六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

衰えつつあるものが衰えについて考える。

2012-09-04 01:35:28 | よしなしごと
   写真は内容と関係ありません。ある日の岐阜駅頭です。

 自他共にその衰えを知ったり感じたりするのは人間だけだと思う。
 人間だけが自分の生誕から死に至る過程、その間の生育の段階、最盛の時期、そして下降して衰弱してゆく流れの中で自分を意識し、またそれを他者においても見るのではないだろうか。
 なぜだろうか。それは人間だけが物事を時間の相においてみるからだと思う。

              

 動物は死なない、ただその生命を終えるのみだという。
 同様に動物はその発育や最盛期、衰微の段階を知らないと思う。
 ただその折、その折をあるがままに生きているのだろうと思う。
 おそらく動物には過去・現在・未来もないのだろう。
 いや現在はあるだろうと言われるかもしれない。
 しかし、人間のそれのように過去や未来に挟まれた今としての現在ではない。
 ようするに現在ともいえない刹那としての今があるのみなのではないだろうか。

 もちろんこれは私の一方的な推論にすぎない。
 しかし、もしそうだとしたら、人もそのように刹那的に生きられないものだろうか。
 過去への未練や、将来への思い煩いから自由に、という意味でだ。

              

 もうしばらくすると私にやってくることなのだが、ボケてしまえばそのようになれるのだろうか。
 そうなった折でも、過去を引きずっていたり、あるいは未来への惨めったらしい望みを持っていたらやりきれない気がする。
 しかし、そうなった折には、いま、私がこんなふうに考えていることすらどこかへいってしまっているのだろう。

 ようするに、自意識をもつ者はそれが崩れることを恐れる。
 しかしそれが崩れるということは、それを恐れる主体もなくなるということだ。
 もっとも、自意識などは後天的に私のうちで内面化された外部にすぎないとしたら、そしてそれが欠陥動物としての人間のひとつの特徴にすぎないとしたら、その喪失自体は、生まれでた折の「まだ私ですらないもの」に戻るというだけのことだ。

              

 ただしこれは、私が私として生きること、あるいは生きてきたことを否定しようとするのではない。人間の死は、そして衰えは避けられないものだろうが、しかし、そのために生まれてきたわけではないのだから、この世界を引っ掻いたり撫で回したりして、それとの間にひとときの交感をもつことが出来ればそれでいいのだと思っている。
 というより、そうした自分をあくまでも慈しみたい。
 
 だから、まだ変な自意識がある間に、にっこり笑って嘯いてみるのだ。
 「これぞ我が人生! セ・ラ・ヴィ だ」 と。
 これは諦観ではないから誤解しないでいただきたい。
 逆に、絶対的な自己肯定なのだ。
 な~んて、ちょっと格好つけ過ぎだな。
 すっかり与太話になってしまった。
 もう寝よっと。

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うだつの上がらない男がうだつの上がる町へ

2012-09-02 01:36:02 | インポート
 アッシー君なのです。
 和紙の町・美濃市へ紙を買いに行くから付き合ってくれとのことです。
 ここんとこず~っとパソ相手に長い文章を書いていて、いささか飽きていたので引き受けました。

 などというとおおげさですが、高速に乗ると三〇分で行けるのです。
 昨年は夜、行灯祭りの折に出かけました。
 今回は昼間です。
 依頼主を和紙屋さんの前で降ろして、私は町の散策です。

    

 何度も来ているところですが風情がある町です。
 ウィークディの昼下がりとあって、道行く人も少なく勝手気ままに歩けます。
 あ、そうそう、せっかく来たのだからと写真を撮りました。
 街全体の雰囲気を撮りたかったのですがどうしても走っている車や駐車している車が入ってしまうので諦めました。
 でも、仕方がありません。こっちは観光気分でも向こうはお仕事ですものね。

    

 うだつは火事の延焼を防ぐためだといわれますが、いつも見て思うのは、これくらいのものでほんとうにその効果があるのだろうかということです。
 しかし、昔の人の知恵、ないがしろにはできません。
 このうだつのみではなく、それとセットになった袖壁(建物の外面にまで張り出した壁)との相乗効果もあってその機能を果たすのでしょう。

    

 もうひとつ、その有無や出来栄えで家同士の権勢を競い合ったということがあり、それが「うだつが上がる」とか「上がらない」とかいう方の語源になったようですね。
 え?お前んちはどうかですか?
 私んちは一軒家ですから必要がないのです。
 必要があっても上げられないだろうって?
 しつっこいなぁ、もう。そういう詮索ってあまり好かれませんよ。

    

 程よい頃を見計らって先ほどの和紙屋さんに戻りました。
 ご用命の依頼主は、なんでも和紙を使い和綴じの小冊子を何冊も作るのだとかで、さまざまな種類の和紙をいっぱい抱え込んでいます。
 私にも意見を求められたのですが、そうしたものにはとんと無粋なので、何も気の利いたことはいえません。

    

 この店は実に多くの品揃えをしています。
 本格的な和紙から今様のデザインを施したもの、さらにはそれを使って作った工芸品や身の回りのものなど、実に多彩です。
 なかにはキッチュなものも結構あるのですが、和紙の肌触りやそのソフトな感覚からして、見ている段には結構楽しいものがあります。
 観光客らしい女性陣が「ねえ、これこれ」などとお互いに袖を引き合って見て回っていました。

              
                 これのみ、昨秋の行灯祭りの折のものです

 その後、アッシー代金に少し美味しいコーヒーをごちそうして貰って帰りました。
 ちょっと異次元へ出かけた感があったのですが、家を出てから帰るまで、わずか三時間ほどの小旅行でした。

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