*写真は内容と関係ありません。ある日の岐阜駅頭です。
自他共にその衰えを知ったり感じたりするのは人間だけだと思う。
人間だけが自分の生誕から死に至る過程、その間の生育の段階、最盛の時期、そして下降して衰弱してゆく流れの中で自分を意識し、またそれを他者においても見るのではないだろうか。
なぜだろうか。それは人間だけが物事を時間の相においてみるからだと思う。

動物は死なない、ただその生命を終えるのみだという。
同様に動物はその発育や最盛期、衰微の段階を知らないと思う。
ただその折、その折をあるがままに生きているのだろうと思う。
おそらく動物には過去・現在・未来もないのだろう。
いや現在はあるだろうと言われるかもしれない。
しかし、人間のそれのように過去や未来に挟まれた今としての現在ではない。
ようするに現在ともいえない刹那としての今があるのみなのではないだろうか。
もちろんこれは私の一方的な推論にすぎない。
しかし、もしそうだとしたら、人もそのように刹那的に生きられないものだろうか。
過去への未練や、将来への思い煩いから自由に、という意味でだ。

もうしばらくすると私にやってくることなのだが、ボケてしまえばそのようになれるのだろうか。
そうなった折でも、過去を引きずっていたり、あるいは未来への惨めったらしい望みを持っていたらやりきれない気がする。
しかし、そうなった折には、いま、私がこんなふうに考えていることすらどこかへいってしまっているのだろう。
ようするに、自意識をもつ者はそれが崩れることを恐れる。
しかしそれが崩れるということは、それを恐れる主体もなくなるということだ。
もっとも、自意識などは後天的に私のうちで内面化された外部にすぎないとしたら、そしてそれが欠陥動物としての人間のひとつの特徴にすぎないとしたら、その喪失自体は、生まれでた折の「まだ私ですらないもの」に戻るというだけのことだ。

ただしこれは、私が私として生きること、あるいは生きてきたことを否定しようとするのではない。人間の死は、そして衰えは避けられないものだろうが、しかし、そのために生まれてきたわけではないのだから、この世界を引っ掻いたり撫で回したりして、それとの間にひとときの交感をもつことが出来ればそれでいいのだと思っている。
というより、そうした自分をあくまでも慈しみたい。
だから、まだ変な自意識がある間に、にっこり笑って嘯いてみるのだ。
「これぞ我が人生! セ・ラ・ヴィ だ」 と。
これは諦観ではないから誤解しないでいただきたい。
逆に、絶対的な自己肯定なのだ。
な~んて、ちょっと格好つけ過ぎだな。
すっかり与太話になってしまった。
もう寝よっと。
自他共にその衰えを知ったり感じたりするのは人間だけだと思う。
人間だけが自分の生誕から死に至る過程、その間の生育の段階、最盛の時期、そして下降して衰弱してゆく流れの中で自分を意識し、またそれを他者においても見るのではないだろうか。
なぜだろうか。それは人間だけが物事を時間の相においてみるからだと思う。

動物は死なない、ただその生命を終えるのみだという。
同様に動物はその発育や最盛期、衰微の段階を知らないと思う。
ただその折、その折をあるがままに生きているのだろうと思う。
おそらく動物には過去・現在・未来もないのだろう。
いや現在はあるだろうと言われるかもしれない。
しかし、人間のそれのように過去や未来に挟まれた今としての現在ではない。
ようするに現在ともいえない刹那としての今があるのみなのではないだろうか。
もちろんこれは私の一方的な推論にすぎない。
しかし、もしそうだとしたら、人もそのように刹那的に生きられないものだろうか。
過去への未練や、将来への思い煩いから自由に、という意味でだ。

もうしばらくすると私にやってくることなのだが、ボケてしまえばそのようになれるのだろうか。
そうなった折でも、過去を引きずっていたり、あるいは未来への惨めったらしい望みを持っていたらやりきれない気がする。
しかし、そうなった折には、いま、私がこんなふうに考えていることすらどこかへいってしまっているのだろう。
ようするに、自意識をもつ者はそれが崩れることを恐れる。
しかしそれが崩れるということは、それを恐れる主体もなくなるということだ。
もっとも、自意識などは後天的に私のうちで内面化された外部にすぎないとしたら、そしてそれが欠陥動物としての人間のひとつの特徴にすぎないとしたら、その喪失自体は、生まれでた折の「まだ私ですらないもの」に戻るというだけのことだ。

ただしこれは、私が私として生きること、あるいは生きてきたことを否定しようとするのではない。人間の死は、そして衰えは避けられないものだろうが、しかし、そのために生まれてきたわけではないのだから、この世界を引っ掻いたり撫で回したりして、それとの間にひとときの交感をもつことが出来ればそれでいいのだと思っている。
というより、そうした自分をあくまでも慈しみたい。
だから、まだ変な自意識がある間に、にっこり笑って嘯いてみるのだ。
「これぞ我が人生! セ・ラ・ヴィ だ」 と。
これは諦観ではないから誤解しないでいただきたい。
逆に、絶対的な自己肯定なのだ。
な~んて、ちょっと格好つけ過ぎだな。
すっかり与太話になってしまった。
もう寝よっと。