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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

古い写真のなかの私たちの青春

2016-12-06 15:44:37 | 想い出を掘り起こす
 古くからの友人が、古い古い写真を数枚送ってくれた。
 どれぐらい古いかというと、ちょうど60年前、私が18歳の頃のものだ。
 写っているのは私とほぼ同年配、というか同期に入学し、同じサークルに所属した人たちを中心に延べ10人ほど。

 当時は、銀塩カメラしかなく、しかもオート・フォーカスもない時代だから、絞りもピントも手動だったが、それにしてもよく写っている。簡単に撮れてしまうデジカメ時代のいまより、昔の人のほうが写真の技術をものにしていたと思われる。

 それはともかく、写ってる若者たちの表情がそれぞれみな良い。「希望に満ちた」などというと薄っぺらになる。それぞれがみな相応の知性の持ち主だったから、自分たちの未来が前途洋々であると手放しで楽観していたわけではない。
 さまざまな抵抗や不安などがその行く手にあることは重々承知していた。ただし、それらにちゃんと対応してゆけば、自らの道を自らの手で切り開くことができるのではないかという期待はあったし、それに対応した身構えはみなもっていた。

 時代はまさに戦後の混乱期が一応の収束をみせるなか、今後の戦後を自ら生み出してゆくのだという自負は広く若者のなかにあった。
 だから、それぞれがいうべきところでちゃんと発言するなど、状況から目を逸らすことはなかった。

 数々の逸脱や誤りもあった。しかしそれらも、状況との切り結びの中でのものであり、ちゃんとした総括や検証の対象ではあるとしても、そのアンガージュマンそのものはまさに私たちの青春であり実存そのものであった。
 だからそれ自身を悔やもうとは思わない。

 写真の青年たちのうちにいる私もまた、はつらつと時代を謳歌している。このあと、私は、シュトルム・ウント・ドランクへと飛び込んでゆくのであったが、その折はもうこんな穏やかな表情はしていなかったと思う。
              
 送ってくれた友人も指摘していたが、この延べ10人ほどの若者たちのうち、数名がすでに不帰の人である。現在の平均年齢からしたらいくぶん高い死者数かもしれない。
 そのうちの一人は、つい最近まで一緒に過ごしてきた私のつれあいである。
 もちろん彼女も、写真のなかでは爽やかに笑っている。








 
 
コメント
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