*写真はスーパーへの道すがら撮ったもの。
二つのスーパーを必要な品目によって使い分けている。
ひとつは鮮魚類や酒類が豊富で、ブランド品ではない安いヨーグルトがまあまあうまい。
もうひとつは県内に本店があるせいか、地場の野菜などが値打ちで、コロッケなどの出来合いの惣菜も安くてうまい。亡くなった連れ合いがここのコロッケやここで作っているピザパンなどを好んで食べていた。
前者は、徒歩だと片道15分から20分で、肉体的には適度な運動かも知れないが時間がもったいない。だから、車でゆくことが多い。あるいは、やはりどこかへ車で出かけたついでに立ち寄ったりする。陽気のいいときは自転車でも出かける。
後者は徒歩で10分以内で行ける。だからここへは徒歩でゆく。
スーパーへ行くというと何か街中へ出るようだが、ここへの場合は100m以内の間、バス通りを通り、脇道へ逸れると、両側が田んぼで、それが切れるあたりに鎮守の森があり、そこからは数軒の人家を経由して広い通りに出て、それを横切ればトウチャコ(これ分かる人、火野正平が自転車であちこちへ行く番組を見てる人)である。
この道は嫌いではない。この間まで、タンポポやすみれが咲いていたが、タンポポがワタ坊主になりつつある今は、道の両側にはハルジオンが咲き乱れている。
もうひとつの見どころというか道草の場所は鎮守の森である。
適当に桜などもあるがそれが終わった今は新緑、とりわけこの境内に多いモミジのそれが美しい。
さらに夏場になれば、鳴き立てるセミの合唱を頭上に、木陰が涼しい。
だから時折は、信仰心も何もないのに立ち寄る。
いつ行ってもほとんど人影がない境内に歩を進めると、そこに棲みついたヒヨドリどもが、侵入者への鋭い威嚇と警戒の鳴き声を頭上から浴びせる。
うちの桜ん坊や枇杷の実、そして桑の実をついばみに来るのはお前たちだろうと反論しても通じる相手ではない。構わずにあたりの草木を眺め、しばし憩う。
先程も書いたが今頃はモミジの新葉が美しい。なかには先端がほの赤い花を咲かせているものがある。それらはやがてそのまま実となって、その竹とんぼのような形状を活かし、風に煽れれてきりきり舞いをしながら親木から離れた場所へと運ばれるだろう。
竹とんぼのような形状というより、人はモミジの実に習って竹とんぼを思いついたのかもしれない。
境内の石段に腰を下ろしてしばしの憩いを過ごし、立ち上がったら、上空に飛行機雲がくっきりと延びてゆくところだった。
どこへ行く飛行機だろうか。どんな人たちが乗っているのだろうか。それらの人たちは、それを見上げている私の存在を想像すらしないだろう。
誰も気付かない私の挙動など、こうして表現をしない限り、なかったことと一緒なのだ。そして、私を含む人びとの行動のほとんどは、誰もそれを認知しない断片から成り立っている。
世界そのものが誰も認知しない出来事の集積で成り立っていて、その黙々たる集積が実は歴史の実体なのではないかなどと考えながら帰途につくのだった(これについては、その関連でいろいろ考えたことがあるが、長くなるのでまた機会を見て書きたい)。
二つのスーパーを必要な品目によって使い分けている。
ひとつは鮮魚類や酒類が豊富で、ブランド品ではない安いヨーグルトがまあまあうまい。
もうひとつは県内に本店があるせいか、地場の野菜などが値打ちで、コロッケなどの出来合いの惣菜も安くてうまい。亡くなった連れ合いがここのコロッケやここで作っているピザパンなどを好んで食べていた。
前者は、徒歩だと片道15分から20分で、肉体的には適度な運動かも知れないが時間がもったいない。だから、車でゆくことが多い。あるいは、やはりどこかへ車で出かけたついでに立ち寄ったりする。陽気のいいときは自転車でも出かける。
後者は徒歩で10分以内で行ける。だからここへは徒歩でゆく。
スーパーへ行くというと何か街中へ出るようだが、ここへの場合は100m以内の間、バス通りを通り、脇道へ逸れると、両側が田んぼで、それが切れるあたりに鎮守の森があり、そこからは数軒の人家を経由して広い通りに出て、それを横切ればトウチャコ(これ分かる人、火野正平が自転車であちこちへ行く番組を見てる人)である。
この道は嫌いではない。この間まで、タンポポやすみれが咲いていたが、タンポポがワタ坊主になりつつある今は、道の両側にはハルジオンが咲き乱れている。
もうひとつの見どころというか道草の場所は鎮守の森である。
適当に桜などもあるがそれが終わった今は新緑、とりわけこの境内に多いモミジのそれが美しい。
さらに夏場になれば、鳴き立てるセミの合唱を頭上に、木陰が涼しい。
だから時折は、信仰心も何もないのに立ち寄る。
いつ行ってもほとんど人影がない境内に歩を進めると、そこに棲みついたヒヨドリどもが、侵入者への鋭い威嚇と警戒の鳴き声を頭上から浴びせる。
うちの桜ん坊や枇杷の実、そして桑の実をついばみに来るのはお前たちだろうと反論しても通じる相手ではない。構わずにあたりの草木を眺め、しばし憩う。
先程も書いたが今頃はモミジの新葉が美しい。なかには先端がほの赤い花を咲かせているものがある。それらはやがてそのまま実となって、その竹とんぼのような形状を活かし、風に煽れれてきりきり舞いをしながら親木から離れた場所へと運ばれるだろう。
竹とんぼのような形状というより、人はモミジの実に習って竹とんぼを思いついたのかもしれない。
境内の石段に腰を下ろしてしばしの憩いを過ごし、立ち上がったら、上空に飛行機雲がくっきりと延びてゆくところだった。
どこへ行く飛行機だろうか。どんな人たちが乗っているのだろうか。それらの人たちは、それを見上げている私の存在を想像すらしないだろう。
誰も気付かない私の挙動など、こうして表現をしない限り、なかったことと一緒なのだ。そして、私を含む人びとの行動のほとんどは、誰もそれを認知しない断片から成り立っている。
世界そのものが誰も認知しない出来事の集積で成り立っていて、その黙々たる集積が実は歴史の実体なのではないかなどと考えながら帰途につくのだった(これについては、その関連でいろいろ考えたことがあるが、長くなるのでまた機会を見て書きたい)。