細川忠利が家臣に送った手紙の写し。石垣や建物の倒壊に対する恐怖を書いている=熊本県立美術館提供
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細川家初代熊本藩主の細川忠利(1586~1641)が1633(寛永10)年ごろに起きた大きな地震と余震を恐れ、熊本城(熊本市中央区)の本丸から、城の南側の邸宅「花畑屋敷」に生活や公務の拠点を移していたことが、熊本大の調査で分かった。
昨年4月の熊本地震後、細川藩の文献を研究している文学部付属永青文庫研究センターが江戸時代の文献などを調査して判明した。稲葉継陽センター長は「熊本地震の被災者と同じように、忠利もたび重なる余震によほど恐怖を覚えたのだろう」とみている。
同センターが江戸初期の資料約1万点を読み込むと、忠利の手紙に地震に関する記述が多いことが分かった。1633年5月、忠利が江戸にいる家臣に宛てた手紙に「本丸は逃げ場となる庭もなく、高い石垣や櫓(やぐら)、天守閣に囲まれて危なくていられない」という趣旨の記述を確認。他藩の大名に「たびたび地震で揺れるので本丸にはいられず、城下の広い花畑屋敷に住んでいる」と書き送っていたことも分かった。細川家の関係古文書によると、1633年3月~5月にたびたび地震が発生したとされる。稲葉センター長は「忠利が地震を強く警戒していることがうかがえる」と指摘する。江戸初期は災害が多く、被害を受けた熊本城の修復に追われていた記録もあった。
同センターは熊本県立美術館(熊本市中央区)と共催で、熊本地震の前震1年を迎える14日から展覧会を同美術館で開き、忠利が地震を恐れて書いた手紙などを初公開する。
=2017/04/11付 西日本新聞朝刊=
4月14日(金)~5月21日(日)
歴史にみる地震の爪あとと、復興を目指す人々のあゆみ