何ごとにも疎くてあか抜けしない私ですが、「ランチに集まろうかい」というお誘いを受けてのこのこ出かけました。
集まったのは学生時代のサークルの同期前後の人たち6人でした。
日頃、あまりお目にかかれない人もいるのですが、そこは昔、同じ釜の飯を食った仲、すぐうち解けての四方山話となりました。
そのうち、夫妻できていた友人の住居近くに、名だたるその筋の親分の豪邸が建築されようとしていて、その近辺の住民がざわついているという話がありました。そうした問題で過去、辣腕をふるってきたという著名弁護士のアドヴァイスなどもあるのですが、いずれにしてもその先行きが錯綜していて、それに現実的に関わっているその夫妻にとっては切実な問題のようです。
ところで、そのランチの席にも弁護士がいて、夫妻の質問に答えたりしていました。いわゆるセカンドオピニオンのようなものですね。

この夫妻、座を取り持ったり物事をとりまとめるスキルには長けているのですが、こと、この問題については大変だろうなと思いました。ここで話し合われた内容はヒ・ミ・ツです。今後の戦略戦術上の問題を含むからです。
ランチのあと、やはりこのサークルの先輩で、弁護士(なんか弁護士の話が多いですね)から参議院議員になり、いまは議員を引退して再び弁護士として活躍していらっしゃる大脇雅子さんが、このランチ会場の近くの「ピースあいち」で、「マサコの戦争」(同名の著書有り)と題した「戦争体験者の語り」をされるというので、それを聴きに行くことになりました。

この「ピースあいち」という戦争と平和の資料館ですが、各自治体が類似のものを持っているのに愛知県や名古屋市には存在せず、有志の強い要望に対し財政難で見送られてきたものを、それら有志が広く基金を集めNPOの事業として2007年5月に独力で立ち上げたものです。
放って置けばドンドン風化する戦争にまつわる具体的な資料を一堂に集め展示したり、折々のテーマに即した特別展を催したり(現在は三階で原爆関連の展示)、あるいは一階ホールでのパフォーマンスを展開したりしています。
これらがすべて、ボランティアの手弁当による活動で維持されているのです。
<ピースあいちのHP> http://www.peace-aichi.com/

大脇先輩の体験談も、そうしたパフォーマンスの一環として行われたものでした。私たちはその話の中で、1945年7月9日、岐阜大空襲の折、国民学校5年生の雅子ちゃんが、雨あられと降る焼夷弾や爆弾の中で、その防空頭巾をも焼かれながらまさに必死で逃げまどった様を、そして愛国婦人会の任務で奉安殿の守護に駆り出され離ればなれになっていた母親との奇跡ともいえる再会を、手に汗を握るようにして聴いたのでした。
私はこれらの話を聴きながら、何か後ろめたい気持ちをもっていました。というのは、同じく岐阜に住んでいた私はこの岐阜大空襲を十数キロ離れた大垣の郊外の疎開先から、つぶさに見ていたのです。
私は正直にこのときの情景を以下のように私のブログで述べています。
<空襲警報で避難した箇所から、「ああ、岐阜が燃えている!」という大人たちの悲鳴に近い嘆きとともに、十数キロ離れた東の空が真っ赤に染まるのを見ていました。一面真っ赤な空なのですが、さらに何かが爆発炎上するのか、急にその一角がパッと明るくなったり、そのまましばらく仕掛け花火のように揺らいだりしていました。? 上空で時折ぴかっと光るのは、攻撃目標を明確にするための照明弾だったと思います。? こうして、つい昨年まで私が住んでいた街が、紅蓮の炎に染まるのを見ていたのですが、その下で展開されていた地獄絵図を思い描くにはまだ幼い私ではありました。>
http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20090709
まさにその折り、雅子先輩は、いな、雅子ちゃんは、その地獄絵図の中にいたのです。
私は、雅子先輩の話が終わった後のコメントの中で、その事実を率直に申し上げました。

