六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

85歳の一人旅 ベルリン・ライプチッヒ・ワルシャワ

2024-07-07 01:04:10 | 旅行

 突然ですが、この8日から18日の間、ベルリン、ライプチヒ、ワルシャワへと旅に出ます。

 ドイツ語で知っているのは、「ダンケ」と「ビッテ」と「ハイル・ヒトラー」ぐらいですがなんとかなるでしょう。

 ポーランド語は、「アンジェ・ワイダ」「ワレサ」「フレデリック・ショパン」という固有名詞しか知りません。

 でもまあ、地球は丸いから、変な飛行物体に乗らない限りその外へ出てしまうことはないでしょう。

 野垂れ死にの可能性はありますが望むところ。曰く、「人間(じんかん)到る処青山有り」です。

          

 などと粋がっていますが、内心は不安で一杯です。なにせこの歳で言葉もわからないま初めてのところへ行くのですから。
 ただし、ドイツ国内については安心しています。なぜなら、今回の旅の一つの目的は、ライプチッヒ在住の旧友に逢いにゆく旅だからです。

 もちろん、彼とはあらかじめ連絡が取れていて、LINEでの通話も可能ですから心強い限りです。もちろん頼りっきりではなく、自分でも努力をしていますよ。旅行社がとってくれたホテルを地図で確認し、周りの様子も確認し、迷子にならないようにしています。

 例えば、ベルリンのホテルの近くの飲食店もチェックしました。市の中心部ではないのですが、驚いたのはホテルから徒歩で行ける範囲に寿司屋が2軒もあります。そのうち、一軒は高級、一軒は手頃とありますが、いずれにしてもドイツへ行ってわざわざ寿司はないでしょう。

 その他はトルコ料理一軒、イタメシ屋一軒、ドイツ料理一軒でいずれもお手頃とあります。やはり郷に入ればでドイツ料理でしょうが、それが駄目だったらイタメシ屋でワインとパスタで済ますつもりです。

 さっぱりわからないのがワルシャワ。ホテルは中央駅近くの一等地ですが、周りの状況がよくわかりません。でもいいのです。ここは旧市街近く、トラムか地下鉄で出かけてこの目で確かめて入店すればいいのです。

 ホテルの近くである必要は全くありません。なんと、ポーランドは、列車も地下鉄もトラムもすべて七〇歳以上は無料なのです。外国人でもパスポートさえ見せればOKです。あ

 ですから、ワルシャワは行きあたりばったりを楽しんできます。絵葉書で見たような景色を確かめに行っても面白くないでしょう。交通費無料はとてもいいのです。間違えてとんでもないところへ行っても、そこの景色を楽しんでまた帰ってくればいいだけなのですから。

 ということで行ってまいります。私の技量で現地からレポートできれば致します。

 
 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清流長良川の鮎についての物語

2024-07-06 00:59:31 | 社会評論

先日見たTVの釣り番組で長良川鮎釣りをやっていた。ここの鮎は湖産ではなく海産だからいいと言っていた。
どういうことかというと、琵琶湖産の稚鮎を放流したものではなく、中流域などでの産卵によって生まれ稚魚が、一旦海に下り、遡上してきた純天然鮎だというのだ。
これは地元民にとっては嬉しい話だが、その実情を私は知っている!最上流部にまでダムのない長良川ではたしかにその可能性はあり、一部、海産のものもいるだろう。
しかしである、それを阻むグロテスクな産物がデンとして存在するのだ。曰く、長良川河口堰!長良川河口付近でその流れを完全に止めてる。

    

ここで遡上魚のほとんどが阻止される。当局は遡上魚のための魚道をその脇に設置しているというが、幅660mの堰の端に設けられた何mかの魚道に遡上魚が来る確率は極めて低い。
私はその魚道をガラス越しに観察できる箇所で遡上して行く魚をかなりの時間見つめていたが、その数は惨めなほどに少なく、かえってこの河口堰が魚類の遡上をほぼシャットアウトしていることが確認された次第だ。
では、これほどの犠牲を払って、愛知・岐阜・三重の東海3県へ水資源を供給するというその目的は達成されたのだろうか。高度成長の右上がりの図式を単純に延長するという目論見は完全に崩れ、今や、水余りでそれを押し付け合っているのが現状なのだ。
鮎の話に戻ろう。こうした河口堰の存在のもと、長良川全体での稚鮎の放流量は約12t強、その8割は琵琶湖産稚魚、そして2割が県漁協産の人工孵化だそうだ。こうしてみると、本当に海産鮎に行き当たった人は、とても稀だということになる。
なお、長良川の自然を愛する人たちは、この河口堰の一時開門を要求しているが、当局は頑なにこれを拒否している。
最後に、この河口堰付近はかつてはヤマトシジミの絶好の漁場であったが、堰完成後に、それは絶滅し、シジミ漁は廃業を余儀なくされたことを付け加えておこう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾張瀬戸へ行く・最終回 ん〜、飲めなかった!

