久しぶりに映画館で映画を観た。
ひところ、一日に3本の映画をはしごし、年間70本以上を映画館で観たこともあったが、いまとなってはあの頃はまだまだ若かったなぁ、という詠嘆に繋がる思い出になってしまった。
観たのはショーン・ベイカー監督、マイキー・マディソン主演のロマンティック・コメディ(?)『アノーラ』。
新聞などのメディアの報道では、ニューヨークのストリップガールの物語となっているが、もろにセックスワーカーの話である。ほとんど全裸に近い衣装(?)の女性が待ち構える店へ
飲みに(?)来る男たち。
双方の話(=取引)がまとまれば、「特別室」で「こと」が行わせる。
アノーラはその店に出ているセックスワーカーである主人公の名前だが、通称はアニーで本人もそう自称している。
そこへ現れたのはロシアの大富豪(新興成金=オルガルヒ)のぐうたら息子・イヴァン。彼はたちまちアノーラの魅力にいかれ、早々と別室へ。そこで、個別の「取引き」が行われるのだが、それにとどまらず、イヴァンとの一週間の専属契約が締結されるに至る。
それ以降イヴァンは、新しいおもちゃに夢中になるように(事実ゲームにも夢中である)アノーラを求め、アノーラも取引きを継続し、より有利な状況をせしめるため、セックス三昧のシーンが続く。愛も恋もない取引きとしての行為をさんざん見せつけられる方はいささか食傷気味だ。
これは映画とは直接関係ないが、私のような年配者は、ものごころついて以来、半世紀にわたってロシアは社会主義の総本山ソヴィエト連合の要であり、プロレタリア革命の聖地を謳歌していたのを知っているだけに、そのロシアの大富豪のドラ息子がニューヨークの大邸宅に住まいをして、ドルを撒き散らして豪遊するなどという話には度肝を抜かれてしまう。
レーニンやトロツキー、スターリンがこれを観たら卒倒ぐらいでは済まないかも知れない。
イヴァンとアノーラは、その取り巻き連中と一緒にラスベガスに出かけ、そこでも湯水のごとくドルをばらまくのだが、ひょんなことで二人は小さな教会で結婚式を挙げてしまう。
これを境に、酒池肉林の世界だった画面がガラッと変わることとなる。
息子の放蕩三昧には目をつぶっていた両親が、「結婚」と聞いて俄然その解消に乗り出すのだ。彼のニューヨークの別邸には、両親の命を受けた3人の男たちがまずは二人を捕捉せんものと乗り込んでくる。
イヴァンはまさに脱兎のごとく逃走するが、アノーラはその声と全肉体を用いて激しく抵抗する。彼女の両足キックを受けた男の一人は、鼻の骨を折る負傷を負うほどだったが、多勢に無勢、羽交い締めにされて捕らえられてしまう。
そこから先は、逃げ出したイヴァンを探し出し、結婚解消のための措置を実施しようとする親たちの願望を実現するための移動が続く。いわばロードムービーの様相を呈する。捕らえられたアノーラは抵抗しながらも連中の探索行について行かざるを得ない。
その過程がいろいろあるのだが、結論を言えば結婚は解消され、アノーラはわずかばかりの手切れ金ともども、彼女の住まいへと送り返されることになる。
運転するのはアノーラを捕らえに来た三人組の一人、イゴール。到着するやイゴールは、アノーラに取り上げられたはずの結婚指輪を渡す。むろん結婚が復活するのではなくアノーラの手切れ金のプラスαとしてだ。
画面を思い起こしてみると、このイゴールはアノーラに対し、ことさら暴力的であったり侮蔑的な態度をとってはいない。アノーラもどこかでそれに気づいていたはずだ。生きるため下層でもがき続けなければならない相互の共通性のようなものがそこにはあるのだろうか。
アノーラは、車が着いても降りようとせず、戸惑う彼にのしかかってゆく。商品取引きとしてのそれではない情事。あれほど気丈だったアノーラが、イゴールの胸で始めて泣きじゃくる。
激しくなる雪。それを振り払う車のワイパーのメトロノームのような規則正しい音響を残して画面はフェイドアウト。
静かにエンドロールが流れ始める。
この映画、77回のカンヌでパルムドールをとり、97回アカデミーでは作品賞、監督賞、主演女優賞など5部門を受賞してる。
なるほど・・・・と思う一方、他にはなかったのという思いがかすめる。まあ、最近、あまり映画を観ていない人間のいうことでもないが。
【追記】ネオリベ的分断の中で、取引きとしてのみ人々の関係が結ばれるなか、その極限状況ともいえるもとで、ふとしたはずみでの情感の湧出のようなものが評価されたのだろうか。