*写真は別の記事の挿絵にと撮ったものですが、彼の悲報に接し、彼への手向けの供花とします。人参の花、キュウリの花、トウモロコシの花などです。
24日未明、60年来の友人、ということは高校一年生の頃からの友人、N君が逝った。
昨年春、末期の肺がんで余命三ヶ月と宣告されてから一年余、よく頑張ってきたがついに力尽きた。
本人はもとより、私たちもその宣告を知っていたから、決して衝撃ではないが、やはりいざ逝かれてみると寂寞感が襲いくるのを避けるすべはない。
最期は、苦しむことなく眠るがごとく逝ったというから、それをもってささやかな慰めとしたい。
加えて、彼を最後の最後まで、友人として見送ってやることができたことも、悲劇的な出来事の中でもいくぶんの満足を覚えることとなっている。
彼ともう一人の友人H君と私とで、彼の希望する料亭の支店で、鯛の兜煮定食を共にしたのは二月の初めだった。たぶんそれが、彼にとって最後の外食だったろうと思う。というのは、それから二週間後には入院を余儀なくされ、そのまま外へ出ることはなかったからだ。
私とH君は、それ以後、四回ほど見舞いに行き、かなり長時間にわたって、出会いの頃から今に至る過程での思い出などを語り合った。
その中でよかったのは、私がプロデュースし、すこし遠隔地にいる友人も含め、彼と親しかった四人を集めての見舞いを実現し得たことだ。
彼は、「わざわざ遠いやつまで集めなくとも」と私にいったのだが、その言葉とは裏腹に、嬉しさを隠すことはできなかった。彼も、そして集まった連中も、これが最後であることを重々知っていたからだ。
別れ際に彼は、病人とも思えないはりのある声で、「ありがとう、ありがとう」と私たちの手を握りしめるのであった。
この、見舞いに行った四人と彼を含めた五人は、高校時代、私たちの高校の文系サークルの中枢を牛耳っていたつわ者どもである。
新聞部、文芸部、歴史研究会、演劇部、当時盛んだったうたごえ運動の学内支部などを横断的に私たちが仕切っていた。横断的にというのは、例えば私は、演劇部を主体にしつつ、文芸や新聞、うたごえ運動にも関わり合っていたし、ほかのメンバーもまた、マルチな関わりのなかで活動していた。
これらのメンバーを招集したのは四月の末のことであった。
H君と私は、その後、今月の中頃にもう一度見舞いに行っている。なにしろ、肺がやられているのだから体力の衰えは隠すべくもなかったが、それでも病院の売店から取り寄せた新聞を材料に時事問題などを語り合った。まさに、「雀百まで踊り忘れず」である。
それから二週間近く、そろそろまた見舞いにと思っていた矢先の悲報であった。
彼については、まだまだ語るべき多くのことをもっている。
ただし、それらは一般化しにくいものでもある。だから私は、それらを反芻しながら彼を偲ぶほかはない。
私と彼の付き合いは、まだ「戦後」が色濃く残っている頃に始まり、高度成長を経て、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と日本中がそっくり返り、それををピークとして凋落が始まるや、今度は、戦後の「平和と民主主義」といわれた獲得物が、オセロ・ゲームのように反転しつつある今日まで及んでいる。
そうしたなか、最後まで新聞を手放さず、それらをウオッチングしていた彼の精神を継続して生きてゆきたいと思う。
N君よ、安らかに眠るな! 荒ぶる神として私に啓示を与えよ!
これが君への弔辞であり、私の願いだ!
24日未明、60年来の友人、ということは高校一年生の頃からの友人、N君が逝った。
昨年春、末期の肺がんで余命三ヶ月と宣告されてから一年余、よく頑張ってきたがついに力尽きた。
本人はもとより、私たちもその宣告を知っていたから、決して衝撃ではないが、やはりいざ逝かれてみると寂寞感が襲いくるのを避けるすべはない。
最期は、苦しむことなく眠るがごとく逝ったというから、それをもってささやかな慰めとしたい。
加えて、彼を最後の最後まで、友人として見送ってやることができたことも、悲劇的な出来事の中でもいくぶんの満足を覚えることとなっている。
彼ともう一人の友人H君と私とで、彼の希望する料亭の支店で、鯛の兜煮定食を共にしたのは二月の初めだった。たぶんそれが、彼にとって最後の外食だったろうと思う。というのは、それから二週間後には入院を余儀なくされ、そのまま外へ出ることはなかったからだ。
私とH君は、それ以後、四回ほど見舞いに行き、かなり長時間にわたって、出会いの頃から今に至る過程での思い出などを語り合った。
その中でよかったのは、私がプロデュースし、すこし遠隔地にいる友人も含め、彼と親しかった四人を集めての見舞いを実現し得たことだ。
彼は、「わざわざ遠いやつまで集めなくとも」と私にいったのだが、その言葉とは裏腹に、嬉しさを隠すことはできなかった。彼も、そして集まった連中も、これが最後であることを重々知っていたからだ。
別れ際に彼は、病人とも思えないはりのある声で、「ありがとう、ありがとう」と私たちの手を握りしめるのであった。
この、見舞いに行った四人と彼を含めた五人は、高校時代、私たちの高校の文系サークルの中枢を牛耳っていたつわ者どもである。
新聞部、文芸部、歴史研究会、演劇部、当時盛んだったうたごえ運動の学内支部などを横断的に私たちが仕切っていた。横断的にというのは、例えば私は、演劇部を主体にしつつ、文芸や新聞、うたごえ運動にも関わり合っていたし、ほかのメンバーもまた、マルチな関わりのなかで活動していた。
これらのメンバーを招集したのは四月の末のことであった。
H君と私は、その後、今月の中頃にもう一度見舞いに行っている。なにしろ、肺がやられているのだから体力の衰えは隠すべくもなかったが、それでも病院の売店から取り寄せた新聞を材料に時事問題などを語り合った。まさに、「雀百まで踊り忘れず」である。
それから二週間近く、そろそろまた見舞いにと思っていた矢先の悲報であった。
彼については、まだまだ語るべき多くのことをもっている。
ただし、それらは一般化しにくいものでもある。だから私は、それらを反芻しながら彼を偲ぶほかはない。
私と彼の付き合いは、まだ「戦後」が色濃く残っている頃に始まり、高度成長を経て、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と日本中がそっくり返り、それををピークとして凋落が始まるや、今度は、戦後の「平和と民主主義」といわれた獲得物が、オセロ・ゲームのように反転しつつある今日まで及んでいる。
そうしたなか、最後まで新聞を手放さず、それらをウオッチングしていた彼の精神を継続して生きてゆきたいと思う。
N君よ、安らかに眠るな! 荒ぶる神として私に啓示を与えよ!
これが君への弔辞であり、私の願いだ!