「何もしないでダラ~ンと過ごすぞ」と決めた3連休の最初はまず寝っ転がって本を読んだ。
「今日も一歩も外に出なかったけどいい一日だった。」/なおにゃんさん著
イラストもふんわりしてるし、軽いノリで読んでみたが、(良い意味で)考えさせられることが多くて愕然とした・・・。というのも、私自身の10代20代がこの本の著者さんとそっくりだった。
すごく傷つきやすくて、自分の悪口なんかを知ったりしたらショックで1週間ぐらい立ち直れなかった。自己肯定がすごく低いくせにやたらプライドが高いので、不満ばかり持っていた。「謙遜ばかりしているクセ」とか、本当にその通りだった。
20代の頃勤めていた会社は今に比べると全然条件もよく安定していて、「何故あそこから踏み外れてしまったのだろう」と時々思う。だがしかし、それでも当時の私はその職場がしんどくて、早く辞めたいと思っていた。何がそんなに辛かったのかは、仕事というよりも(そりゃやる気がないから仕事もできないけれども)、周りにいる人の言葉やちょっとした態度が自分の心に突き刺さるのであった。
ならばそんなにひどい人間関係だったのかと言われると、そんなことはなく、むしろ今よりも多くの人からは良くされていて辞める時に部長に「社内で一番人気者だった」と言わしめた程だった(お世辞かもしれないが)。。何があんなに辛かったのか良くわからないが、ある日電車に乗りながら涙を流して、男性から声を掛けられたことがあった。(結局それに乗らなかったのでナンパか何かの勧誘かは良く分からず)
声を掛けられたのはその時だけだったけれど、年中そんな毎日だった。
そして今の私は誰が見ても都落ちのような状況になっている。(今の状況を「都落ち」と言うのは今の周りの人に申し訳ないがそれが一番わかりやすい表現なので採用)ところがどっこい、この本を読んで「まてよ?」と私は思った。
あのまま当時の会社で働き続けていたら、私はこの著者さんのように「うつ病」になっていたかもしれない。周りとか環境ではなく、自分の心が感じやすく、傷つきやすく、些細なことで大きく心が震えるから。。。。
当時の私は頑なに「謙遜は美徳」だと思っていた。自分は相手の気持ちを汲み取らず自分の気持ちだけでガーガー言うような人間にはなるまいと心に誓っていた。だからいつも強く出れなくて「ごめんなさい」「すみません」と言っていた。それでいつも相手から舐めきられてコバカにされ、いつも大切にされなかった。そして「誰からも大切にされていない」といつも思っていた。
だが、待てよ?
私の中の「大切にする」と言う概念が、世間一般とズレているのかもしれない。
というのは、この本によるとそういう「感受性や刺激を感じやすい人」と言うのはHSPと言う言葉があり、世間一般とズレがあるようなのだ。今まで「自分だったらこういうことを言われると傷つくから、そんなことは言わない」とか「どうしてそんな相手が傷つくような言い方をするのだろう?もっと気を遣えばいいのに。」と言う場面が、度々あった。
でもそもそも、彼ら(例えばHSPではない人々)は、「自分がそう言われても傷つかないから、平気で誰にでもそう言える」のかもしれない。私は「誰からも大切にされないし」と言うけれど、そもそも彼らは「誰も大切に」はしていないのかもしれない。(何を持って相手を大切にしているかは、その人その人によって基準も違うだろう。例えば食事を奢ることが相手を大切にしていると考える人もいるだろう。)
それに気がついて、この本を読んで愕然としたのである。
今まで私は「私の気持を想像しない(大切にしてない)から、こういう言い方ができるんだ」と思ってきたけれど、もともとそういう想像ができない人にとっては、それってハードルが高いことだったのかもしれない。それを「どうしてそんな言い方ができるの??」と考えて「私は大切になんてされてない」と思えば、そりゃいろんな人間関係が破綻するはずである。
「自分は誰からも大切にされていない」のではなく、世間一般に「そんなに他人に気遣いをしていない」のではなかろうか。。。。
