津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■明日(?)の地震

2017-05-12 12:11:38 | 熊本地震

昨日の晩(20:20)震度4の地震があり、今日も今程(11:50)震度2の地震があった。
実は5月13日に福岡市や北九州市あたりで大規模な地震が発生すると予知をしている地震学者がいる。
立命館大学・歴史都市防災研究所の高橋学という教授だが、この方が何度か予知したものが的中しているという。
         http://www.jprime.jp/articles/-/9635
大変難しいといわれる予知情報を積極的に発しておられる。
13日といえば明日のことなのだが、福岡県人の皆様はどう思っておられるのか。
用心するに越したことはないが。

昨日今日の熊本の地震との関連をどう評価されるのか、今後のコメントが興味深い。
少々の揺れには慣れっこになっているが、昨晩は棚の物が倒れてちょっとびっくりしてしまった。

 

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■ちょっと古い記事ですが

2017-04-21 11:42:45 | 熊本地震

熊本藩主、地震恐れ転居 江戸初期の手紙「揺れる本丸にいられず」

細川忠利が家臣に送った手紙の写し。石垣や建物の倒壊に対する恐怖を書いている=熊本県立美術館提供
細川忠利が家臣に送った手紙の写し。石垣や建物の倒壊に対する恐怖を書いている=熊本県立美術館提供写真を見る
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 細川家初代熊本藩主の細川忠利(1586~1641)が1633(寛永10)年ごろに起きた大きな地震と余震を恐れ、熊本城(熊本市中央区)の本丸から、城の南側の邸宅「花畑屋敷」に生活や公務の拠点を移していたことが、熊本大の調査で分かった。

 昨年4月の熊本地震後、細川藩の文献を研究している文学部付属永青文庫研究センターが江戸時代の文献などを調査して判明した。稲葉継陽センター長は「熊本地震の被災者と同じように、忠利もたび重なる余震によほど恐怖を覚えたのだろう」とみている。

 同センターが江戸初期の資料約1万点を読み込むと、忠利の手紙に地震に関する記述が多いことが分かった。1633年5月、忠利が江戸にいる家臣に宛てた手紙に「本丸は逃げ場となる庭もなく、高い石垣や櫓(やぐら)、天守閣に囲まれて危なくていられない」という趣旨の記述を確認。他藩の大名に「たびたび地震で揺れるので本丸にはいられず、城下の広い花畑屋敷に住んでいる」と書き送っていたことも分かった。細川家の関係古文書によると、1633年3月~5月にたびたび地震が発生したとされる。稲葉センター長は「忠利が地震を強く警戒していることがうかがえる」と指摘する。江戸初期は災害が多く、被害を受けた熊本城の修復に追われていた記録もあった。

 同センターは熊本県立美術館(熊本市中央区)と共催で、熊本地震の前震1年を迎える14日から展覧会を同美術館で開き、忠利が地震を恐れて書いた手紙などを初公開する。

=2017/04/11付 西日本新聞朝刊=

震災と復興のメモリー展ポスター
細川コレクション展 細川コレクション展示室
4月14日(金)~5月21日(日)
歴史にみる地震の爪あとと、復興を目指す人々のあゆみ
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■大名の文化生活‐細川家三代を中心として(四)

