昨日、不幸を感じる根源は「人と比べること」と「将来への不安」だと気がついた。
そして自分は子供に対していつもそのような言動を取ってきたことにも気がついた。
よその友達の話をしたり、「~~しないと、こうなっちゃうよ」もさんざ言ってきた。
そういう言葉の一つ一つが、今まで子供を不幸にしてきたのではないだろうか。
自分だって「誰それは30万給料をもらっているよ」「誰それは再婚してるのにお前はどうした」そんなことを何回も言われたら、しまいにはイヤミにも聞こえるだろうし、「~~しないとこうなっちゃうよ」については、「じゃあやって、そうならなかったらどうするの?え!アンタに責任取れるのかよ!」とでも言いたくなる。
自分が言われたら、たしかにものすごく憤りを感じる。
本人は懸命に生きてきた50年である。それを真っ向から否定されたような気持になる。
それと同じなのではないだろうか。
自分の子供ということと責任がごっちゃになって、ちゃんと意思を持って生きてきたひとりの人間であることを忘れていた。
自分の人生の責任をとれるのは、自分ひとりしかいないのである。
あと強いてあげるとしたら配偶者か。
親はどちみち先に死んでしまう。最後の責任は引き受けられないのだ。
親の言った通りにして失敗(餓死)しても責任は取れない。
だったら、選ぶ自由も本人にあるのではないだろうか。
同じ結果になっても、本人が選んだ人生なら悔いもないだろう。
五木寛之さんの本によると、今この国で年間に自殺する人の数は3万人を超えるという。
ベトナム戦争で死んだアメリカ軍の人数が5万人。
日本は2年間で自殺で死んだ人の数がそれを上回るのである。
つまり、たった1日で100人である。この小さな国の中だけで。
自殺と断定できず事故死になっているものや、未遂で終わっているものを含めると10倍ぐらいになるのでは?という。
毎日のように人身事故で遅れる電車。
何を悩んで、何に行き詰って命を急ぐのか。
そういう次元の話ではないのかな。
心の問題なのかな、お金の問題なのかな。
でもケイベツなんてできない。
今生きている自分が強いから、頑張ってるから、正しいからだなんて思うものか。
みんないっしょだよ。
もっとのんびり優しい世の中になれないのかな。
そんなことを考えながら家に帰る。
家に帰ってジャージ姿の息子を見るとまたまた不安になるが、もうそういうことは言わない。
少なくてもしばらくは。
何も言わなければこのままずーっとグータラしてる。
そう思い込んだら、赤の他人といっしょだ。
五木さんの本には書いてあった。
「信じる」ということは、裏切られてもいいと思って信じることなんだと。
そして自分は子供に対していつもそのような言動を取ってきたことにも気がついた。
よその友達の話をしたり、「~~しないと、こうなっちゃうよ」もさんざ言ってきた。
そういう言葉の一つ一つが、今まで子供を不幸にしてきたのではないだろうか。
自分だって「誰それは30万給料をもらっているよ」「誰それは再婚してるのにお前はどうした」そんなことを何回も言われたら、しまいにはイヤミにも聞こえるだろうし、「~~しないとこうなっちゃうよ」については、「じゃあやって、そうならなかったらどうするの?え!アンタに責任取れるのかよ!」とでも言いたくなる。
自分が言われたら、たしかにものすごく憤りを感じる。
本人は懸命に生きてきた50年である。それを真っ向から否定されたような気持になる。
それと同じなのではないだろうか。
自分の子供ということと責任がごっちゃになって、ちゃんと意思を持って生きてきたひとりの人間であることを忘れていた。
自分の人生の責任をとれるのは、自分ひとりしかいないのである。
あと強いてあげるとしたら配偶者か。
親はどちみち先に死んでしまう。最後の責任は引き受けられないのだ。
親の言った通りにして失敗(餓死)しても責任は取れない。
だったら、選ぶ自由も本人にあるのではないだろうか。
