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【新春読書】「歴史知」と古代日本史の謎

2016-01-10 16:45:57 | 書評
 やすいゆたか氏の近著、『千四百年の封印 聖徳太子の謎に迫る』(社会評論社)を読んだ。
 日本古代史には暗いほうだし、記紀に出てくる神々や人物の名もなかなか同定困難という門外漢ぶりで、かすかな拠り所としては、子供の頃に聞いた神話の細切れの記憶という頼りのなさである。
 にもかかわらず、通読しえたのは、著者のこの問題にかける情熱と、目前の謎を解き明かそうとする好奇心あふれる熱意、そして、あえていえばそれを支える方法についての関心である。

             

 端緒は、明治維新以前は、天皇家は伊勢神宮に参拝しなかった(できなかった?)のはなぜかという問いである。
 それに対する大胆な仮説は、書の冒頭部分で示される。「聖徳太子の大罪」とされるそれは、天皇家の主神は天御中主神であり皇祖神は月讀命であったものをいずれも、天照大神に差し替えてしまったというものである。
 
 この天御中主神は天の回転の中心、時間・空間の基準点である北極星であり、月讀命は文字通り月であるから、ともに夜の神である。それを太陽神である天照大神に差し替えてしまったというのだから、いわば価値観を根底から覆すような大改ざんといえる。
 なお、この改ざんの歴史上のバックグラウンドだが、聖徳太子の生きた6世紀から7世紀の倭国は、それまでの海洋民族から農耕民族ヘの移行を遂げつつある時期であり、かつ、精神的な環境としては、そうした差し替えによって惹起されるであろう天御中主神の祟りや報復を、当時導入された仏教の力により和らげることができると踏んだかららしい。

 したがって、著者の総括的な見解としては、これら改ざんの過程は、「日本国の自己否定的な再構築の感動的なドラマ」として了解すべきものだということになる。

             

 いささか本書の趣旨を簡略化しすぎ、先を急ぎすぎたかもしれない。実際には著者は、この仮説を元に、記紀に描かれた記述を丁寧に読み解いてゆくことによって、日本古代史の全体像を再構築しようとする。

 率直にいって私には、著者のこの作業の当否を判定する学識も力もない。ただし、著者の採用する方法には大いに関心がある。
 戦前の天皇絶対制のなかで、記紀の神話的世界がほぼ歴史そのものとされ、1940(昭和15)年には皇紀2600年祭が大々的に繰り広げられ、西洋の歴史を上回るという自負が叩きこまれた。そして、その翌年が真珠湾攻撃に端を発する一連の戦争への無謀で最終的な局面ヘの突入であった。

 これらへの反省から、敗戦後は科学的歴史観が喧伝され、実証史学による記紀などの記述の殆どの否定、あれもなかった、これもなかったという「なかった」論による覆しが横行するのだが、これによって、記紀での記述が依って来るところ、日本全土に現実に残っている様々な史的な痕跡が宙に浮くこととなった。
 これに対して、著者は先に見たように可能性のある仮説を元に記紀の再検討を行いそのなかからありうるであろう歴史物語を紡ぎ出そうとしている。

           

 著者はそれを、「科学知」に対する「歴史知」とし、その方法を以下のように説明する。
 「私は神話をこねまわして、科学的な歴史的事実を確定できるといっているのではない。説話からもとの説話を導いて、それらを材料に古代史像を再構成すれば、それは科学的歴史ではなくても、歴史物語としてより歴史の現像に近づいた物語が見えてくる、それが文字のない時代の歴史を見る《歴史知のメガネ》ではないかというのである。」

 これは首肯できる。私はこのくだりで、フロイトの無意識の発見と通底するものを感じた。フロイトは些細な人間の錯誤をとりあげ、なぜそのひとは多くの錯誤の可能性があるなか、この錯誤を犯したのだろうかと問うことにより、錯誤を誘導する要因としての無意識を見出した。そして、神経症患者の夢や症状、自己についての論述を素材として分析するなかから、症状などの改善に繋がる新しい物語を見出してゆくのだ。

 著者の記紀に対する細やかな手つきのなかには、それと通底するものがある。それにより、実証史学が「錯誤」として投げ捨てた記紀の諸要素を救い出し、それらを古代日本の歴史物語のパーツとして再度見出してゆくのだ。

              

 この書を読んで、久しく忘れていた記紀にある神話の復習、あるいはまた、著者の仮説によって浮かび上がる古代日本の姿、などなど具体的に学んだ点も多かったが、冒頭に述べたように、それらの正否を語る資格は私にはない。
 ただそれらを導く著者の姿勢と方法に共感することしきりなのだ。

 話は全く飛ぶが、今年の神社への初詣の際、かなりの神社で神社本庁が推し進める改憲運動の署名簿が設置されていたと聞く。
 この忌まわしい事実は、記紀の描く壮大な古代のロマンに対し、神社本庁がいかにちまちまとしたリアルポリティックスの世界に囚われているかを示すものである。
 著者が描く古代の神々が、こうした現在的欲望によって汚れた手付きで扱われる神とは全く異なる次元のものであることを改めて確認しておきたい。

 
 
 
コメント (4)
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