
哲学者は時間を思索する。
物理学者は時間を計測する。
音楽家は時間を奏でる。
文学者は時間を綴る。
歴史家は時間を整理する。
そして私は時間を無為に過ごす。
それどころか「小人閑居をして不善をなす」の類だ。
そんな私にも時間を観ることは出来る。
といっても大したことではない。時間とはあるものがなくなり、なかったものがあるようになることだから。
たしかに、かつて私とともにあった父母は幾ばくかの時間とともにいなくなった。
そして、かつては未来社会の想像の産物であったようなものがいまは眼前にある。
例えばPCなどがそれである。


私が部屋の窓から見た時間 左は5月1日 右は21日
時間とともに運動があるという。
これはたぶん、ここにあったものがなくなり、あそこになかったものがあるようになるということだろう。
時間とともに変化があるという。
しかしこれも、あるものに備わっていたあるものがなくなり、逆にあるものが加わったということだろう。
だから時間とは、あるものがなくなり、なかったものがあるようになることだろう。
ところで私はあるものである。したがって時間とともになくなる。
そして、これまでなかった新しいものがあるようになることだろう。
その新しいものがなになのか、残念ながらなくなってしまう私には知りようがない。
ついでながら、私の遺言を披露しておこう。
「ちょうど時間となりました。それでは皆様、サ・ヨ・ウ・ナ・ラ」
(どこかの演芸館で聞いたような台詞だなぁ)