2024-07-03 17:40:56 | 写真とおしゃべり

 瀬戸についていろいろ書いてきましたが、肝心の街そのものについてはほとんど触れて来ませんでした。
 瀬戸と言えば陶磁器類一般が「瀬戸物」と言われるほど、いわゆる陶器の街として著名ですが、最近それを凌ぐ勢いで瀬戸の街の名前を広めたのに、この町出身の藤井聡太棋士の快挙があります。 私が出かけたのは彼がそのタイトルのひとつを失う前でまだ八冠を保持していましたので、街のあちこちにはそれを誇らしげに告げるポスターや展示がありましたそれらは街角と言わず商店街と言わず公の場所といわず、あちこちで目にしました。

                

        
 瀬戸蔵ミュージアムを出て、あらかじめ調べておいたアーケード付の2つの商店街を回ってみました。ひとつは末広町商店街と言うところで緩やかにカーブをしたその両側の店は、ああ、お定まりのシャッター街で、 平日の午後ではありましたが、私以外に歩いている人はいませんでした。したがって見るべきところもほとんどありません。
 ただひとつかすかな希望を持ったのは写真で見るように、明らかに店舗改装、ないしは新し 店づくりをしているところが一軒見つかったことです。

         

         

 商店街そのものは途中で諦めましたが、そこからややそれたところに面白いものがありました。それはでっかい涅槃像なのですが(涅槃図というのはご承知のようにお釈迦様が亡くなられるた際、その高弟や一般の人々あるいは絵によっては様々な動物たちが横たわるお釈迦様の取り囲んで嘆き悲しむ図)、それがお釈迦様の涅槃像に模した陶器製の 大きな猫によって作られているのです。
 そこに至って初めて私以外の親子連れと出会いました。その軽装ぶりからして地元の人ではないだろうかと思いました。

          

     
 またその涅槃像の置かれた広場の端には 福猫バスと命名されたボンネット型のバスが展示されていましたが、ナンバープレートなども現存のもので、まだ公道上を走ることがあるのではないかと思います。

     
 
          
   本町商店街近くの神社の鳥居 コンクリート製だが根元あたりは陶器 サスガ

 末広町商店街を離れてもう一つの頃は尾張瀬戸駅直結するもう一つのアーケード商店街 本町通りと向かいました。
こちらの商店街は駅と直結するという利点もあってか回転中の店舗数はいささか多いような気がしましたが、しかしここも閉まっている店の方が圧倒的に多い有様です。
 藤井棋士の対局の折など、よくその故郷瀬戸からの中継と言うことで行われる商店街のシャッターにそれを大きな将棋盤に模して行われている対局の場も見ました。しかし、その周りにやはり人影はありません。
 私の他に1人ないしは2人を見かけたでしょうか。そのうちの1人はおそらくキョロキョロとあたりを見回しているその挙動から推察して外部からやってきた観光客だと思われます。

         
     
 そうこうしているうちに夕刻に近づきました。当初の私のブランでは、駅の近くにあるできるだけ瀬戸らしい雰囲気の居酒屋にでも入って、その風情を楽しんでから電車に乗って帰ろうと言うことでした。
 したがって本町商店街をはじめ。それらしい 居酒屋を見つけるための探索でもありました。にもかかわらずそれらしい店がないのです。カフェ風の店は二、三ありましたが、私のようなジジイがはストローで何かを突っついているいう様は頭に描くだけで御免被りたいものです。
 
