六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

賞について少々述べまショウ 桃子さんの「おらおらでひとりいぐも」

2018-03-20 11:48:12 | 書評
 この前、「賞について少々述べまショウ」というタイトルで、実は二つの賞について述べるはずだった。ところがいつものだらだらとした文章で、そのひとつ、米アカデミー賞の 「シェイプ・オブ・ウォーター」について書いたところで終わってしまった。

              

 今回はそのとき書こうとしたもうひとつの賞、芥川賞についてである。「文藝春秋」の三月特別号で二つの受賞作を読んだ。
 ひとつは、石井遊佳さんの「百年泥」。インドのチェンナイで百年に一度の大洪水で氾濫したアダイヤール川に架かる橋の上がほとんどの舞台。ある程度水が退いた後、この橋の上に残された汚泥の帯、それこそが「百年泥」である。

            
 
 物語は、SFっぽい奇想を含んで進展する。狂言回しはこの百年泥の中から次々に現れるモノたち。それらが、この地で日本語学校の教師をしている主人公(女性)の過去と結びついて回想風に物語は進む。
 それらを縫うようにして書かれる、多用な側面を見せる生徒の青年、デーヴァラージとの絡みもおもしろい。
 それらを語る主人公の、どこか自分を突き放した叙述が、百年泥の粘っこくもどろっとした感じとは対照的に、からっとした、あるいはさっぱりした後味を残す。

            

 これとは違った形で、徹底して自己にこだわるのが、若竹千佐子さんの「おらおらでひとりいぐも」だ。
 読み進むうちに、これはきわめて哲学的な自己省察の書だと思った。とはいえ、決して哲学的な概念や論理が語られているわけではない。むしろ逆に、七〇歳代半ばの主人公桃子さんの独白の部分(それが大半だが)は、岩手弁の「どごがおもしぇ」ユーモアが全編に滲み出ていて、スンナリと読めるし、その展開もじつにおもしろい。

 にもかかわらず、なぜ哲学的かというと、桃子さんの独白は常に桃子さんの中に居る他者、それは一人であったり複数であったりするのだが、それらとの対話として展開されるからだ。
 「オラダバオメダ、オメダバオラダ」というわけで、桃子さんはそれを、「頭の中に大勢のひとがいるなぞと、これはもしかしたら認知症の初期症状でねが」といぶかりながらも、そうした複数の自己を「柔毛突起」の現れと名付けたりする。

            

 桃子さんはその柔毛突起と共に、あぐまでも東北弁で、過去を回想し、いまを思いやる。家族のごど、老いのごど、周辺の環境(八角山など)のごど、そして後半は先だった連れ合い、周造のごど。
 それらが単に思い出の連鎖としてのみではなく、まさに自己省察として展開さるのだ。思考とは、「自己のなかにおける他者との対話である」というのは一般的なテーゼだが、桃子さんは巧まずしてそれを行っている。堅くいえば、常に思考しているのだ。それもほがならね東北弁で。
 
 この際、「東北弁で」というのは単に技巧ではねぐ、平準化された言葉では語れない内容そのもののへのこだわりなのだ。それについては桃子さん自身が前半でそう語っている。
 「当たり前ど思っているごどを疑え、常識に引きずられるな、楽な方へ逃げんな、なんのための東北弁だ。われの心に直結するために出張ってきたのだぞ」

            
            小説中に出てくる八角山のモデル、六角牛山

 一般的にいうならば、これは東北弁でねぐともかまわねのかもしれね。極端に言えば、九州弁でも名古屋弁でもいいのだが、ただし、ネイティヴな言葉でなければならねだろう。なぜなら、平準語が平均的意味へとそぎ落としてしまったネイティヴな言葉の「余剰」とも思える部分こそがその土地に住まいする「われの心に直結する」部分を語りうるのだから。
 だがら、桃子さんの場合はそれは東北弁でなげればならなかった。

 桃子さんの「おらおら」も「ひとり」も、そこにはたくさんの桃子さんが「柔毛突起」のようにひしめいでいて、その対話によって「思考」が進む。そこにいる桃子さん(たち)は、いわゆる近代的自我を、ひょいと「横へ超えてしまう」ようなところがある。
 なんて書いてしまうと、桃子さんに叱られそうだ気ぃもする。
「………おらおらおら、ちょっと目を離すとすぐこれだ。おめだば、すぐ思考停止して手あかのついた言葉に自分ば寄せる。………それはおめが考えたごどだが」


  文中、桃子さんの東北弁を真似した箇所があります。誤字ではありません。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする