六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

気がつけば私も囚われ者

2025-02-16 17:53:23 | よしなしごと

            

 毎日、就寝前にスマホを充電することにしている。昨夜もそうした。

 午前はPCでメールのチェックをしたり、SNSで応答が必要なものを確認したりした。

 昼頃、スマホの方のチェックをしようとした。しかし、その画面は暗いままだ。あちこちいじっていたら、薄っすらと電池のマークが出てきて、その残量が細い線ぐらいしかなく、数値は0.1%でとても使えないことが判明。

 明らかに充電の失敗である。あるいはバッテリーそのものの故障か。もう一度、充電のケーブルにつなぎしばらく待つ。事態の改善はまったく見られない。

ジタバタするのは諦めて、近くのソフトバンクに走る。予約制でしか応対してくれないのだが、たまたま次の予約客が来ていない社員がいて、話を聞いてくれる。そして私のスマホを持って行って自分のデスクで何やらゴソゴソ。

 しばらくすると戻ってきて、ちゃんとうちのケーブルでは充電できますから、本体のバッテリーの問題ではありません。 ここでちょっとホッとする。そこで新しい充電用のケーブルを求めようとするが、長さなどの仕様で、私に必要なものはないことが判明。

 家電店へ車で直行。必要なものを求める。帰宅してすぐスマホの充電を。順調に充電。ホッとする。

 しかし、考えてみれば変な話だ。名古屋の地下鉄など、7人のベンチシートにかけた7人が共にスマホを熱中しているのを見て、「オイオイ、たまには一日スマホを手放してみたら世の中変わって見えるんでは・・・・」などと呟いている私が、こんなにあたふた大慌てをするなんて。

 確かに、CMと詐欺ばかりの固定電話を解約して以来、外部との連絡はスマホのみとはいえ、あの慌てようはあるまい。

 IT 社会を斜に構えて相対化しているつもりの私自身が、やはり今や、そこにがっちりh捉えられてるというお話。

 おそまつさまでした。

 

 

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転んではいけないのに転んでしまう・・・・これが老人。

2025-02-11 02:16:50 | よしなしごと
 
 
 私のように80代も後半に差し掛かった老人が激しく転ぶのは、下手をすると命取りで、寝たきりになる可能性があるということはじゅうぶん知ってる。だから日頃、それなりの注意はしている。
 
 だが、知っていることと実際にそうなってしまうこととはまた別の問題で、洗濯物を干し終わってホッとしたあと、ほんとにちょっとした段差に躓いて激しく転倒してしまった。
 下は荒打ちのコンクリート。宙に浮いた身体を支えたのは両手と右膝の三点。そして見事、その三点で負傷した。いずれも打撲プラス擦傷。

 一番軽いのは右膝。転んだ瞬間痛かったが、やがてそれも治まり、ああ、骨などにも異常がなくてよかったと安心した。しかし、後刻調べたら下着に薄っすらと血が。やはり擦傷があり、そこから少量だが出血。

 ついで左の親指の付け根あたり。当初の出血はここが一番ひどく、ティッシュ数枚分を鮮血で染める騒ぎ。しかし、出血が治まった時点で傷テープを貼ったら、それでなんとかなったようだ。

 結局、一番ひどかったのは右手薬指先端の裂傷プラス擦傷。出血はあまりなかったのだが、いくぶんかの面積の皮膚が失われてしまっていて、肉塊が露出している。
 その部分を傷テープで覆ったが、指先とあって、テープそのものが安定しないし、炊事などの水仕事もこのままでは不能。

 そこで近くの百均へ走って指用サックを購入。
 これで全ては落ち着いてなんとかなりそう。

 転んだ現場をあとから検証。こんな僅かな段差でねぇ・・・・というのが感想。
 自分で持ち上げたと思うほど足が上がっていなかったようだ。
 一応、寝たきりは回避できた。

  写真はわが家のナンテンの紅葉。
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久々に30センチ以上の大ニシンを・・・・

2025-02-07 17:44:06 | グルメ
 
 昔はよく、魚屋の店頭やスーパーの魚売り場に並んでいた大型のニシン、どういうわけか最近はあまり見かけない。
 もちろん大衆魚であるが、これが好きで見かけると買っていた。
 最近でも出ないことはないが、20センチ以下のひょろっとしたもので、その割に結構値がついていたりする。それでも買っていた。

 久しぶりに大ニシンに出会った。300円と価格も手頃。即ゲット。
 塩焼きにする。うちのグリルにはやっと入る大きさだ。
 アジの塩焼きぐらいなら6~7分で焼けるが、大きいので10分に設定。大きさもあるが、イワシ同様、腹を出さないでの丸焼きだから、内臓にも火が通るようにする。