 居酒屋・居酒屋・居酒屋・・・・ありません。ここでハードルを低くしました 。瀬戸らしい居酒屋と言う条件は諦めて、もうどんな居酒屋でも良い、全国チェーンの居酒屋でも構わない、とにかく歩きまわった疲れを癒しちょっとしたうまいものを肴に一杯やれれば良いと思って探して歩きました。
 この条件ならばどこの駅へ行ってもその駅の近辺には必ずあるはずなんです。にもかかわらず瀬戸駅の周辺にはそれらしいものが見当たらないのです。瀬戸の人たちはアフターファイブの夕べの楽しみ方を知らないのでしょうか。まるで20世紀初めのアメリカの禁酒法時代の街へ迷い込んだようで、正直いっていささか愕然としました。
     
 すっぱりと諦めて重い足取りで瀬戸駅のホームへ立ち折から発車間近の電車に飛び乗りました。結局、私がそれらにありついたのは終点の栄町駅からさほど遠くない地下街の中にある酒津屋と言う居酒屋でした。ここは時折、顔をのぞかせるのです。
  ここは栄町地下街の中でも一番庶民的で飾り気のない店だと思います。板場と若いオネェさん二人で切り回していて、早い、安いという実質本位の店なのです。

 あいにく私が行った時は満席でした。しかし疲れた足を引きずって他の店を探し回るのも億劫でしたので、オネェさんにしばらく待たせて貰っていいかと訊くと、「ウン、すぐ空くから・・・・」との答え。事実五分後には自分の席へ。
 「何にする」「お酒は『可(べし)』。冷でね。それと赤身と〆鯖」「ハ~イ」
 しばらくしてそれらが来る。お酒のグラスは二つで、一つは普通に注いで、もう一杯は半分。「どうしたのこれ?」と私。「待たせたからサービス」と笑顔のオネェさん。ああ、至福!
 あとは串カツと、土佐の「酔鯨」で幕。う~ん満足。オネェさん、ありがとう!

 瀬戸の居酒屋でこんな締めがしたかったのですがそれが叶えわなかったのは残念。

 これでもって7回の瀬戸物語の連載は終わりですが、その最終が瀬戸ではなくて名古屋であった事はちょっと残念です。まぁしかし、瀬戸の商店街のあの衰退を見、そこの人たちが懸命に励んでもでもなおかつ追いつかない状況を見るにつけ、沈んだ気分は避けられませんでした。かつて、商店街活動も経験したことがある私にはとりわけグッと迫るものがありました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食の余り物 ある活用物語

2024-07-02 16:20:29 | グルメ

 実質一人暮らしで食事も作っているので、食べ切れないで余る場合が多い。
 ただし、子どもの頃疎開先の祖母から、「一粒の米でも八十八の手がかかっているのだから」と、床にこぼした飯粒一つでも拾って食べるよう厳しくしつけられたこともあって、それらを無駄にしないことを心がけている。

      

 上の写真はある日の夕餉である。いんげんの煮付けに人参(薄味で煮付け少々のバター味)、キャベツ千切りの湯煎に豚バラ細切れソティを合わせた温サラダ風、そしてナス煮物(仕上げに少々の味噌風味)といった野菜中心。
 これでもかなり余った。

      

 この写真はそれらの余りものを具に、ボロニアソーセージと葱小口切りを加えた翌日の昼の冷やしうどん。具も冷蔵庫で冷やしたままだから、前日の味とはまた違った食感で、冷たい皿うどん風との相性も悪くない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾張瀬戸へ行く・6 瀬戸電に乗ってやがて80年

2024-07-02 00:57:07 | 想い出を掘り起こす

 瀬戸への小旅行について書くつもりだったのですが、つい私の生まれた一族の物語になってしまいました。一族といっても、その出発点において、外部へ出された姉と私にとっては、あくまでも外部から観覧すると言う類のものでした。私たちの生活は、その一族とは離れたところで、既にそれぞれが新しい家族の中で過ごし、それなりの歴史を作り上げていたからです。
 ですから、この物語はこの辺で切り上げ、肝心の瀬戸について書くことにします。

           
      以下、5枚の写真はいずれも瀬戸蔵ミュージアムでの瀬戸電関連の写真

 足を運んだ瀬戸蔵ミュージアムについては、館内の写真などを既に何枚も載せてきましたが、ここの展示物のひとつのみものは、現在の名鉄瀬戸線、かつてのいわゆる瀬戸電についての歴史を垣間見ることができることでもあります。まずミュージアムの入り口には、瀬戸電といわれた頃の車両が展示され、しかもその車両は、現在の駅舎になる前の古い尾張瀬戸駅の駅舎の再現とともに、そこに停車しているように展示されています。これは両者ともに、私にはとても懐かしいものなのです。なぜなら、私はまさにこの車両によって、この古い駅舎へ到着していたからです。

