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ユダヤ人がもっとも住みやすかった国での悲劇 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-18 00:55:40 | 旅行
 1940年代初頭、世界でのユダヤ人人口は1,000万人弱であり、そのうちの三分の一、約350万人がポーランドに住んでいたといわれる。ワルシャワのみでも約50万人を数えたという。これは中世以来、ユダヤ人への風当たりが少なく、暮らしやすかったからだといわれる。

      

  しかし現在、ポーランドはヨーロッパにおいてもっともユダヤ人が少ない国のひとつになっている。ワルシャワには約3,500人ぐらいと聞いたこともある。
 この大変な落差はドイツ占領下のホロコーストによるものであることは容易に想像がつくが、しかし、その過程にもさまざまな問題があって、一筋縄では行かないようだ。

      

 まずはナチスの方だが、ポーランド占領後、ワルシャワにはもともとユダヤ人の密度が高かった地域を中心に、38万人を収容したワルシャワ・ゲットーが設けれれ、ユダヤ人は高い有刺鉄線に囲まれたその地域からの移動を禁止された。いわば、街そのものが強制収容所とされたのである。

           
 
 さらに42年、ナチスがユダヤ人の「最終解決」を決定するに及び、ゲットーから処分場への搬送が頻繁になり、流れ作業による最終処分が進行した。搬送を免れてゲットー内に留まったユダヤ人もまた、その栄養状態や衛生状態のなか、命を落とすものが続出した。
 43年には、ゲットー内で蜂起反乱が起きるのだが、素手の反抗はドイツ軍の火器の前に血みどろの終結を余儀なくされた。

           

 これらは45年のドイツ敗北まで敗北まで続くのだが、最終的にポーランドにおいて生き残ったユダヤ人は約5万人だったといわれる。

           

 しかし、ポーランドでのユダヤ人迫害はこれにとどまらない別の側面をもっていた。41年当時、ポーランドの東部はソ連によって占領されていたが、この地域において23箇所でユダヤ人を対象としたポグロム(抑圧殺戮事件)が発生し、数百人のユダヤ人が犠牲になったというのだ。ドイツがユダヤ人の最終解決を決定する1年前のことである。
 
 その犯行グループはポーランド愛国主義者たちで、反抗理由はソ連の侵攻はユダヤ人による誘導援助によってなされたというものだった。
 もちろんこれはほとんど濡れ衣で、戦後、これに関わり合った約100人が逮捕され、27人が有罪、そのうち4名が死刑となった。

      

 日程の都合でアウシュビッツへ行けなかった私は、これらをワルシャワの「ポーランド・ユダヤ人歴史博物館」で確認するつもりで出かけた。
 
 最寄りのトラムの駅で降りた私は、青年を捕まえてどう行ったらいいかを尋ねた。しかし彼は、そんなものは知らないとそっけなく行ってしまった。すると、少し離れたところでそれを聴いていた中年の婦人が寄ってきて、それならこちらの方だと親切に教えてくれた。途中まで一緒に来て、ある角で、「ゴー、ストレート!」といって引き返していった。彼女もこちらの方に行く用件があるのだとばかり思っていた私は、その後姿に何度も「サンキュー!」を浴びせかけた。

           

 それは、ヨーロッパ特有の広い緑地帯の一角にあるとてもモダンな建物だった。それにしても人気が少ない。そこで私はハッと思い出した。そう、この博物館は火曜日が定休日なのだ。
 海外でうろちょろしていると、曜日のことなどすっかり頭から飛んでいた私は、下調べをした折、「へ~、火曜日休みとは珍しいな」と思ったことさえすっかり忘れていたのだ。

      

 気づけば、私の他にも休みと知らずに来たらしい2組ぐらいがいた。やがて、10人近くのグループがやってきて、解説者と思しき人が建物を指差しながら何やパペラペラと説明し始めたが、たぶん、ポーランド語らしく何もわからない。

      

 入場を諦めた私は、予め調べたポーランドでのユダヤ人の悲劇を念頭に、鎮魂の意を含めてこの大きな建造物の周りを二周した。
 何百万という人命が失われたあの喧騒の時代と、折からの風に応える頭上の葉擦れの音色のコントラストが、八〇年という歴史の落差を表しているようだった。

      

 しかし、あの歴史は本当に終わったのだろうか。かつて、ホロコーストの対象であったユダヤ人のなかのシオニストたちが、今度はパレスチナのガザ地区にパレスチナ人のゲットーをつくり、そこを対象に無差別殺戮を繰り返しているのではないか?
 2000年にわたり、ユダヤ人を差別し続けてきた欧米諸国は、自らの犠牲を払うことなく、ムスリムの土地をユダヤ人に与え、イスラエルという国家を作らせたばかりか、いままた、ムスリムへの攻撃を支援し続けているのではないか?

 私は、この旅から帰った翌日、疲れた体を引きずって、名古屋での「反ゴザ虐殺」のデモに参加した。

 写真はいずれもポーランド・ユダヤ人歴史博物館にて

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