バロック・オペラというのは、ラジオで聴いたり、TVで観たりしたことはあるが、いずれも断片で、通しで、しかもライブでははじめてだ。
バロック・オペラといっても年代的にはずいぶん幅が広くて、17世紀初頭に始まりヘンデルなどのものも数え入れれば150年ほどになる。今回観たものはクラウディオ・モンテヴェルディの『ポッペアの戴冠』(1642)だからその初期に属する。まだ、ルネッサンス音楽の尻尾が残っているような時代といえる。
鑑賞したのは、9月24日、名古屋市芸術創造センターで、「あいちトリエンナーレ」の協賛催事の一環である。
題材は暴君といわれたローマの皇帝ネロの時代にとっているが、政治や戦争などの血なまぐさいものではなく、何組かの愛の物語である。
ネロといえば定冠詞のように「暴君」がつくのだが、このオペラではさして暴虐の限りを尽くすわけではない。それらしいものは以下であろう。
ひとつは、このオペラの主題となっている部下の騎士長の妻、ポッペアを寝取ってしまうのだが、これとて、ポッペア自身がネロに首ったけで、自分の夫を忌避しているのだから、横恋慕ともいささか異なる。
もうひとつは自分の邪な恋を諌める哲学者のセネカに自死を命じるのは理不尽だが、これも、ネロと一緒になりたいポッペアの唆かしによるとしたら、主犯はポッペアということになる。
それどころかネロは、自分の愛するポッペアの命を狙った自分の妃、オッターヴィア、彼女に命じられたポッペアの夫・騎士長のオットーネ、そしてそのオットーネを愛するがゆえにかばったドゥルシッラなどを、寛大にも罪一等を減じ、所払いで済ませるのであった。
さてオペラの方であるが、ロマン派以降のオペラを見慣れている人は、このネロが女性のメゾソプラノによって演じられることにまず驚くであろう。
これはこの時代、声変わりしない前に歌の上手い男の子を去勢し、ソプラノの高さを男性の声量で歌えるカストラートという歌い手がいたことと関連する。どうやらこれは、教会音楽の歌い手は女人禁制であったという風習から生まれたものらしい。
この歌劇でも、ネロ役のほか、騎士長のオットーネも原作ではカストラートが歌うことになっているのだが、現在ではカウンターテナーを用いることが多いようで、この公演では弥勒忠史がそれを無難にこなしていた。
なお、このカストラートの歌い手はその後も続き、私がはじめてモーツァルトの『皇帝ティトの慈悲』を観た折も男姿でソプラノを歌う姿に、宝塚を連想したものであった。
全三幕だが、一幕がやや冗長かなとも思ったが、ネロとポッペアとのベッドシーンを思わせる箇所もあり、しかもそのあとの歌詞にもはっきりと情事の後を思わせるものがあり、いささかたまげた。
二幕、三幕は明快に進む。
バックの音楽はヴァイオリンやチェロのほかはリコーダー、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェンバロ、テオルボ(リュートによく似た他弦楽器)などで、古楽器を熟知した宇田川貞夫が自らヴィオラ・ダ・ガンバなどを演奏しながらまとめていた。これら古楽器の演奏は、レスタティーヴォ(朗唱)風の歌唱が多いバロック・オペラにとてもフィットしていた。
歌手では、私としてはドゥルシッラ役の本田美香がいいと思ったのだが、果たせるかな、カーテンコールではひときわ大きな拍手をもらっていた。その次がカウンターテナーの弥勒忠史であった。
総じていって、とても面白かった。そして、モンテヴェルディのこのオペラには、その後のオペラの要素がいっぱい詰まっているように思った。たとえば、愛を求めてさまよう小姓は、後のモーツァルトの『フィガロの結婚』のケルビーノの前身であるかのようだし、この歌劇の様式そのものが後のオペラ・セリアの原型であるようにも感じた。
なお、余談だが、上記の登場人物のうち追放されたオットーネは、後年、ローマ皇帝・オトとして復帰するがその在位はわずか三ヶ月であった。
また、ネロの恋路を邪魔したという哲学者セネカは、実際にはもっと生き続け、晩年に、ネロの治世を覆そうとする陰謀の一味に加担したとして、ネロに自死を命じられたというのが事実らしい。
はじめに書いたように、バロック・オペラを通しで鑑賞するのははじめてだから、その優劣など論じる資格はないが、予想以上にとても楽しいひと時であった。