同じ結果になっても、本人が選んだ人生なら悔いもないだろう。
五木寛之さんの本によると、今この国で年間に自殺する人の数は3万人を超えるという。
ベトナム戦争で死んだアメリカ軍の人数が5万人。
日本は2年間で自殺で死んだ人の数がそれを上回るのである。
つまり、たった1日で100人である。この小さな国の中だけで。
自殺と断定できず事故死になっているものや、未遂で終わっているものを含めると10倍ぐらいになるのでは?という。
毎日のように人身事故で遅れる電車。
何を悩んで、何に行き詰って命を急ぐのか。
そういう次元の話ではないのかな。
心の問題なのかな、お金の問題なのかな。
でもケイベツなんてできない。
今生きている自分が強いから、頑張ってるから、正しいからだなんて思うものか。
みんないっしょだよ。
もっとのんびり優しい世の中になれないのかな。
そんなことを考えながら家に帰る。
家に帰ってジャージ姿の息子を見るとまたまた不安になるが、もうそういうことは言わない。
少なくてもしばらくは。
何も言わなければこのままずーっとグータラしてる。
そう思い込んだら、赤の他人といっしょだ。
五木さんの本には書いてあった。
「信じる」ということは、裏切られてもいいと思って信じることなんだと。
凄いです。裏切られてもいいから
信じる心。見返りを求めない心。
それが一番大事ですよね・・。
私も見習いたいです!!
どうしても見返りを求める
器量の狭いじぶんを変えなきゃと思いました。
気づかせてくださって、
誠に有難うございます!!
週末、ごゆっくりおやすみくださいませ~。・。・^^!
自分はその羨ましい相手と変われないのだし、その人はその人で別の悩みがあるかもしれない。
目に見えないたいへんな努力もしてきたはずと思えば良いのではないかと思います。
自分は自分と。
でも、自分のブログでこう書いておけば、だんだん近づくようになると思って書いてみます。
「信じるとは裏切られてもいいと覚悟すること」
親鸞さんの、師匠の法然上人さんへの気持がこちらだったそうです。(呼び方がこれでいいかどうか失礼でしたらすみません。)
裏切られてブーブー怒っているのは、見返りを求めていると言うことなんですね。この言葉を20年早く知っていたら私も離婚することはなかったかもしれません。
まだまだ未熟ものだけど、なるべくこの境地を目指したいと思い、図々しく文章にしてみました。
私はすぐ妬んだり、すねたりしやすいんですよ。
人と比べて自分の努力につなげるならともかく、子供を比べて、自分の子供を叱咤する・・・それはあるまじきことだと反省しました。
環境や、家族が「こう変わってくれたら・・・」と求めるより、今ある環境でいかに満足感を引き出せるように考えた方が充実するような気がしてきました。
「自分は自分」って考えればいいんですよね。^^
すばらしいことばがあります。
「葡萄水」という短編童話の一節に、こんなことばがあります。
「あっと、これは失礼、青部だうさん、ごめんなさい・・・・
宝石は宝石です。青い葡萄は青い葡萄です。
それをくらべたりなんかして全く私がいけないのです。」
いかがでしょう。
賢治の書いていることと同じことを書いておりますね。
なお、著作権上引用は一部旧字に致しました。
Masao.ISHIGOOKA
「あっと、これは失礼、青ぶだうさん・・・・・」
と訂正します。原作は旧字体で書かれておりますから
勝手に直して引用することは著作権に触れますので
青ぶだうさん と表記するのが正しいのです。
Masao.ISHIGOOKA
あちこちで耳にします。童話と言っても大人用の童話というか、引用される言葉が多いと言うか。
この1~2年はいろんなことで悩みもしましたが、同時に勉強もさせてもらいました。(^o^)
悩みと成長は裏と表のように重なっているものなのかもしれません。人と比べないことは、あるがままの自分を受け入れる良いレッスンになっていくような気がします。