 焼き上がる。見たとこちょうどいい具合だ。酢醤油におろしショウガを添え、それをつけて食べる。
 楽しみは腹の中だ。当然のことだが、メスなら数の子、オスなら白子が入っている。

 白子だった。負け惜しみではないが、この方が良い。数の子でもいいのだが、焼いたそれはモソモソした感じで、正月に食うカリッとしたものとは似て非なるものである。
 その点、白子はしっとりとして柔らかく、酢醤油とよく合う。

 じゅうぶん楽しんだが、全部食べきれず、残した。歳のせいもあるが、別にニシンのみを食べたのではなく、カボチャの煮つけ、野菜サラダ、小ガンモドキなども一緒に食べたからだ。
 一人でも、やはり最低、3種以上の料理がないと淋しい。

 残ったニシン?もちろん捨てたりはしませんよ。チンして再度味わいました。
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【中国製AI (deepseek)に訊いてみました】

2025-02-06 02:07:13 | よしなしごと
            
 
私の問い「トランプ大統領の関税政策についてどう思いますか?」

以下がその回答です。
トランプ大統領の関税政策については、賛否両論があります。以下にその主なポイントをまとめます。
*肯定的な見方
1)国内産業の保護
 関税をかけることで、安価な外国製品からの競争を減らし、アメリカ国内の産業を保護する効果がありました。特に製造業や鉄鋼業界にとっては有利に働いたとされています。
2)貿易赤字の是正
 中国などとの貿易赤字を是正するための手段として、関税政策が有効だったと考える人もいます。交渉の切り札として使われ、一部の国との間で新たな貿易協定が結ばれました。
3)雇用創出
 一部の産業では、関税によって国内生産が増え、雇用が創出されたという報告もあります。
*批判的な見方
1)消費者への負担増
 関税によって輸入品の価格が上昇し、その結果、アメリカ国内の消費者が高い商品を買わざるを得なくなりました。特に家電製品や衣類などの値上げが指摘されています。
2)貿易戦争のリスク
 関税政策は中国やEUなどとの貿易摩擦を引き起こし、世界的な経済不安を招きました。特に中国との貿易戦争は、長期的な経済的なダメージを与えたとの見方もあります。
3)企業への影響
 輸入部品に依存している企業にとっては、コスト増加やサプライチェーンの混乱が生じ、経営を圧迫しました。農業分野でも、報復関税によって輸出が減少し、農家が打撃を受けました。
*総合的な評価
トランプ大統領の関税政策は、短期的には国内産業の保護や交渉の切り札として機能した面もありますが、長期的には消費者や企業への負担が大きかったとの指摘もあります。また、グローバルな貿易関係を悪化させたとの批判も根強くあります。
経済政策の効果は複雑で、短期的な成果と長期的な影響を慎重に評価する必要があるでしょう。

私の評価
 割にまともに答えています。しかし、マスメディアの解説などの一般論に終わっていて、その背後にあるトランプの意図や今後の見通し、それが与える極めて現実的な影響などについては何も語っていません。ようするに、一般的、かつ抽象的なレベルに留まっています。
 学生のレポートのコピペの材料にはなりますが、私たちが今後起こり得る事態を予想し、それへの備えなどを考える実践的指針にはなっていないと思います。

 <答えの番号などは私がつけたものです。>
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雑感二題

2025-02-04 14:30:20 | よしなしごと

【その一】

 石破さん、トランプ大統領との会見をそれほど急ぐ必要はありませんよ。その就任前にもう、安倍昭恵さんとの間で日米関係の大綱は決まってしまっているのですから。

【その二】

■人間は宇宙の彼方へロケットを飛ばすことができる。
■物質を究極の単位まで分割することもできる。
■AI のように個々の人知を超える知の体系を生み出すこともできる。
■なのに、穴へ落っこちた人を一週間も助け出すことが出来ない。
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実際にあったこと

2025-02-03 18:01:51 | ポエムのようなもの
どういうわけか
右の目から涙が滴り落ちる
頬を伝いポタリと落ちる
ツツツツーッと流れ落ちたりもする
世界の半分が悲しいのだろうか
 
どういうわけか
左の鼻から血が流れ落ちる
ティッシュの数枚はみるみる真っ赤
泉のように湧いてくる
世界の半分は悲惨なのだろう
 
 右目の涙、左の鼻血は事実です。
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その盛衰物語 JR岐阜駅と名古屋駅 

2025-02-03 02:14:38 | 想い出を掘り起こす

 2月の初め、今年何度目かの名古屋。
 岐阜の県都、JR岐阜駅から快速で18分、普通で25分。この近さが岐阜を名古屋の衛星都市にしてしまった要因の一つだ。

 折しも土曜日とあって、名古屋駅やその周辺の雑踏に目を見張る。岐阜駅のあの静かな佇まいとはまったく異なる群衆がわんさかといる。
 私が岐阜駅周辺で見た人たちのほとんどは、ある用件によってある場所へと移動するひとたちであった。むろんそうではない人も若干はいただろうが。

          

 しかし、名古屋駅周辺の雑踏の中の人たちは必ずしもそうではない。所定の会合にはやや時間があったので、名古屋駅周辺の人混みのなかをしばらく歩いてみた。
 用件をもって特定な場所へ急ぐ人もかなりいたろうが、その歩行などからして、とくに急ぐわけでもなく、どこへ行こうかと選択しながら歩を進める個人、カップル、仲間うち、家族連れがとても多いのだ。

 いってみれば遊民たちである。彼らはどこで何をするのかを求めてさすらい歩く。そしてそれを待ち受ける物品販売店、飲食店、カラオケルームや映画館のような娯楽設備。
 こうした都市遊民(むろん近郷近在からの人たちも含んで)の人たちと、その不特定多数の要求を受け入れる設備の充実、どうもそれが都市の条件のようだ。

      

 もちろんそれには経済的な地盤が伴う。
 かつて岐阜は、織物の生産地・尾張一宮をバックに、繊維二次加工(ようするに既製服)の全国指折りの産地であった。
 小規模な問屋が、数百軒も駅前辺りにひしめき、それぞれが小規模な縫製工場を抱えて製品を作らせていた。こうした多品種少量生産は、生産効率は悪いものの、各地の繊維小売業からは珍重された。

 「岐阜へゆけばなんでもある」「しかも一点から卸してくれる」が売りで、全国から繊維小売商が仕入れに来た。
 卸商や縫製業者は潤い、岐阜の歓楽街は人で溢れた。仕入れに来た小売商たちも、宿泊先から街へ繰り出した。

      

 縫製業は、東北や九州からの若い女性たちで占められ、その給与は安かったが、休日に街へ出て映画を観るぐらいの余裕はあった。


 また、あまりにもひどい労働条件に我慢できなかった女性は、飲食店やグランドキャバレーの従業員に転職した。ひところの岐阜の夜の街は、九州弁で溢れていた。

 はっきりいって、岐阜の繊維業は、低賃金労働によって支えられていた。そして、それは高度成長時以降の雇用状況に耐えられるものではなかった。
 資本力のあるところは、当時賃金が安かった中国や東南アジアへ工場を設置した。それほどではないところは、中国から技能実習生などの名目で安い労働力を得ていた。

      

 ひところは、岐阜の縫製工場では中国語が飛び交っていたが今はもはやそれもない。中国の経済成長とともに、安くて労働条件も悪いところへ来る人はもういない。次はベトナムと粘ったところもあったが、それももうほとんどない。

 こうして岐阜の繊維産業は崩壊した。駅前にあった繊維問屋街は、いまや10%以内の生存率でしかない。かつて隆盛を極めた問屋街は、真昼も怖いような一大シャッター街と化してる。その再開発の目処も立ってはいない。

      

 駅やそれとほど遠からぬところに、場違いなような巨大な建造物もあるが、下層階の商業施設はガラガラ、上層階のマンション部門の住人の多くは名古屋の職場へ通う人びとである。名古屋の港区や南区、緑区のハズレから名古屋の中心部へ通勤するのに比べ、岐阜の中心部からのほうが遥かに早いのだ。

 これから岐阜駅前の再開発で、またマンションなどが建つであろう。
 名古屋の中心部へ通勤する皆さん、どうかそこに住まいを定めてください。いまや皆さんの支払う市民税のみが、岐阜市を潤すのです。

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トランプのDEI 廃止とLGBT の危機 抑圧と排除の始まり?

2025-01-30 02:32:18 | 社会評論

 トランプが大統領に就任して以来、矢継ぎ早にさまざまな政策転換を表明し、大統領令に署名したりしていますが、そのなかにあまり目立たないせいかサラッと報道されたのみであまり問題視されていないものがあります。
 その一つが、DEI 政策を廃止するというものです。
 
 DEI とは、多様性・公平性・包括性を重んじようとするもので、多様性とは職場や公的組織のなかにさまざまなアイディンティティをもつ人たちを受け入れてゆこうとするものです。ようするに、民族やジェンダー(社会的性別)、宗教、年齢、社会階級などの相違を排除や序列の条件とすることなく受け入れてゆこうとするものです。
 
 公平性はこれまで社会的格差や歴史的格差の中で不利な立場にあった人びとにも公正で公平な立場を保証しようとすることで、また、包括性とは、こうした多様性、公平性を組織の中で具体的に実現してゆこうとする方策を指します。
 
 それらの具体例は、例えばこれまでの組織環境が男性中心だったのを女性の比率や管理職への登用を図ったり、自民族中心のものを他民族へも開かれたものにしてゆくことを示しています。
 
 これを、今日のアメリカ社会に即していえば、ズバリ、白人男性中心主義を改めようということにほかなりません。これまで、アメリカは曲がりなりにもそれを実施してきたのですが、トランプはそれをやめる、つまり、白人男性中心主義に戻すと宣言したわけです。
 
 これはまさに反動なのですが、同時に、トランプの「人間には男と女しかいない」という主張とも重なります。私は先程「ジェンダー(社会的性別)」というややぎこちない言葉を使いましたが、これは、人間の性の多様性に於いては、トランプのようにいい切ることはある種の人々には、抑圧や社会的排除として働くということです。

          

 どういうことかというと、前世紀中頃、シモーヌ・ド・ボーボワールは、その書『第二の性』において「女はこうして作られる」といい、「女」という概念そのものが、社会的・歴史的に男の「対象」として形成されたものに過ぎないといいました。
 そしてジュディス・バトラーは前世紀末、『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱』において、生物学的性(セックス)とは異なった性の多様性、歴史的社会的構築物としてのジェンダーの意義を強調しました。
 
 このジェンダー論は、LGBT(レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)の人たちの存在を裏付けるものとして、今日でもその支柱的な役割を果たしています。

          

 
 さて、冒頭のトランプのDEI 政策の廃止というのは白人男性中心主義の多様性排除であると述べました。というのは、これまでは、そのD=ダイバーシティの中にこれらLGBTの人たちも含まれていたのですが、今後は「男と女しかいない」というトランプの決めつけによって、抑圧や排除の対象となるということです。そしてそれは、皮相な生物学主義で、性多様性を否定し、その抹殺(文字通り殺処分)を実施したナチスに通底するものなのです。
 
 なお、こうしたLGBTの人たちを極小数と決めつけるのは大きな間違いです。例えば、日本での各種調査によれば、その割合は総人口の約10%というところが妥当らしいのです。そして、この10%という数値は、総人口においての左利きの人とほぼ同じ割合なのです。
 
 なお、掲載した書物の写真は、昨年来から私が学んできた書ですが、これらはそれぞれトランスジェンダーに関するものです。そしてこれがLGBT のなかでもっとも難しい問題をはらんでいるのです。

 というのは、LGB はすでに述べたようにその人たちの性的嗜好の対象であり、客観的にわかりやすいのですが、自分の生誕時に生物学的に規定された性に違和感を覚えているトランスの人たちは、その人自身の性自認=ジェンダー・アイディンティティに依拠しているため、第三者からはわかりにくいという点があります。
 
 そんなことから、トランスジェンダーを巡る論争はフェミニストの中にもあり、しかも結構激しい対立を生むこともあるようですので、この際、あえて触れませんでした。というか、私自身がなお勉強中ということです。
 

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今年初、岐阜県図書館へ

2025-01-23 16:46:30 | よしなしごと

 22日午後、この時期にしては温かいと思われるなか、県図書館へ。
 4冊を返し、3冊を借りる。
 
 返した4冊のうち、1冊はペラペラットめくっただけで、これはまた次の機会でいいやと読んでいない。著者に申し訳ない。ゆっくり読める時間が出来たらまた借りますから、お許しを。

 最近読書能力がどんどん低下している。読むのが遅い、少し経つと睡魔が襲う。
 ノートを取りながらはもっと面倒だ。最近、PCへの音声入力でノートを取るが、その不完全性から、後で読み返してわけのわからないこともある。難儀なもんだ。

 返却日は2月12日。さてそれまでに読み終えることができるかどうか?

      

             黄色いミニバスの向こうは県美術館

      

               県図書館正面玄関

          

      気候がいいときには散策する中庭 今は寒椿以外花がない

          

     本を選び、立ち読みも少しして外へ出たらもう夕景になっていた

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ご無沙汰しています。まだ生きていますよ。

2025-01-20 16:10:36 | よしなしごと

 このブログの更新も1月10日以来ということだからずいぶんサボったものである。

 これは用心すべきだろう。私の歳になると一體週間もご無沙汰するとあいつもとうとうくたばったのかということになりかねないからだ。

 今回、長い空白ができてしまったのは、所属している同人誌 の締め切りとその校正、さらにはそれと並行して、ちょっといたずらごとのようなことをしていたからである。いずれにしてもかつてはそうしたようなこともしながらも、まぁまぁこまめにブログを更新できたのだから、その点では年齢による私自身の能力の劣化といわれても 致し方あるまい。

           

 ただし、この間何もしてこなかったわけではない。それなりに書も読んだし勉強会などの集まりにも参加した。とりわけこの勉強会では、 フェミニズムの最近の動向とりわけ雑誌「情況」昨秋号が特集したトランスジェンダー問題などに関して、私の理解の範囲が狭いこと 思い知らされ、付け焼き刃で勉強などもしていた。

 今も、キャスリン・ストックの『マテリアルガール』を読み問題の整理をしつつある。

 その前には久々に 多和田葉子の小説『白鶴亮翅(はっかくりょうし)』を読んだ。ひところ、多和田葉子のの追っかけのようにして読み続けた時期があったが、今回は久々である。  

            

 なぜこの人に興味を持ったかと言うと彼女自身が 言語に対してとても自覚的というかそれに関するある立場をもっていて、それを小説の中でも実験的に用いたりしていたからである。で、それが小説としてどうなんだろうかということについては、 いささか見当違いかもしれないが以前にこのブログに載せたことがあるのでそれを参照されたい。

 https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20210310 

 あ、そうそう、今回のものは、現今の国際環境に根ざしていて、具体性があったと思う。ドイツの変遷の歴史の中で、東プロイセンやプロシアの話がでてきて、その話はドイツは無論、昨年夏、私自身がドイツとともに出かけたポーランドとも関連するので、もう少し掘り下げてほしかった。

 なお、この小説は、上記の問題と並行して、ヨガ教室で展開される技の進行、そしてそこに集う多民族の人たちのありようが柱となっている。タイトルの『白鶴亮翅』もヨガの技のひとつで、小説のラスト近く、意外な活躍を見せる。

           

      

 今年に入って、名古屋へは2回出かけた。一度は今池方面でこれはなじみの場所であるからほとんど問題なかったのだが、久々に行った名古屋駅の西側はなんだか凄いことになっていた。通行止めがいっぱいあって本来通行できた道路も柵で遮られるなど、行く先へたどり着くための道そのものがいたるところで寸断されそのうちに自分がどちらを向いて歩いているのか方向性すらわからなくなってくる。

 なんでそんなことになっているかと言いうと、いつ開通するかもわからないリニア新幹線の駅のための工事なのである。駅の桜口通り近辺にも多少の工事の現場があるが駅西も まぁそのくらいかなと思っていたらとんでもない話で、その何倍もの面積が閉ざされている。

      

 どうせ私が生きてるうちには乗ることができない、あるいは乗ることができてもあまり乗る気がしないリニア新幹線のために私の当面の通行はかくも無惨に妨げられているということが腹立たしい。

 まぁそれはそれとして、勉強会の帰りに二次会で初めてインド料理店に入った。勉強会にはイスラム系の人が2人いていわゆるハラルフードの店ということでここになったようだ。 田舎料理と和食しか知らない私にとってははじめての体験であった。あのでかい雑巾のようなナンというものをスパイスに浸して食べるというのは初めてのことであった。

           

 イスラム系の首都はともかく、私のような新校舎 夕食にはアルコールを伴う悪癖があってしかしその店には当然のこととしてアルコールは置いてない。インド人らしい店主は「アルコールは隣のコンビニで自由に買ってきて持ち込んでも結構です」ということなの 私もその言葉に甘えてなんとインド料理に日本酒を持ち込むという奇天烈な関係が成立した。

      

 ところでその店はとても親切で、そうした持ち込みを許すばかりか、持ち込んだ酒のために十分に冷やしたグラスを提供してくれるのである。いずれにしても食事そのものそしてその食べ方を含め、はじめての体験なのでとても面白かったやはり長生きはしたほうがいいのかもしれない。 

 この文章はあちこち変なのは口述で記入をしそれを手直ししたためである。まぁそのせいばかりではなく、文章を構成する私自身の論理的な能力の欠如は口述筆記にも出てしまっているというのが実情であろう。

 久々のブログであまり写真はない。書籍以外の写真は岐阜から名古屋に出かけた際に気まぐれ撮ったものである。

  今日はこんなところでお茶を濁してしまうがいつもこのブログを覗いてくれる方にはご無沙汰をお詫びし、今後は短いものでももう少しこまめに載せることをお約束いたします。ゴメンナサイ。

 

 

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