
モルバランは相変わらず野を駆けていた。
行く手の牧場にメルリッチェルの姿が見えた。
「やあ、ツクシでも採っているのかい」
と、足を止めたモルバランが訊いた。
「ちがうわ。すみれを探していたの。ほらここよ」
すらり伸した指先は薄紫の可憐な花を指していた。
それは折からの春の陽射しで急に成長し始めた周りの草花に圧倒されるようにひっそりと咲いていた。
「ほら、こんな風に咲いているすみれを歌った曲があったの知ってる」
と、メルリッチェルが訊いた。
「え~と、モーツアルトの歌曲かな」
「そう、ずばり『すみれ』よ。じゃあ、その歌詞を作った詩人は誰か知ってる」
モルバランは記憶の糸をたぐって答えた。
「あ、確かゲーテだ」
「う~ん残念、それだけなら98点かな」
と、メルリッチェルはいたずらっぽく笑った。

「えっ、どうしてだい」
「それはね、下にあるような詩なんだけど、その最後の二行はねゲーテにはないの」
「え、ということは・・・」
「そう、モーツアルトが書き足したの。楽曲上の効果を高めるためね」
少し驚いたモルバランが訊ねた。
「もちろんゲーテの了承を得たんだろうね」
「それがそんなことはなかったみたい。今のように著作権なんて考え方も曖昧だったから、誰もとがめたりしなかったようよ。だから正解は二人の合作」
「なんだかひっかけられたみたいだな」
「ごめん、じゃぁお詫びにその歌を歌ってあげるわ」
というと、メルリッチェルはアカペラで『すみれ』を歌い始めた。

すみれ 曲:モーツアルト(K476) 1785年
詞:ゲーテ(モーツアルト補作)
すみれの花が咲いていた
人知れずにひっそりと
いじらしくも可憐な花
やってきた羊飼いの少女
軽やかな足取りで
歌を口ずさみながら
ああ、とすみれは思いそめる
一番美しい花になり
この可憐な少女の
かわいい手に摘まれ
胸に抱かれてしおれたい
ほんの少しの間
つかの間でいいから
少女はやってくるけれど
すみれに気づくことはなく
かわいそうにも踏みつける
すみれはたおれてなお歓喜
私は死ぬ、そう死んでしまう
でもやはり
少女の素足に踏まれてだから
かわいそうなすみれ!
なんと愛らしいすみれ!
*訳詞は様々なものをつきあわせ、六文錢が簡潔にしたもの

つくしと一緒に
メルリッチェルの澄み切った歌声が辺りに響き渡ると、草木がみな背伸びをし、飛ぶ鳥や虫たちもしばしその動きを止めるようであった。
聴き終わったモルバランは、しばし呆然としていたが、やがてパチパチと手を鳴らしながらいった。
「改めて聴くと、この歌詞ってずいぶん残酷な面があるね」
「そうよ、愛っていつもなにがしか残酷なものを含んでいるのよ」
とメルリッチェルはすみれの方に向かって訴えるようにいった。
しばらくその後ろ姿を見つめていたモルバランは、
「俺、行くから」
と、また駆け始めた。
その駆ける姿勢はいつもと変わらないが、頭の中では「愛は残酷、愛は残酷」という言葉がリフレインしているようであった。
■この歌曲を収録したYouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ntaAg7TtOtQ