前回、映画を二本観たことを述べた。
実はこれから述べるのが観たかった本命の方なのである。
『ほかげ』(塚本晋也:監督 趣里:主演)
舞台は先の戦争直後の闇市が幅を利かせている時代である。
映画の前半は、その一隅で名前のみの居酒屋で、酒一杯を飲ませ、二階で体を売る女の店が舞台となる。その女と、かっぱらいの戦争孤児と、金のない復員兵の奇妙な同居が続く。
それぞれが戦争に依るトラウマ=PTSDを抱えていて、睡眠時などの追体験に依る発作にしばしば見舞われる。
復員兵は戦場での凄惨な場面に、孤児は自分が一人で放り出された悪夢に、そして女は夫と子を失った記憶に苛まれる。
この疑似家族のような関係は、復員兵のPTSD症状の悪化によって崩れる。後半でこの男が廃人になったことが示唆される。
残った女と孤児は共に失った親子関係の回復であるかのように心を通わせ、孤児は女の「ちゃんとした仕事をもつんだよ」との言いつけを守ろうとする。
ここまで(映画の前半)はほとんどが女の店を舞台としてる。
様相が変わるのは、孤児が謎の男(森山未來)と出会って以降である。二人は、ロードムービーのように行動をともにするが、彼もまた、戦争のトラウマ=PTSDを抱えた男であることが明らかになり、その軽減のために(本質的な解決はない)孤児の協力のもと、ある行為を実践する。
それは、原一男監督のドキュメンタリー『ゆきゆきて、神軍』で描かれた奥崎謙三の行為に似ているが、より暴力的である。
彼との一連の行動を終えた孤児は女のもとに戻るが、女は戸を閉ざしたまま対面しようとはしない。しかし、彼に「ちゃんとした仕事をもつんだよ」と繰り返し、もう、ここヘは来てはならないと言い渡す。
孤児は闇市へと歩み、まともな仕事をと忙しそうな店の手伝いを進んで行うが、それまでのかっぱらいの行為が知れ渡っていて、信用されず、殴り飛ばされたりもする。
それでも必死にその仕事にしがみつき、やがては一定の位置に居座る過程は、女との約束を守ろうとする孤児の懸命さを示していてジーンと来るものがある。
そんな折から、一発の銃声が闇市に響く。それは、女の言いつけに従って孤児が置いてきた拳銃で、おそらく梅毒に侵されて容貌が崩れていった女が、自らの終焉を選んだことを示唆している。
それはまた、戦争に依るトラウマ=PTSDの一つの終わりを描くと同時に、少年に託された未来を表しているかにも解釈できる。しかし、その解釈は凡庸すぎると思う。
あの孤児は、実はほぼ私と同年だと思われる。何が言いたいかというと、私たちが歩んできた戦後は、果たして戦前や戦中をどのように凌駕してきたのか、凌駕してきたといえるのかという問いに行きつく。
この映画に出てくる人物のほとんどが何らかの意味で戦争に依るトラウマ=PTSDに侵された者たちである。
しかし、戦後の「復興」といわれるものは、この人たちのリーダーシップによって、再び戦争に依るトラウマ=PTSDを生み出さないものとして形成されたのであろうか。
そうではない。むしろ、トラウマ=PTSDの被害者ではなく、そんなものは経験もしなかった、むしろ加害者たちによって形成されたのではなかったか。
国体は護持され、戦前の精神に根ざした保守政治家たちが一貫して支配してきたのがこの国ではなかったか。
かつての日独伊の三国同盟において、国旗も、国歌も、そして国家元首すらそのままであるのはこの国だけである。
だから、戦争に依るトラウマ=PTSDは今なお解消されないままこの国の底辺でうごめいている。塚本監督のこの映画は、改めてそれを知らしめたともいえる。
なお、主演の趣里は、今の朝ドラの主役とはとても思えない役柄を、重みを持って演じきっている。こんなに幅がある女優さんだとは知らなかった。
それからもう一つ、戦災孤児の少年塚尾桜雅くんの眼差しがとてもいい。上に述べたように、映画が描く時代、私は彼と同じ年代だったが、どんな眼差しをしていたろう。