2017-04-16 10:12:33 | 熊本地震

 南蛮趣味 忠興の妻明智氏は、キリシタン史上に有名なガラシャ夫人である。彼女のキリシタン改宗は天正十五年(1587)忠興の九州出陣中のことと伝えられるが、帰陣した忠興は入信に強く反対したといわれる。明智氏の入信には、忠興の弟興元(茂木細川家の祖)が一時キリシタンであったことが影響しているというが、このような環境の中にあって忠興自身はついにキリシタン信仰にははいらなかった。しかし禁教令のまだゆるやかな段階では、家臣団中にもキリシタン武士はいたようである。その多くは幕府の禁教令の強化とともに忠興・忠利が棄教を命じたのに従ってキリシタンから離れたと思われる。しかし中にはあくまでも信仰を棄てずに、殉教した者もあった。忠興が諱の一字を与えたほど重用した加賀山隼人正興長良はその例で、元和五年(1619)妻子一族と共に小倉で処刑されている。
 キリシタン信仰に伴って渡来したいわゆる南蛮風俗は、信仰と離れて当時の一つの流行であった。これには忠興も強い興味をもち、種々の珍奇な品物を入手して使用していたようである。具体的な使用法などについては微証を欠くけれども、忠利と取り交わした書状中には「南蛮のねどこ」「南蛮の鏡」「南蛮手拭」「南蛮の料理」「南蛮の酒」「南蛮の漬物」「南蛮の笛」「南蛮の花の種」などの文字が散見するし、ビロードの陣羽織や、「かるさん」なども着用していた。手紙の様子では、忠利もこれらのものを使用しており、両者の間で融通しあっていたように思われる。
細川家の南蛮趣味で特に目につくものの一つに、ローマ字印の使用がある。ローマ字印は大友・黒田その他の大名に使用例が知られており、それ自体はとくに珍しいものではないが、細川家では忠興・忠利・光尚の三代が揃って使用しているほか、家中の重臣層の中にまでその風が広がり、ローマ字印の使用者がいた。忠興は眼病のそこひを患っていたので時々視力が悪くなることがあり、書状などに花押を署するのに都合が悪いときこのローマ字印を押捺したことなどが用例上判っているが、忠利などは決裁する書類や帳簿に一面に押印して了承の証としたものが多数残存している。また藩の重臣層が下僚の伺にたいして合議決裁を下した場合、その決済の各条に承認の印を連印している中に、細川藩筆頭家老の松井興長や小笠原長元らのローマ字印が使用されているのも珍しい例であろう。ローマ字印の使用された期間が、他家の場合何時頃までであるのか今知識がないが、一般的には禁教の強化と共に早く使用を避けたのではないかと思われる。しかし細川家の場合は寛永年間を通じてその使用が続けられているし、その使用が最終的に停止されたのは慶安元年(1646)六月になってからのことであった。すなわち、この月家老の長岡佐渡(松井興長)が国許家老へ宛てた書状中に、藩主光尚がそれまで使用していた南蛮字の印判の使用を止めたので、自分仕様の南蛮字印判も当月十一日限りで改替する旨を告げ、「其元之衆何れも南蛮字之印判之分は御替候様に承候」と、光尚の意向によってローマ字印の使用を止めるよう指示した。おそらくは、細川家のローマ字印廃止は最も遅かったのではあるまいか。

                   参考:熊本大学学術リポジトリ「細川家のローマ字印」 

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■熊本地震1周年

2017-04-16 09:07:14 | 熊本地震

 昨晩から一年前のブログを読んでいる。車中泊のつらさや度重なる余震、重労働の水運び、給食の配布に並んだことなど走馬灯のように浮かんでくる。一日も欠かさずよく書き残したと思っている。
全国の皆様から思いがけない励ましのお言葉や、救援物資などもお送りいただいた。改めて深く感謝申し上げたい。
ようやく熊本城天守閣の復旧工事に手がついた。天守閣の完成までは何とか元気でいたいものだ。
石垣は復旧までは20年かかるとも言われている。数万個の石を元の位置に戻すというのだから気の遠くなる作業である。

しばらく静かであった余震が、この時期になって小さいながら集中して起こっている。
まだこわれていない断層があるとかで、5~6クラスの余震の可能性があると伝えられている。
もう本当に願い下げにしてほしい。
鎮魂の日は良いお天気になった。外では幼い子供たちが元気な声を上げて走り回っている。安らかな毎日が続くよう願わずにはいられない。
 