上に述べたような事実は、私たちの年代やそれ以上の人にとっては、今さら何をというくらい当たり前の経験でしょう。
しかし、この当たり前だった経験(原-事実)が捨象されたところで戦争が語られる機会が増えているのではないでしょうか。これは私たちが被った被害の歴史にとどまらず、私たちがおよぼした加害の歴史においてもいえるのではないかと思うのです。
時間とともに風化してゆくものたちを甦らせる言説の力があってこそ、未来への志向が観念的な上滑りではなく、歴史に参画する人々の骨肉の痛みを伴った現実性をもったものとして構想される可能性が開けるのではないかと思うのです。
集まったのは学生時代のサークルの同期前後の人たち6人でした。
日頃、あまりお目にかかれない人もいるのですが、そこは昔、同じ釜の飯を食った仲、すぐうち解けての四方山話となりました。
そのうち、夫妻できていた友人の住居近くに、名だたるその筋の親分の豪邸が建築されようとしていて、その近辺の住民がざわついているという話がありました。そうした問題で過去、辣腕をふるってきたという著名弁護士のアドヴァイスなどもあるのですが、いずれにしてもその先行きが錯綜していて、それに現実的に関わっているその夫妻にとっては切実な問題のようです。
ところで、そのランチの席にも弁護士がいて、夫妻の質問に答えたりしていました。いわゆるセカンドオピニオンのようなものですね。

この夫妻、座を取り持ったり物事をとりまとめるスキルには長けているのですが、こと、この問題については大変だろうなと思いました。ここで話し合われた内容はヒ・ミ・ツです。今後の戦略戦術上の問題を含むからです。
ランチのあと、やはりこのサークルの先輩で、弁護士(なんか弁護士の話が多いですね)から参議院議員になり、いまは議員を引退して再び弁護士として活躍していらっしゃる大脇雅子さんが、このランチ会場の近くの「ピースあいち」で、「マサコの戦争」(同名の著書有り)と題した「戦争体験者の語り」をされるというので、それを聴きに行くことになりました。

この「ピースあいち」という戦争と平和の資料館ですが、各自治体が類似のものを持っているのに愛知県や名古屋市には存在せず、有志の強い要望に対し財政難で見送られてきたものを、それら有志が広く基金を集めNPOの事業として2007年5月に独力で立ち上げたものです。
放って置けばドンドン風化する戦争にまつわる具体的な資料を一堂に集め展示したり、折々のテーマに即した特別展を催したり(現在は三階で原爆関連の展示)、あるいは一階ホールでのパフォーマンスを展開したりしています。
これらがすべて、ボランティアの手弁当による活動で維持されているのです。
<ピースあいちのHP> http://www.peace-aichi.com/

大脇先輩の体験談も、そうしたパフォーマンスの一環として行われたものでした。私たちはその話の中で、1945年7月9日、岐阜大空襲の折、国民学校5年生の雅子ちゃんが、雨あられと降る焼夷弾や爆弾の中で、その防空頭巾をも焼かれながらまさに必死で逃げまどった様を、そして愛国婦人会の任務で奉安殿の守護に駆り出され離ればなれになっていた母親との奇跡ともいえる再会を、手に汗を握るようにして聴いたのでした。
私はこれらの話を聴きながら、何か後ろめたい気持ちをもっていました。というのは、同じく岐阜に住んでいた私はこの岐阜大空襲を十数キロ離れた大垣の郊外の疎開先から、つぶさに見ていたのです。
私は正直にこのときの情景を以下のように私のブログで述べています。

<空襲警報で避難した箇所から、「ああ、岐阜が燃えている!」という大人たちの悲鳴に近い嘆きとともに、十数キロ離れた東の空が真っ赤に染まるのを見ていました。一面真っ赤な空なのですが、さらに何かが爆発炎上するのか、急にその一角がパッと明るくなったり、そのまましばらく仕掛け花火のように揺らいだりしていました。? 上空で時折ぴかっと光るのは、攻撃目標を明確にするための照明弾だったと思います。? こうして、つい昨年まで私が住んでいた街が、紅蓮の炎に染まるのを見ていたのですが、その下で展開されていた地獄絵図を思い描くにはまだ幼い私ではありました。>
http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20090709
まさにその折り、雅子先輩は、いな、雅子ちゃんは、その地獄絵図の中にいたのです。
私は、雅子先輩の話が終わった後のコメントの中で、その事実を率直に申し上げました。

上に述べたような事実は、私たちの年代やそれ以上の人にとっては、今さら何をというくらい当たり前の経験でしょう。
しかし、この当たり前だった経験(原-事実)が捨象されたところで戦争が語られる機会が増えているのではないでしょうか。これは私たちが被った被害の歴史にとどまらず、私たちがおよぼした加害の歴史においてもいえるのではないかと思うのです。
時間とともに風化してゆくものたちを甦らせる言説の力があってこそ、未来への志向が観念的な上滑りではなく、歴史に参画する人々の骨肉の痛みを伴った現実性をもったものとして構想される可能性が開けるのではないかと思うのです。