自分が勝手に感じやすく、人の顔色ばかりをうかがい、勝手に解釈し、時に振り回され疲弊しているだけだったのだ。それはすなわち自分がHSPだったから・・・・(か、どうかは分からないけれど、そう解釈するとここでは全て解決。)
それでHSPで検索したら、「光や音の刺激を感じやすい」と言うのがあって、これも本当にその通りで今、会社でもブラインドの争奪戦をしている。というのは、私は窓の向こうの車の窓ガラスの光の反射が目に飛び込むのが嫌いで、10時過ぎるとなるべくブラインドを閉めるのだけど、明るいのが好きな人が戻ってきてすぐブラインドを開けるのだ。私は内心「そんなの嫌がる人に合わせればいいのに・・暗くたって仕事はできるんだから」と思っているけれど、そういう刺激が分からない人にしてみれば理解できない・・・(一度思い切って口に出して伝えたけれど変わらず・・・)
いろいろ書いてしまったけれど、結局今自分が30年近くも働いていられたのは、この環境(ブラインドとかエアコンの温度とかある程度自分で動かせる)が幸いしているのだろう。大きな会社で大勢の人や後輩が生まれ、ましてや気の利く女の人が何人もいるような環境で自分が果たしてストレスなく働けただろうか・・・。
そう考えると、運に恵まれうまく収まるべき場所で働かせていただいているのかもしれない。
そして、最後には「結局この人生でよかったんだ、kekeと巡り合えたから。」と言う結論で終わる。(子供がいるということは、その最強の切り札がいつでも使えることでもある。)
本とはかけ離れてしまうけれど、最近「親ガチャ」なる言葉がある。我が家でも息子の口から何度も出てきている言葉である。我が家は親ガチャでハズレらしい。
そんな私が言うと言い訳がましいけれど、そういう人は親ガチャに外れた分、違うツキを持っていて、それがこの後の人生のどこかで出てくるように思えて仕方ない。というのは、私の知り合いで借金で首が回らなくなり最終的には自己破産に至る・・と言う人がいる。
私は何を持ってもこういう人生だけは歩みたくないと思っていた。だがある日、そのような「この人だけにはなりたくない人」でさえ、奥様がいることに気がついた。それも離婚もしてないし家庭内離婚もしていないようで普通に暮らしている。自分が「これだけはなりたくない」と思う人でさえも、自分には居ない生涯連れあうパートナーがいるのである。もしかしたら彼らこそ私のような寂しい人生は送りたくないと考えているかもしれない。
つまり、どっちが上か下かなんて言えないのだ。今のところ生活保護なる制度もあるし、ある意味お金の心配より、夫婦や友人関係を豊かにするほうが「恵まれた人生」とも言える。(私は人間関係が苦手なのでお金の方を優先するけどね。)
「親ガチャに外れた分、違うツキがあるのでは?」と考えるのは、世代でも人でも、とことん運に見放されている世代や人を見たことがないから。私の両親は子供時代戦争で大変だったけれど、その後の好景気で中年~晩年は恵まれて暮らせた。私らの時代は若い頃までは良かったが、今や国も傾いてどんどん税金で吸い取られつつある。もっと若い人たちは更に待遇でも苦労をしている分、そのうちどこかの時代から恵まれてくる運を持っているのではなかろうか・・・と思うんだけど。
今まで巡り合った人達で、中には稀に非の打ち所も無い良き人生を歩いているような人もいるけれど、本当に気の毒すぎる人はいなくて、誰だって何かしら恵まれたツキを持って、ほとんどの人は、手に入らなかった部分と、恵まれた部分と両方を合わせ持っているように見えるから。
ちなみにこの表題の本によると、HSPの人は「直観力が優れていると言われている」そうである。
だから、やがてこの国はまた良くなってくる。今の若い人が喜べる時代がこの後どこかで来るのではないか・・・・・と思うのだけど。。。それともまだ私は本当のどん底の時代を知らないだけなのだろうか。。。。(前者であると思いたい)
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