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■熊本地震一周年『熊本明治震災日記』を読もう

2017-04-15 06:22:36 | 熊本地震

熊本地震から1年、被災した私たちはいろいろな教訓を得た。まだ完全な終息は見えないが、またいつ来るかもしれない震災に備え、教訓を無駄なく後世へ伝えなければならない。明治22年7月22日に発生した熊本明治地震も、大きな被害をもたらしていたにもかかわらず、我々はまったく知識としていなかった。熊本都市政策研究所は、大西市長の発案により今般水島貫之が記した「熊本明治震災日記」を発刊された。
まさに時をえたものである。1周年を迎えるこの時期、改めて127年前の惨事について勉強し記憶にとどめるべきであろう。
出版にあたっての熊本都市政策研究所のHPからその内容についてご紹介する。 

【現代語訳】『熊本明治震災日記』の刊行について

【現代語訳】熊本明治震災日記
 
   都市政策研究所では、このたび「平成28年熊本地震」に係る調査研究の一環として、明治熊本地震に関する詳細な記録である『熊本明治震災日記』(水島貫之著・明治22年発行)の現代語訳版を刊行しました。
『熊本明治震災日記』は、明治22年7月28日に発生した明治熊本地震に関して、当時の様々な被害状況、行政機関や被災した市民の動向等が克明に記録されたものです。日記では、現代の私たちが体験した震災時の状況と相通じるものが読み取れ、過去の地震の記憶を後世へ受け継いでいくと同時に、今後の防災・減災対策につながるものと考えています。
過去の災害を後世へ伝える資料として多くの方に手にとっていただき、ご一読いただければ幸いです。
 

【現代語訳】『熊本明治震災日記』の内容

 1 『熊本明治震災日記』とは

『熊本明治震災日記』は、白川新聞(後の熊本新聞)の創始者で熊本県近代文化功労者である水島貫之(みずしま かんし)によって、地震直後の明治22年10月に、自身が設立した印刷会社である活版舎より発行されています。

構成は、序・緒言のあと、地震発生日である明治22年7月28日から8月31日までの35日間にわたる日記が書かれ、そのあとに「震災日記逸事」として日を追っての日記の中で触れることができなかった新聞記事の抜粋が収められ、最後に東京から赴いた地震学者・研究者が県庁等に寄せた学術的な報告資料が収録されています。
この日記では、地震の被害状況や県庁・市役所・警察署といった行政機関の地震への対応をはじめ、恐怖心から屋外で夜を明かしたことなど震災時の市民の動き、その後の余震での混乱、デマ・流言に翻弄される市街の状況と、その混乱が市民への情報提供によって収まっていく様子などが記されています。

 2 現代語訳にあたって

日記の現代語訳にあたっては、原文の文意や雰囲気を損なわない現代語文になるように留意したほか、必要に応じて脚注を加えています。その上で、小見出しを設けて時系列で関心のある事項を探すことができるようにしたほか、目次と索引を加え、さらに多くの地名が登場することから、当時の熊本市街と熊本県の地図を収録するなど、読みやすく親しめるよう工夫しました。

販売のお知らせ   都市政策研究所 TEL:096-328-2784 FAX:096-326-8954 
                                                     toshiseisakukenkyusho@city.kumamoto.lg.jpメール                 

   【販売開始】 平成29年1月4日(水) より

   【販売場所】 熊本市役所本庁舎地下売店
   【販売金額】 1部 1,000円

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■定彦さんのこと、謎解き

2017-04-13 08:43:19 | 熊本地震

 

 朽木家は細川幽齋の兄・三淵藤英の五男を祖とする。七代昭恒は養子で、実は郡織衛眞峯(四代)の四男である。
昭恒の継嗣(八代)は昭久、これは松井家八代の営之の末子である。昭恒にはいま一人の養子・昭信があったがこの人物は宇土細川家六代・興文の末子なのだが病身であり、実家に帰っている。その曾孫興麿が朽木家に12代として入っている。
「肥後藩主要系図」では見えないが、昭恒には定彦なる男子がいた。八代昭久は養父の子である義弟。定彦を順養子としたいと考えいろいろと根回しをしている。ところが何故か本人がうんと言わない。
結果として定彦はこの話にはのらず、細川刑部家の分家筋に養子に入っている。
これらの経緯を記す文書が数点ヤフオクに出品され、何度かコメントしてきた。
昨晩定彦自身の書状だと思われる文書をヤフオクで落札した。これですべての経緯が判明するとは思えないが、細川家に連なる高禄武家の家を継承する複雑なありようが垣間見えて大変興味深いものがあった。一点だけ競り負けて入手できなかったが、四点ほどが手元にある。
詳しく読み解くには少々時間がかかりそうだが、完読したいとおもっている。
悪友に言わせると「それが何だ・・・」ということになるのだが。 

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■勘弁して~

2017-04-12 07:22:23 | 熊本地震

 9日の晩の震度3以来昨日・今日と震度2・1の地震が4回起きている。
今朝も3時過ぎにぐらりときた。地震があるとしばらく寝付けないのがこまる。
あの大地震からそろそろ一年、もう終息だろうと思ってきた矢先で少々不安が募る。

         4月12日03時27分頃 熊本県熊本地方 M3.0 震度2
         4月11日21時26分頃   同上    M2.1 震度1
         4月11日14時56分頃   同上    M2.6 震度1
         4月11日06時31分頃   同上    M3.4 震度2 







  

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■久々の地震~~~~

2017-04-09 21:41:43 | 熊本地震

 21時39分ごろ久々の地震、奥方が大声上げ、私は本棚の本が飛び出すのではないかと身構えました。
すぐにTVにテロップが流れ、震源は熊本、震度は3、周辺県市町村に及ぶ広範囲のようです。
あと数日で熊本地震から一年、まだ安心できぬことを実感させられます。

 

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■赤頭

2017-04-05 06:59:53 | 熊本地震

                        

 四ヶ月ほど前、わが史談会に新しい会員M氏をお迎えした。肥後金春流中村家のご当主からのご紹介での入会である。
中村様は史談会の創設者であり、長い間その運営に携わってこられたが数年前不肖私が事務局を受け継いだ。
いつも史談会の事を思っていただきただただ感謝である。
M氏は祇園宮(北岡神社)の能楽師・友枝家のご子孫の御一人らしく、由緒を記す文書があって読み下しの依頼を受けた。
友枝家は喜多流のシテ方職分として名を成されたが、その友枝家の近世の一時期を窺い知る貴重な文書であった。

    友枝家の能 

話は変わるが、私が興味を持っている朽木家の定彦氏の順養子に係る文書が次々にヤフオクに出品されて悩ましい限り出る。
関係する人物の一人に松井家分家(古城家)の典礼なる人がある。
文久二年のことだが祇園社では奉納能が催されることが決まり、友枝小膳なる人物が「石橋」を演じることとなった。小膳は江戸の喜多流宗家に出かけて数か月修行に励んで相伝を受けて帰国した。
前年細川家龍之口邸においては藩主(韶邦)が中将任官の御祝能が催され、喜多六平太が「石橋」を勤めたという。
その折用いた「赤頭」を松井典礼が拝領した。
そこで友枝小膳は松井家に対して「赤頭」の借用を願い出た。ところが松井家は「何か小膳が松井家に対し心得違いの儀があった」としてなかなか貸してくれない。後援者が再三松井家を訪れ懇願したがこれも徒労に終わった。友枝善右衛門等同門の人たちが同道して改めて借用のお願いをした。典礼は「小膳へは遣わす事罷成らぬが貴所等へなら進上致す」との返答で進物として拝領したという。
祇園宮の奉納能における小膳の舞は見事なものであったという。
後に関係者が改めて返礼のため松井家を訪れたことは言うまでもない。(出典:熊本御城下の町人 「赤頭のもつれ」から)