バロック・オペラといっても年代的にはずいぶん幅が広くて、17世紀初頭に始まりヘンデルなどのものも数え入れれば150年ほどになる。今回観たものはクラウディオ・モンテヴェルディの『ポッペアの戴冠』(1642)だからその初期に属する。まだ、ルネッサンス音楽の尻尾が残っているような時代といえる。
鑑賞したのは、9月24日、名古屋市芸術創造センターで、「あいちトリエンナーレ」の協賛催事の一環である。
題材は暴君といわれたローマの皇帝ネロの時代にとっているが、政治や戦争などの血なまぐさいものではなく、何組かの愛の物語である。
ネロといえば定冠詞のように「暴君」がつくのだが、このオペラではさして暴虐の限りを尽くすわけではない。それらしいものは以下であろう。
ひとつは、このオペラの主題となっている部下の騎士長の妻、ポッペアを寝取ってしまうのだが、これとて、ポッペア自身がネロに首ったけで、自分の夫を忌避しているのだから、横恋慕ともいささか異なる。
もうひとつは自分の邪な恋を諌める哲学者のセネカに自死を命じるのは理不尽だが、これも、ネロと一緒になりたいポッペアの唆かしによるとしたら、主犯はポッペアということになる。
それどころかネロは、自分の愛するポッペアの命を狙った自分の妃、オッターヴィア、彼女に命じられたポッペアの夫・騎士長のオットーネ、そしてそのオットーネを愛するがゆえにかばったドゥルシッラなどを、寛大にも罪一等を減じ、所払いで済ませるのであった。
さてオペラの方であるが、ロマン派以降のオペラを見慣れている人は、このネロが女性のメゾソプラノによって演じられることにまず驚くであろう。
これはこの時代、声変わりしない前に歌の上手い男の子を去勢し、ソプラノの高さを男性の声量で歌えるカストラートという歌い手がいたことと関連する。どうやらこれは、教会音楽の歌い手は女人禁制であったという風習から生まれたものらしい。
この歌劇でも、ネロ役のほか、騎士長のオットーネも原作ではカストラートが歌うことになっているのだが、現在ではカウンターテナーを用いることが多いようで、この公演では弥勒忠史がそれを無難にこなしていた。
なお、このカストラートの歌い手はその後も続き、私がはじめてモーツァルトの『皇帝ティトの慈悲』を観た折も男姿でソプラノを歌う姿に、宝塚を連想したものであった。
全三幕だが、一幕がやや冗長かなとも思ったが、ネロとポッペアとのベッドシーンを思わせる箇所もあり、しかもそのあとの歌詞にもはっきりと情事の後を思わせるものがあり、いささかたまげた。
二幕、三幕は明快に進む。
バックの音楽はヴァイオリンやチェロのほかはリコーダー、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェンバロ、テオルボ(リュートによく似た他弦楽器)などで、古楽器を熟知した宇田川貞夫が自らヴィオラ・ダ・ガンバなどを演奏しながらまとめていた。これら古楽器の演奏は、レスタティーヴォ(朗唱)風の歌唱が多いバロック・オペラにとてもフィットしていた。
歌手では、私としてはドゥルシッラ役の本田美香がいいと思ったのだが、果たせるかな、カーテンコールではひときわ大きな拍手をもらっていた。その次がカウンターテナーの弥勒忠史であった。
総じていって、とても面白かった。そして、モンテヴェルディのこのオペラには、その後のオペラの要素がいっぱい詰まっているように思った。たとえば、愛を求めてさまよう小姓は、後のモーツァルトの『フィガロの結婚』のケルビーノの前身であるかのようだし、この歌劇の様式そのものが後のオペラ・セリアの原型であるようにも感じた。
なお、余談だが、上記の登場人物のうち追放されたオットーネは、後年、ローマ皇帝・オトとして復帰するがその在位はわずか三ヶ月であった。
また、ネロの恋路を邪魔したという哲学者セネカは、実際にはもっと生き続け、晩年に、ネロの治世を覆そうとする陰謀の一味に加担したとして、ネロに自死を命じられたというのが事実らしい。
はじめに書いたように、バロック・オペラを通しで鑑賞するのははじめてだから、その優劣など論じる資格はないが、予想以上にとても楽しいひと時であった。