                

 瀬戸電の歴史をひもとけば、それは、現在のような旅客運送というよりもむしろ貨物運送のために開発されたといます。では、その貨物とは何だったのでしょうか。それこそが、瀬戸の産物、いわゆる瀬戸物の運送なのでした。
 もちろん近くの大都市名古屋への運送とそれを経由して全国へということもありましたが、むしろ、海外への輸出のための運送でもありました。

 そのためには、まず名古屋まで運び、さらには名古屋港まで運ばなければならなかったのですが、しかし当時は今のようにトラック便が行き交う状況ではなかったので、名古屋から名古屋港までは堀川運河を船便で下るという手段をとっていました。
 そのため、瀬戸電の名古屋での終点は、今のように、中心部の栄町の地下駅ではなく、まさにその名の通り「堀川」と言う運河沿いの駅だったのです(その貨物も廃止され、栄町が名古屋の終着駅になったのは1978年のことです)。

     

 ですからかつての瀬戸電は、名古屋の堀川から尾張瀬戸までの経路で、私が子どもの頃、母とともに瀬戸の親戚へいったりする際には、疎開先の大垣郊外の美濃赤坂線の荒尾駅から大垣へ出て、そこから名古屋へ、そして市電で堀川、そこからが瀬戸電でした。
 いまから4分の3世紀ほど前のことですが、その頃はまだ貨物列車も健在で、黒い小型の電気機関車が、貨物を引っ張っていたのを目撃している。

 瀬戸電の堀川からの経路はいささかスリリングでした。路線はやがて、名古屋城の外堀の中を走るのですが、当初は 名古屋城の正面を通り抜けるようにして東へ進み、やがて東外堀の辺で お堀の直角のカーブを北へと回ります。ほぼ直角に近いカーブ、線路の軋み、あえぐような電車の進行、ここがかつての瀬戸電の最大の見所だったのではないでしょうか。

            

 曲がり切るとやがて土居下に差し掛かります。ここはかつて、尾張藩の忍者集団、土居下衆が住んでいたところで、名古屋城が陥ちるような危機の折、城内よりここまでの秘密のトンネルで脱出してきた藩主を土居下衆が守護し、いまの黒川沿いに北上し、尾張藩家老の居城だった犬山城まで落ち延びてゆくといわれたものです。

      

 話が逸れました。瀬戸蔵ミュージアムの瀬戸電の展示に戻りましょう。
 駅舎の外部、内部の展示は私の記憶にあるものです。展示されている車両はモ700形で1962年からのものだといいますから、私の子どもの頃乗ったのはもっと古い車両だったことになります。
 そこで検索してみたら、1925年から60年ぐらいまではホ101形という車両が走っていたとありました。私が記憶してる瀬戸行きは1940年代中頃から後半ですから、このホ101形のお世話になっていたことになります。

          

        瀬戸電を走っていたホ101形電車 パンタグラフがポール方式

 これらの写真を見ると、いまはもうどこへいってもみられないポール状のパンタグラフです。
 この時代の瀬戸電は私にとって忘れがたいものですが、それとともに疎開先から帰った岐阜の市街電車(これも名鉄)もくっきりと記憶に残っています。
 この少年時代の私の記憶に深く残る電車の共通点は、ともにポール状のパンタグラフを備えたものでした。
 このポール状のパンタグラフ、終着駅で方向転換をするとき、運転手がロープ状のもので、パンタグラフの角度を進行方向の背後の方角へと変えていました。

      

  これは東京都電のものだが、同じタイプのものが岐阜市街電車としても走っていた

 古い鉄道は郷愁をそそります。それは、かつての人たちは自分の住居を離れて旅する機会が少なかったことによるでしょう。
 したがって、自分たちが身近で利用した鉄道、そして一定地点への移動として乗っていたある鉄道、さらにはたまたま行くために、あるいは行った先で乗った鉄道が強いインパクトをもって記憶に残るからでしょう。

 そんなこともあってか、私にとっては「名古屋鉄道瀬戸線」というより「瀬戸電」が心に残るのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾張瀬戸へ行く・5 在日の叔父を訪ねて

