この間、いろいろあって読書が進まない。読書意欲が湧かないのと、たとえ読もうと思っても落ち着いて読み進める時間がない。
それでも全く読んでいないわけではない。彼女が逝く前に、すでに半分ほど読んでいたものを、図書館へ返却する必要上、慌てて読了したものがある。
『夢の現象学・入門』 (講談社選書メチエ)で渡辺恒夫というひとのものだ。あのナベツネではない。あのじいさんは「雄」の方だ。
この書が面白いのは、夢そのものをフロイトの夢判断などとは異なり、まさに現象学的アプローチで分析してみせるとともに、現象学への手引を試みている点にある。それが書名の「・」に表されているし、事実この書では様々な夢の分析の間に、ところどころ三箇所ほど、現象学への入門の章が挿入されている。
現象学について、ぼんやりしたイメージしか持ち合わせていない私には、それらを整理する上で勉強にはなったがここに書きたいことはそれではない。

ここで述べられている夢の特質などは結構面白い。まず夢には時制がない。現実世界では過去は想起の対象であり、現在は知覚の対象であり、なおかつ未来は展望の対象になる。過去を想起するとき、私たちはその過去と想起しているいまの自分とを二重のものとして意識している。また、未来を展望するとき、その未来と展望しているいまの自分とを二重のものとして意識している。
しかし、夢になるとこの二重性がすっ飛んでしまって、過去がいきなりいまとして現れ、また未来もいまとして現れる。夢の中の自分はいきなり過去に生きているし、また未来に生きている。つまり夢の中では時制というものがなく、すべてが現在形に一元化されてしまうのだ。そういわれれば確かにそうだ。

しかし、私にとっての問題はそれではない。
この書の中でいくつも出てくる著者自身の、あるいは彼の学生たち(著者は大学の先生)の夢そのもの、分析の対象となる夢の例題の内容に関してなのだ。正直いって私はそこである種の違和感を禁じ得なかったのだ。
それはどの点であるかというと、それらの夢がしばしば、自分がそれらの夢の中では他者になると語られていることについてである。
彼らは夢の中で、誰かわからぬ不特定の他者、あるいは現存する特定の**という他者、さらには歴史上の特定の他者、おまけに、フィクションの主人公(金田一耕助やハリー・ポッター)、そしてカラスやキツネなどの動物、もちろん異性にもなりうるのだ。
そのうえ、この書には、「なぜ夢の中では他者になることができるのか」という一章も設けられている。

なぜそれが問題であったり私に違和感をもたらすかというと、私自身は夢の中で他者になったことは記憶する限り一度もないのだ。それが実在の人物であれ、架空の人物であれ、あるいは異性であったり、ましてや動物などになったことは一度もないのだ。夢の中の私は常に私なのだ。もちろん半世紀前の昔がまざまざと蘇ることもあるが、その場合でも私は私なのだ。
なぜなのだろう。繰り返すが、私が読んだ上記の書ではそうした他者になる事例が多く登場する。にも関わらず私にはそうしたことはない。

これを考えるに、私においては自我に固執する力が強すぎる、あるいは自己同一性というかA=Aという固定観念が強力で他者の入り込む隙きがないのであろうか。ということは、いままで他者を仮想的自己(私が他者でありえたかもしれず、また他者が私でありえたかもしれない)とする考察や、人間の複数性ということについてかなり考えてきたにもかかわらず、私自身はそうした面で極めて自己保身的でかつ狭量なままにとどまっているのであろうか。
あるいは心理的、精神的にある種の欠陥を持った人間なのであろうか。

そこでここまで読んでいただいた方に質問したい。
みなさんは、実在であれ、架空であれ、自分ではない他者になった夢をご覧になりますか?
また、他者になった夢を見たことがない私についてどう思われますか?
一般的にいって私は、夢は私が他なるもの、つまり私自身が私はかくかくしかじかのものだと考えているようなものではないことに通じるものだと考えている。にもかかわらず、夢の中の私は常に私自身でしかないということは、私は孤立した自我の中に閉じ込められているということだろうか。
不意に訪れたある種の孤独感の中で、いろいろな自己省察が渦巻く昨今ではある。
それでも全く読んでいないわけではない。彼女が逝く前に、すでに半分ほど読んでいたものを、図書館へ返却する必要上、慌てて読了したものがある。
『夢の現象学・入門』 (講談社選書メチエ)で渡辺恒夫というひとのものだ。あのナベツネではない。あのじいさんは「雄」の方だ。
この書が面白いのは、夢そのものをフロイトの夢判断などとは異なり、まさに現象学的アプローチで分析してみせるとともに、現象学への手引を試みている点にある。それが書名の「・」に表されているし、事実この書では様々な夢の分析の間に、ところどころ三箇所ほど、現象学への入門の章が挿入されている。
現象学について、ぼんやりしたイメージしか持ち合わせていない私には、それらを整理する上で勉強にはなったがここに書きたいことはそれではない。

ここで述べられている夢の特質などは結構面白い。まず夢には時制がない。現実世界では過去は想起の対象であり、現在は知覚の対象であり、なおかつ未来は展望の対象になる。過去を想起するとき、私たちはその過去と想起しているいまの自分とを二重のものとして意識している。また、未来を展望するとき、その未来と展望しているいまの自分とを二重のものとして意識している。
しかし、夢になるとこの二重性がすっ飛んでしまって、過去がいきなりいまとして現れ、また未来もいまとして現れる。夢の中の自分はいきなり過去に生きているし、また未来に生きている。つまり夢の中では時制というものがなく、すべてが現在形に一元化されてしまうのだ。そういわれれば確かにそうだ。

しかし、私にとっての問題はそれではない。
この書の中でいくつも出てくる著者自身の、あるいは彼の学生たち(著者は大学の先生)の夢そのもの、分析の対象となる夢の例題の内容に関してなのだ。正直いって私はそこである種の違和感を禁じ得なかったのだ。
それはどの点であるかというと、それらの夢がしばしば、自分がそれらの夢の中では他者になると語られていることについてである。
彼らは夢の中で、誰かわからぬ不特定の他者、あるいは現存する特定の**という他者、さらには歴史上の特定の他者、おまけに、フィクションの主人公(金田一耕助やハリー・ポッター)、そしてカラスやキツネなどの動物、もちろん異性にもなりうるのだ。
そのうえ、この書には、「なぜ夢の中では他者になることができるのか」という一章も設けられている。

なぜそれが問題であったり私に違和感をもたらすかというと、私自身は夢の中で他者になったことは記憶する限り一度もないのだ。それが実在の人物であれ、架空の人物であれ、あるいは異性であったり、ましてや動物などになったことは一度もないのだ。夢の中の私は常に私なのだ。もちろん半世紀前の昔がまざまざと蘇ることもあるが、その場合でも私は私なのだ。
なぜなのだろう。繰り返すが、私が読んだ上記の書ではそうした他者になる事例が多く登場する。にも関わらず私にはそうしたことはない。

これを考えるに、私においては自我に固執する力が強すぎる、あるいは自己同一性というかA=Aという固定観念が強力で他者の入り込む隙きがないのであろうか。ということは、いままで他者を仮想的自己(私が他者でありえたかもしれず、また他者が私でありえたかもしれない)とする考察や、人間の複数性ということについてかなり考えてきたにもかかわらず、私自身はそうした面で極めて自己保身的でかつ狭量なままにとどまっているのであろうか。
あるいは心理的、精神的にある種の欠陥を持った人間なのであろうか。

そこでここまで読んでいただいた方に質問したい。
みなさんは、実在であれ、架空であれ、自分ではない他者になった夢をご覧になりますか?
また、他者になった夢を見たことがない私についてどう思われますか?
一般的にいって私は、夢は私が他なるもの、つまり私自身が私はかくかくしかじかのものだと考えているようなものではないことに通じるものだと考えている。にもかかわらず、夢の中の私は常に私自身でしかないということは、私は孤立した自我の中に閉じ込められているということだろうか。
不意に訪れたある種の孤独感の中で、いろいろな自己省察が渦巻く昨今ではある。