実はこれから述べるのが観たかった本命の方なのである。
『ほかげ』(塚本晋也:監督 趣里:主演)
映画の前半は、その一隅で名前のみの居酒屋で、酒一杯を飲ませ、二階で体を売る女の店が舞台となる。その女と、かっぱらいの戦争孤児と、金のない復員兵の奇妙な同居が続く。
それぞれが戦争に依るトラウマ=PTSDを抱えていて、睡眠時などの追体験に依る発作にしばしば見舞われる。
復員兵は戦場での凄惨な場面に、孤児は自分が一人で放り出された悪夢に、そして女は夫と子を失った記憶に苛まれる。
この疑似家族のような関係は、復員兵のPTSD症状の悪化によって崩れる。後半でこの男が廃人になったことが示唆される。
残った女と孤児は共に失った親子関係の回復であるかのように心を通わせ、孤児は女の「ちゃんとした仕事をもつんだよ」との言いつけを守ろうとする。
ここまで(映画の前半)はほとんどが女の店を舞台としてる。
様相が変わるのは、孤児が謎の男(森山未來)と出会って以降である。二人は、ロードムービーのように行動をともにするが、彼もまた、戦争のトラウマ=PTSDを抱えた男であることが明らかになり、その軽減のために(本質的な解決はない)孤児の協力のもと、ある行為を実践する。
それは、原一男監督のドキュメンタリー『ゆきゆきて、神軍』で描かれた奥崎謙三の行為に似ているが、より暴力的である。
彼との一連の行動を終えた孤児は女のもとに戻るが、女は戸を閉ざしたまま対面しようとはしない。しかし、彼に「ちゃんとした仕事をもつんだよ」と繰り返し、もう、ここヘは来てはならないと言い渡す。
孤児は闇市へと歩み、まともな仕事をと忙しそうな店の手伝いを進んで行うが、それまでのかっぱらいの行為が知れ渡っていて、信用されず、殴り飛ばされたりもする。
それでも必死にその仕事にしがみつき、やがては一定の位置に居座る過程は、女との約束を守ろうとする孤児の懸命さを示していてジーンと来るものがある。
そんな折から、一発の銃声が闇市に響く。それは、女の言いつけに従って孤児が置いてきた拳銃で、おそらく梅毒に侵されて容貌が崩れていった女が、自らの終焉を選んだことを示唆している。
それはまた、戦争に依るトラウマ=PTSDの一つの終わりを描くと同時に、少年に託された未来を表しているかにも解釈できる。しかし、その解釈は凡庸すぎると思う。
あの孤児は、実はほぼ私と同年だと思われる。何が言いたいかというと、私たちが歩んできた戦後は、果たして戦前や戦中をどのように凌駕してきたのか、凌駕してきたといえるのかという問いに行きつく。
この映画に出てくる人物のほとんどが何らかの意味で戦争に依るトラウマ=PTSDに侵された者たちである。
しかし、戦後の「復興」といわれるものは、この人たちのリーダーシップによって、再び戦争に依るトラウマ=PTSDを生み出さないものとして形成されたのであろうか。
そうではない。むしろ、トラウマ=PTSDの被害者ではなく、そんなものは経験もしなかった、むしろ加害者たちによって形成されたのではなかったか。
国体は護持され、戦前の精神に根ざした保守政治家たちが一貫して支配してきたのがこの国ではなかったか。
かつての日独伊の三国同盟において、国旗も、国歌も、そして国家元首すらそのままであるのはこの国だけである。
だから、戦争に依るトラウマ=PTSDは今なお解消されないままこの国の底辺でうごめいている。塚本監督のこの映画は、改めてそれを知らしめたともいえる。
なお、主演の趣里は、今の朝ドラの主役とはとても思えない役柄を、重みを持って演じきっている。こんなに幅がある女優さんだとは知らなかった。
それからもう一つ、戦災孤児の少年塚尾桜雅くんの眼差しがとてもいい。上に述べたように、映画が描く時代、私は彼と同じ年代だったが、どんな眼差しをしていたろう。
■以下に予告編を載せておく。