2024-06-28 00:39:58 | 歴史を考える

(承前)
 叔母の再婚相手が在日の人であることを知ったのは、私が40歳過ぎて実姉に再会したあとのことである。
 私と姉は、叔母に会い、その家を訪れた。叔母の連れ合い、在日の彼、つまり私の義理の叔父にも会った。彼は亜炭鉱の炭住でも権威をもっていたように、親分肌の豪快な人物だった。ただしその折は、いまの私より少し若いぐらいの年齢で、もう現役を引退した好々爺風であった。

 姉と私の訪問をとても喜んでくれた彼だったが、とりわけ私が、「あなたは総連系、あるいは民団系どちらだったのですか?」尋ねたときには、「お前、そんなことを知っているのか。もっとこっちへ来い」と、私を抱きかかえるほどの近くへ招き、酒肴を勧め、その経歴を話してくれた。

 彼はいろんな軋轢の末、民団を選び、引退まではこの地域の幹部を務めていたようだ。私と同じ年代の人で左翼を自称する人たちの間では、総連は左翼、民団は右翼という一般論が支配的だったが、スターリニズム批判を経過した私にはそんな評価は無縁であった。

 日本敗戦後、在日の人たちはただただ勝ち誇ったようだったと語る人たちがいるが、そんな単純なものではない。日本の敗戦は同時に朝鮮半島の動乱の始まりでもあった。新たな朝鮮の出発を期して希望を胸に帰った在日の人たちが、チェジュ事件など思いがけぬ惨事に逢い、日本へ再入国したり、戦後、新たに日本へ亡命同然にたどりついた朝鮮の人たちも多い。

 私は一応それらの事実を知っていた。それらが彼との間に共感を生んだのだろう。現役時代には、きびしい表情で過ごしたであろう彼が、私に対しては破格の笑顔で対応してくれたのをいまも思い出す。

 姉と2回ほど彼と叔母の元を訪れたであろうか。やはり歓待してくれた。彼の訃報は家族主体の葬儀を済ませたあとに届いた。姉と私は、その四十九日に相当する日に彼の霊前に赴き、叔母や義弟、義妹の力になってくれたことを改めて感謝した。

 これが、私と姉を外に出すことにより、継続した「家」の物語の顛末である。これはまた、実父の戦死などを含め、先の戦争が影を落とす物語でもあった。
 再会して以降はできるだけ交流を保つようにした姉も亡くなり、いま、その末裔で私が連絡を取れるのは姉の娘たち(姪二人)と実父と叔母の間にできた義妹だけである。

 毎年、5月の八十八夜、その年の新茶を贈ってくれるのが静岡県に住む姉の習いであった。それをいま、その娘、つまり姪が引き継いでいてくれる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾張瀬戸へ行く・4 血縁・家・万世一系

2024-06-25 14:34:42 | 歴史を考える

【これまで】家を守るため入り婿に入った実父は実母との間に姉と私を設けたが、その実母が私の生誕後亡くなったため、女学校を出たばかりの実母の妹(つまり私の叔母)と再婚しました。これも家を守るためでした。
 しかし、叔母はあまりにも若く乳飲み子と幼子を養育することはできず、姉と私はそれぞれ別のところへ養子として出されました。
 実父と叔母はその後、私の義弟、義妹にあたる二人の子を設けたのですが、折から激しくなる戦争に取られ、1944年インパールで戦死してしまいました。二人の幼い子を抱えた叔母は、戦後のドサクサで苦労を重ね、当時、愛知の三河や岐阜の東濃にあった亜炭鉱山の女坑夫として働きました。
 そんな母に同情し、良くしてくれた男性がいて、二人の子持ちを承知で叔母と結婚しました。これはこれで新しい「家」が誕生したわけで、うまく収まったかに見えましたが、これまで「家」を守るを信条にしてきた叔母の親戚一党はこの結果を歓迎せず、隠然とした差別のようなものが生まれたのでした。
 なぜか?それがこれまででした。
 なお、これは先般瀬戸を訪れた際の私の回顧録で、それらは瀬戸と関連の深い地での出来事だったのです。

          

          写真は以下も含め、すべて瀬戸蔵ミュージアムの展示です。

【それ以降の続き】 

 なぜそうなったかの結論をいいましょう。
 叔母が結婚したのは在日の人だったのです。
 「家を守る」に固執する親戚筋の人たちには驚愕の事実だったようです。
 あからさまな陰口や隠然とした差別があり、中には事実上の付き合いを絶った人たちもいたようです。

     

 でもこれって変な話ですね。家を守るというのが血縁の繋がりを中心に考えることだとすると、女系家族のところへ実父が婿養子に入り、妻に先立たれたらその妹と再婚してその流れを守り、その婿養子をなくした妹、つまり私の叔母が新たな連れ合いと結ばれたということですから、その新たな連れ合いとの間にできた子にも、血縁は継承されるはずです。

     

 にもかかわらず、「家を守る」といっていた人たちが叔母と在日の人との結婚を歓迎しなかったのはなぜでしょうか。これまで、「家を守る」を「血縁の継承」という点から見てきたわけですが、それ自身を考え直す必要がありそうですね。

           

 人間のみならず、生物は遺伝子の継承をもって繁殖を継続します。とりわけそれが、動物の場合ですと血縁の継承となり、人間の場合ですと親子にとどまらず、孫やひ孫の代までの継承関係が親戚だとか親族一門を形成します。これは血縁の自然的側面ですね。もっとも、人間の「孫子の代まで」になると、定住生活に伴う土地や住居などの財貨の継承を含みますから、歴史的社会的に形成されてきたものといえそうです。

     

 さらに人間の場合ですと、この「血縁」は身分や階層を保つという意味でのある種の序列や秩序を前提にしていることが見えとれます。日本でいうならばかつての士農工商、インドでいうならばカースト制度の継承です。
 こうなればもう血縁は自然的な面を離れて、完全に歴史的、時代的に秩序構成的なものになります。

     

 現今の日本では、あからさまな身分制度はありませんが、それでも、家の釣り合い、学歴の釣り合い、などなど無言の制約は皆無ではないでしょう。
 ましてや私の幼少時の戦前、戦中は、まだ身分制度の名残りはあり、私の生家が「家」にこだわったのは家康公時代からの三河武士の流れという変なプライドに固執したからでしょう。

 ですから、叔母が在日の人と再婚したことをもって「家」の終わりであるかのように評価する人たちは、イスラエルの国防相がパレスチナの戦士たちを「動物のような人間」と形容したように、在日の人は血縁を継承する対象たり得ない人であるとするレイシスト的価値観に囚われているともいえます。

 それらをまとめてみるに、血縁を中心にした「家」というのは、その自然的側面を土台にしながらも、人間の長い歴史を経て、限られた階層の保持、各階層間の序列の保持などなどの社会構造をなす極めて人為的な秩序や規範として、時には抑圧的に、時には差別、排除的に働く極めて人為的な制度だということです。

 こので肝心のことをいわねばなりません。そうした規範を通じて、国民統合を価値づけ、時には逸脱者を排除してきたこの国の中心には、「血縁」を介した「万世一系」の家族が厳然として存在し、人々はそれを崇拝し、「象徴」という名であれ何であれ、その一家の総領を国家元首としていただいているとうことです。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾張瀬戸へ行く・3 「家」は守られたのか・・・・

2024-06-23 00:38:19 | 想い出を掘り起こす

 姉と私は、その実母を亡くし、家系を守るため実父が実母の妹、つまり私たちの叔母と再婚するに当たり、そのための余計者としてそれぞれ養子に出されたことは述べてきました。それらの舞台が瀬戸と大きな関わりをもっていたことも述べました。
 ではその、三河武士の末裔というささやかな誇りをもった家系は、姉と私を排除してリセットし、あの戦中戦後の混乱の中で守られたのでしょうか。

     

 写真はすべて瀬戸蔵ミュージアムでのもの。ここでは陶磁器の製造工程と瀬戸での土器以降の陶磁器生産の歴史を、出土したものや現代の製品を網羅して展示している。

 家系などという概念に全く関心をもっていない方も多いでしょう。私もそうなのです。しかし、時代もあるでしょう、私の幼かった戦前には、まだ家系の維持というのは没落した士族などを中心に生きていたのです。
 家系の今日的意義は、国会議員の二世、三世、四世・・・・や企業の創業者の系譜の中にこそその特権的利害を伴って重要視されているのかもしれません。

     

 実父が叔母と結婚し、リセットされた「家」のその後をみてみましょう。
 新しい家には、新しく一男一女が授かりました。私の義弟と義妹です。これで新しい家は守られたかのようでした。
 しかし、時代は戦争の真っ只中です。実父もまた赤紙一枚で戦地へとられました。しかも、出征先がよくありませんでした。ビルマ、いまのミャンマーです。ここは詳細は述べませんが、もっとも愚昧な作戦といわれたインパール作戦の舞台で、いたずらに数万を超える死者を排出したのですが、その死者の一員が私の実父でした。

     

 新しい家構想は、こうして戦争のためにあっけなく崩れたのですが、さらにその後があります。二人の子どもをかかえて戦争未亡人になってしまった叔母ですが、戦時中は「英霊の妻」として何らかの支えがあったようなのです。しかし、いざ敗戦となった瞬間、なんの支えもないまま、混乱した巷間へ親子三人が放り出されたのでした。

 あれほど、家、家、といって叔母を後妻に導いた親戚筋も、自分のことに精一杯で、誰も支えてはくれませんでした。親子三人の生活はすべて叔母の肩にかかっていました。
 叔母は、体を売ること以外のことはほとんどしたようです。そして、最後にたどり着いたのが、亜炭鉱の鉱山労働でした。当時亜炭は、瀬戸での焼き物の火力など広い需要があったのでした。

         

 叔母は、亜炭鉱の炭住長屋に住まいし、男並みの労働で子どもを養い続けたのですが、男女の体力差、出来高制のような賃金体制の中では苦戦の連続でした。
 そんななか、何やかやと叔母を支えてくれる同じ炭住の男性労働者が現れました。叔母は彼とのしばらくの付き合いの後、再婚を決意します。彼は独身にも関わらず、二人の子持ちの叔母との結婚に同意してくれたからです。

     

 これらの経緯を知ったのは40歳過ぎに姉と再会し、その姉を通じて叔母と合った折のことでした。その折、叔母はもちろんその男性の妻であり、その男性との間に別途、男の子をなしていました。
 私にいわせれば、それは「めでたしめでたし」なのですが、「家を守る」に固執していた親戚筋には「極めて重大な問題孕みの事態」であったようで、そんな叔母の決断への隠然たる非難や陰口が絶えず、叔母の一家は一族の中からはいささか異質な存在とされてしまったのです。
 なぜでしょうか。それは次回に譲ります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聞くも哀しい命名・・・・オオキンケイギクのことをこんな風に

2024-06-21 13:57:06 | ひとを弔う
       
 オオキンケイギクは今花期を迎えているキバナコスモスに似たきれいな花だが、セイタカアワダチソウと同様、特定在来植物の代表的なものといわれる。持ち込まれたのは1880年代というからけっこう古いが、急速に増えたのが先の戦後である。
 
 やはりセイタカアワダチソウ同様とても繁殖力が強く、敗戦後、日本に着陸する米軍機の車輪にくっついて、飛行場を中心に繁殖したといわれる。
 これは私の記憶をたどってもそう思われる。岐阜近辺の繁殖は、各務ヶ原飛行場を中心に国道21号線沿いに広がっていった。ひところは、今頃の木曽川の河川敷はこのオオキンケイギクの群生地として黄金色の花に埋め尽くされたものだ。
 
 この、飛行場を中心に・・・・というのはやはり全国での様子で、今朝の「朝日」、声欄のトップはかつて鹿児島県に住んでいた80代の女性からのもので、それによれば、あの戦争末期、片道の燃料と爆弾を抱えた特攻機が飛び立った鹿屋や知覧の飛行場あとに、戦後しばらくしてこのオオキンケイギクが咲き始め、人々はこの花を「特攻花」と呼んだのだそうだ。
 
 南海の海に沈んだ若者たちの魂が、黄金の花として還ってきたと見立てたのだろう。
 なんとなく、グッと来るものがあるではないか。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾張瀬戸を訪れる・2 姉と弟

2024-06-18 17:00:50 | 写真とおしゃべり

 三〇度を超すかもしれないと予報が告げるなか、名古屋の栄町(地名は「栄」ですが駅名は「栄町」)から名鉄瀬戸線で「尾張瀬戸」へと向かいました。

 途中、矢田川を渡り、守山区(名古屋へ合併する前の守山市)から尾張旭を経て瀬戸へ至る路線は途中で高架化のための工事区間などがありましたが基本的に変化はありません。
 終点、尾張瀬戸駅の ふたつ手前、今は新瀬戸駅(それとクロスする愛知環状鉄道の駅名は瀬戸市駅)となっいてるところはかつては尾張横山駅といわれていました。その駅南の線路に沿うようにしてかなりの面積をもつ製陶所をもっていたのが、前回述べた私の養母の姉妹の嫁ぎ先の親戚でした。多分、私の養子縁組の仲立ちをしたところです。

         

 駅前を通りに挟まれて流れる瀬戸川 私が少年時代に来た頃は、各陶磁器製造所からの排水のため、土色に濁りきって、川岸には粘土がへばりついていた いまは水は清らかで、泳ぎ回る魚影を確認できた ついでながら、当時の各陶磁器の窯は亜炭を炊いていたため、空はその煙で真っ黒だった

 それもあってか、そこへはよく行き、製陶所の器具を眺めたり、仕掛品を見たり、そして時折、すぐ近くを行き交う瀬戸線の電車を見ていたものでした。
 
 その箇所には昔の面影はまったくなく、その面積いっぱいのようなマンションが建っていました。その親戚がオーナーなのか、それともその地を手放してしまったのかはわかりません。親しかった従兄弟は随分前に亡くなり(私より20歳近く上)、その兄弟姉妹とのつながりも途絶えてしまったからです。

         

             駅近くの和風建築 陶磁器屋さんらしい

 終点の尾張瀬戸駅に降り立ちました。
 駅舎を出ると、瀬戸川を挟んで東西に走る通りがあります。この辺の地理的な感じは70年以上前とほとんど変わりありません。
 駅頭に立って、まずは南方の交差点を注視します。ここには、立派な歯科医とその住まいがあり、その面積もかなりのものでした。しかし、もはやそれはありません。多分その跡地だと思うのですが、そこには立派なホテルが建っていました。これはどうもホテルチェーンの一つらしく、かつての歯科医とは関連なさそうです。多分土地を売却したのだろうと思います。

     
 瀬戸蔵ミュージアム(次回にでも紹介)に付帯するタワーから街全体が見渡せるというので登ってみる エレベーターは4階までしかなく、そこから上は階段を登る しかも30度近いのに空調はなしで、ガラス越しの陽射しが容赦なく照りつける

 なぜその歯科医にこだわるかというと、私の2つ上の姉は、そこへ養女として入ったからです。姉と私が再会したのはもう40年ほど前でしたが、その後に姉とともにそこへ挨拶に行ったこともあります。
 瀬戸では一等地の名だたる歯科医でしたから、姉はさぞかし裕福な生活を送っただろうと思われるかもしれませんが実はそうでもなかったのです。

 それは、養子をとる動機と関連します。どういうことかというと、私の場合は開業したての材木商の小商人でしたが、子どもが出来ないために是非と望まれて養子に来たわけです。それに対し、姉が引き取られた歯科医にはすでに姉妹二人がいたのですが、引き取り手がない女の子がいるのなら、可愛そうだし、余裕もあるから引き取ってやろうかというのが動機だったのです。

         
          そのタワーから撮った瀬戸川沿いの写真 次も同様

 籍も入れてくれて、衣食住にも困ることはなかったのですが、すでにいた姉妹とはやはり扱いに歴然とした差異がありました。その待遇は娘というより使用人風だったようです。その扱いの差がもっともはっきりしたのが進学についてでした。上の姉妹は高校はもちろん、大学まで進んだのですが、私の姉は中学卒業時、高校進学は許されず、手に職をつけて嫁に行けるようにと裁縫や縫い物の手習いに出されたそうです。
         
 その後、姉は、瀬戸市内に住む名古屋の繊維問屋へ勤務する男性と結婚し、さらに彼は、静岡県内にチェーン店を数か所もつアパレルショップの経営者にヘッドハンティングされて、複数の店を任されることとなりました。
 
 そんなわけで、私が姉と再会した折、姉もまた静岡県内のショップを一つ任されてキビキビと働いていました。

 ちなみに姉の相方、私の義兄ですが、彼は享栄商業時代、のちのプロ野球の大投手、金田正一と同級生で、一緒に野球をしていたことがあるといっていました。

 今回は、尾張瀬戸の駅頭に立ったところで終わりそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする