参加しているある勉強会のメンバーにその方はいらっしゃいました。ただし、上にも書きましたように、フルネームでの記憶が曖昧でしたからCBCのOGとは聞いていましたが、その方が他ならぬ「おケイさん」であることに気づくのにはしばらくの時間を要しました。
それと知った折、なるほど、この方ならあれらの猛者を相手に丁々発止と渡り合えたのだと納得できました。
その方が、その勉強会で、ご自分が経験された民放業界の創成期とその後の変遷について発表される機会がありました。残念ながら私はそれを直に聴けなかったのですが、録音していた方からそのテープをお借りし、後日、聴くことが出来ました。
そこには、「ばつぐんジョッキー」のエピソードなども語られていましたが、それ以上に民放創成期の様々な様相が語られていて興味を覚えました。
CBC(中部日本放送)は、日本で最初の民放としてJOARのコールサインを持つ局です。それだけにその当初のありようは創成期特有のみずみずしさをもっています。
例えばわが「おケイさん」は、当初CBC専属の劇団員として採用されるのですが、一年後の本採用の折に同期採用の12人のうち2人が不採用の通告を受けたのに対し、それを不当として組合を作って抵抗し、最終的には当時の大物代議士の仲介により全員の採用を勝ち取ります。
その後なお、東京のキー局などで女子アナ30歳定年制がまかり通っていたことを考え合わせると、これは画期的なことだったと思います。
その他、アナウンサーというものは番組の中で笑ってはいけないという当時の禁を破って、パーソナリティと共に「アハハ」と笑って番組を進めた結果、上司から注意を受けながらもそのスタイルを押し通したという件も痛快です。昨今、「アハハ」と笑うだけのアナウンサーが多い中、「おケイさん」は乙女のように笑い転げながらも、一方、それを凌駕する教養でもって猛者どもと渡り合っていたのでした。
そんな「おケイさん」が局を去るのは、放送局が多角経営にに乗り出す一方、経営の効率化を数字として追求するあまり、番組制作を下請けに任せ、真面目に番組を作らなくなったからだといいます。
最近指摘された各種の番組での不祥事が、ほとんどこれら下請けの段階で行われていること、またそれを理由に親局が頬被りをして済ませることはこの周知の通りです。
「おケイさん」の話は、上に尽きることなく面白かったのですが、長くなるので省略いたします。
民放の創成期、「おケイさん」も熱く周辺も熱かったのですが、いつの間にか効率のみが語られる世界に堕したようです。
そんな中で、今なお少しでもいい番組をと奮闘しているラジオマンやテレビマンたちにエールをおくりたいと思います。
あ、そうそう、「おケイさん」のままで終わってしまうところでした。
この素敵なお姉様は松ヶ崎敬子さんとおっしゃって、今なお、アムネスティなどで人権を守る運動にアクティヴに関わってらっしゃいます。
あの頃のころころ笑っていらっしゃった「おケイさん」と、昨今、間近にお目にかかる松ヶ崎さんとは、今では、私の中でほどよいバランスでもって同居していらっしゃいます。
「ばつぐんジョッキー」は、私の屈折した日々を慰めてくれた番組であり、そこでころころ笑っていらっしゃった「おケイさん」はやはり忘れがたいものがあります。
この時間帯にいつも車中で聴いていたラジオ番組にCBC(中部日本放送)の「ばつぐんジョッキー」という、月曜日から金曜日まで日替わりでパーソナリティが出演する番組がありました。
この番組、結構の長寿番組で1968年から86年まで続くのですが、私が聴いていた頃のパーソナリティは、以下のようでした。
月曜日 板東英二
火曜日 三笑亭夢楽*
水曜日 田中小実昌*
木曜日 上岡龍太郞
金曜日 高橋基子
(*は故人)
いずれも口八丁の人たちで、そのウイットは奔放にして楽しいものでした。
このうち、ほとんどのパーソナリティはその後、別の人に交代したのですが、上岡龍太郞は最初から最後まで出演し続けました。
そのオープニングの自己紹介は以下のようでした。
「女性の方でしたら小学生、中学生、高校生、浪人生、大学生、お嫁入り前のお嬢さんは言うに及ばす、主婦の方から未亡人、出戻り娘にご隠居さん、果ては嫁かず後家の皆さんにまで 声を聴いただけで四畳半のた打ち回って喜ばれている、芸は一流、人気は二流、ギャラは三流、恵まれない天才、阪神タイガースのオーナー、上岡龍太郎です。」
かくして彼は、ドラファンの本拠地へタイガースの旗印を背負って殴り込んだのでした。
それを迎え撃つドラ側の板東英二とのやりとりは、曜日を挟んでとても面白いものでした。
現在のCBCの正面で
しかし、ここで語ろうというのはそれらのパーソナルティについてではありません。
これらの猛者を相手に、一歩も引かず渡り合い、番組を盛り上げていた女子アナ(このいい方はあまり好きではありませんが一般的な通称として使います)の「おケイさん」についてです。
その番組を聴いている頃から、「しっかりした方だなぁ。一癖も二癖もあり、しかも脱線ばかりするパーソナリティをてなづけ、番組を盛り上げている」と思っていました。
しかし、時代は昨今のように女子アナブームはなく、あくまでもアシスタントとしての存在として「おケイさん」を記憶していたため、失礼ながらそのフルネームも定かに憶えてはいなかったのです。
ただし、今から考えても驚異的なのは、相手は変わるのですが、その月曜日から金曜日までの約4時間の放送をおケイさんが一人で引き受けていたことです。
その「おケイさん」が今、意外と身近なところにいらっしゃるのです。
私が2、3年前から参加しているある勉強会のメンバーにその方はいらっしゃいました。ただし、上にも書きましたように、フルネームでの記憶が曖昧でしたからCBCのOGとは聞いていましたが、その方が他ならぬ「おケイさん」であることに気づくのにはしばらくの時間を要しました。
それと知った折、なるほど、この方ならあれらの猛者を相手に丁々発止と渡り合えたのだと納得できました。
その方が、その勉強会で、ご自分が経験された民放業界の創成期とその後の変遷について発表される機会がありました。残念ながら私はそれを直に聴けなかったのですが、録音していた方からそのテープをお借りし、後日、聴くことが出来ました。
そこには、「ばつぐんジョッキー」のエピソードなども語られていましたが、それ以上に民放創成期の様々な様相が語られていて興味を覚えました。
CBC(中部日本放送)は、日本で最初の民放としてJOARのコールサインを持つ局です。それだけにその当初のありようは創成期特有のみずみずしさをもっています。
例えばわが「おケイさん」は、当初CBC専属の劇団員として採用されるのですが、一年後の本採用の折に同期採用の12人のうち2人が不採用の通告を受けたのに対し、それを不当として組合を作って抵抗し、最終的には当時の大物代議士の仲介により全員の採用を勝ち取ります。
その後なお、東京のキー局などで女子アナ30歳定年制がまかり通っていたことを考え合わせると、これは画期的なことだったと思います。
その他、アナウンサーというものは番組の中で笑ってはいけないという当時の禁を破って、パーソナリティと共に「アハハ」と笑って番組を進めた結果、上司から注意を受けながらもそのスタイルを押し通したという件も痛快です。昨今、「アハハ」と笑うだけのアナウンサーが多い中、「おケイさん」は乙女のように笑い転げながらも、一方、それを凌駕する教養でもって猛者どもと渡り合っていたのでした。
そんな「おケイさん」が局を去るのは、放送局が多角経営にに乗り出す一方、経営の効率化を数字として追求するあまり、番組制作を下請けに任せ、真面目に番組を作らなくなったからだといいます。
最近指摘された各種の番組での不祥事が、ほとんどこれら下請けの段階で行われていること、またそれを理由に親局が頬被りをして済ませることはこの周知の通りです。
「おケイさん」の話は、上に尽きることなく面白かったのですが、長くなるので省略いたします。
民放の創成期、「おケイさん」も熱く周辺も熱かったのですが、いつの間にか効率のみが語られる世界に堕したようです。
そんな中で、今なお少しでもいい番組をと奮闘しているラジオマンやテレビマンたちにエールをおくりたいと思います。
あ、そうそう、「おケイさん」のままで終わってしまうところでした。
この素敵なお姉様は松ヶ崎敬子さんとおっしゃって、今なお、アムネスティなどで人権を守る運動にアクティヴに関わってらっしゃいます。
あの頃のころころ笑っていらっしゃった「おケイさん」と、昨今、間近にお目にかかる松ヶ崎さんとは、今では、私の中でほどよいバランスでもって同居していらっしゃいます。
「ばつぐんジョッキー」は、私の屈折した日々を慰めてくれた番組であり、そこでころころ笑っていらっしゃった「おケイさん」はやはり忘れがたいものがあります。