尚、韶邦の中将任官は万延元年であり、引用文との齟齬が見受けられる。
松井家と友枝家の関係はその後も友好的であったことが 友枝家の資料からうかがえる。


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■スーパーオープン

2017-03-22 09:37:20 | 熊本地震

 熊本地震から1ヶ月後、奥方が奔走して現在のMに転居した。
すぐ近所にスーパがあり大した建物被害も見受けられず、一月もすれば開店するだろうと勝手な憶測をしていた。しかしいつまでたってもその気配がない。
日頃の生活は元に戻りつつある中、毎日の奥方の買い物が大変で、アシスト自転車を駆って数キロ先のスーパーへ出かけていた。
どうやら経営者が変わったらしく、大改修工事が始まったのはようやく今年に入ってからである。
建物の内外装、波打っている駐車場の舗装のうち変え、看板などの設置なども終わって、ようやく今日がオープンとなった。
我が家から約300mほどの距離、まことにありがたい次第である。
私自身はあまり出かけることはないのだが、オープンの賑わいが収まったころ、ちょっと覗いてみようと思う。
県道沿いの立地で且ては賑わっていたお店である。周辺に活気が戻ってくることだろう。
11ヶ月余にしてようやく奥方の苦労が和らぐことになる。 

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■九州の小笠原(秀政)一族

2017-03-14 09:28:45 | 熊本地震

昨日は■この監物殿は誰?で細川家家臣の溝口氏に少々触れた。小笠原秀政の男子だが家臣溝口氏の養子になった。

小笠原秀政と嫡男・忠脩は共に戦死したため二男・忠真が一族の長となり細川氏が肥後へ転封の後、そのあとの豊前小倉藩(15万石)主となった。
忠脩の子・長次は中津藩初代(8万石→4万石)に任ぜられ、忠真の次弟・忠知が杵築藩主(4万石)となった。その後三河吉田藩・岩槻藩・遠州掛川藩・陸奥棚倉藩・肥前唐津藩と転封が続いて苦労している。徳川幕府の老中を務め、長州戦争に於いて将軍家茂の死の報を聞き戦場を離脱した小笠原長行は最後の唐津藩主である。細川藩士小笠原家は忠知の孫・長賢を初代とする。
一族に松平姓(能美氏)を名乗る忠重は忠真の三弟、嫡子・英親が杵築藩主(32千石)となった。(伯父・忠知が三河吉田に転封後)

秀政の女婿・細川忠利に加え、小笠原一族が、小倉・中津・唐津・杵築の九州各地を納めていたことになる。

季節柄「桜田門外の変」について勉強しているが、事件の一部始終を目撃したのが現在の警視庁に屋敷があった杵築藩の藩士達である。
その目撃談は事件の三日後江戸を発して国元に急使が走った。事件のあった三日を含め三日間の情報はまことに正確である。
先に触れた井伊直弼の実弟延岡藩主(7万石)内藤義政へ発せられた一報は、情報収集もままならない中江戸を発し、「直弼存命」の誤った情報が届けられたという。

当時の杵築藩主は松平親良である。幕府において寺社奉行を務めており、延岡藩からの問い合わせにも正確な情報は秘されたのであろう。
徳川家外戚として九州の要となった小笠原一族である。 

       小笠原一族略系図 http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/310f28ef8292d21ea30ac14c3cc22939

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■内藤様

2017-03-11 13:15:14 | 熊本地震

 私の奥方の里は宮崎県延岡市、今は大企業・旭化成の城下町だがかっては内藤七万石の城下町であった。
市役所の西方にお城があり、勇壮な石垣が残されている。
岳父が亡くなってから足が遠のいてしまったが、お墓参りもかねてお城を訪ねてみたいと思っている。
熊本から約120キロあるので3時間を要する。この歳になると少々応える距離ではある。

幕末の藩主・内藤政義はあの井伊直弼の実弟だが、先代藩主・政順の夫人が井伊直弼・政義の長姉である。実姉であるとともに養母という関係である。
その故を以て養継嗣となり延岡藩内藤家七代藩主となった。
万延元年三月三日の「桜田門外の変」に於いては、当日が上巳の日であり内藤家の江戸留守居が挨拶のために彦根藩邸を訪れるが、まさに事件勃発の直後であったらしい。固く閉じられた門前で案内を乞うが、直弼公実弟の内藤家の訪問にもかかわらず、正確な情報は伝えられなかった。その江戸留守居は情報収集に走り回って藩邸に駆け戻る。
すぐさま国元へ急使が立てられた。10数日をかけて届けられた内容はとんでもない間違いであった。
「直弼公は存命されている、首を取られたのは藩士のものである。」直弼公の死はあくまで伏せられ、内藤藩江戸屋敷の実姉である内藤政順夫人また国元にある実弟政義公といえども真実は伏せられたのである。真実は後日再度の急使によって伝えられた。

延岡城は桜がきれいな所である。政義公が真の情報を得られたころは正に桜が咲き、風に花びらが舞っていたころであろう。
無念の思いを噛みしめて、桜を眺められたことであろう。
 

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◼️読書三昧

2017-02-21 17:08:07 | 熊本地震

ノートpcの不具合で仕方なくipadを使っているが不便この上ない。いきおいpcから離れての生活が数日続いている。古文書を読むのも、タイピングを並行しているから、pcが使えないとなると、こちらもお休みと相成る。それ故買い入れたまままだ読んでいない本をこの際一気に読んでしまおうと取り掛かっている。

    渡辺京二✖️津田塾大学三砂ちづるゼミ    「女子学生、渡辺京二に会いに行く」

    浅田秀子   「敬語で解く日本の平等・不平等」

    舞鶴古文書の会    「福岡藩家老 黒田播磨(薄整)日記」

    菊池市教育委員会   「菊池の松囃子」

    熊本市都市政策研究所    「熊本明治震災日記」

その他故高田泰史先生の遺品、熊本市教育委員会発行の「熊本市北部地区文化財調査報告書」などである。これらを完読する頃には、pcも届いていることでしよう。メールが沢山たまっている事だろうが、こ返事は少々お待ち下さい。

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◼️西南戦争勃発す

2017-02-20 14:23:34 | 熊本地震

今日の熊本は、昨日とは打って変わっての雨天となり、一時期は凄い風にもみまわれた。TVに写る瓦がはげた熊本城が雨にうたれて痛々しい。よくよく考えると明治10年の2月19日に熊本城は焼失してしまつたのだ。城下の人々の喪失感は如何ばかりであったろうか。現在では放火説が支持されているが、射界の清掃と称して城下町にも火が放たれ一面の焼野原となつた。細川家には事前に通告が為されたらしく、三人の姫君は慌ただしく避難のために立田邸に逃れられた。長い逃避行を経験されるか、この事には何度か触れたのでここでは省略する。

地震で壊れたお城を見上げるとき、熊本市民は一様に嘆息し涙するのである。西南戦争の前、御一新後の実学党政権はこのお城の解体を決定している。さすがに実行される事は無かったが、もし実行されていたら市民の嘆きは如何許りてあったろうかと、察するに余りある。幾多の試練を乗り越え、またお城の雄姿を仰ぎ見て深い絆を更に深めていつたのだろう。全国の皆様のさらなるお力添えを心からお願い申し上げたい。

 

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◼️寛永二十年

2017-02-19 16:26:30 | 熊本地震

寛永二十年二月十三日忠利公の菩提寺が完成した。十八年三月十七日、56歳で亡くなった。天草島原の乱に大將格で出陣し多くの家士の死傷者を出したが、長い戦いの結末を迎えた。これらの苦労がかれの生命を縮めた。十三日から十七日まで取越し法要が行われた。この法要に殉死者阿部弥一右衛門の者遺児権兵衛が、自らの髻を切るという不祥事を起こし誅伐された。遺族である一族が屋敷に籠り抵抗の構を見せたため、藩は討手を派遣して一族郎党ともに討ち果した。これらの事は森鴎外の「阿部一族」に詳しいが、史実にてらすと大いなる錯誤がある。

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