津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■寛永十六年二月五日のこと

2025-02-05 07:06:32 | 歴史

 寛永十六年二月五日、三斎は隠居領である八代城に於いて、当主の座を五男の立孝に譲る為の規式を行った。
この規式には宗家の関係者は出席していない。まさに八代の身内のみで行われている。
細川忠利は父三歳より先に寛永十八年に死去しているが、三斎のこの想いには一応の了解の意を示している。
しかし、継嗣・光尚の想いは異なり、三斎死後の扱いは厳しいものがあった。
立孝の嫡子・行孝は、宇土の地をもって3万石で立藩を余儀なくされ、薩摩と対峙する八代城は筆頭家老・松井興長の治めるところとなった。
八代の歴史の節目の日である。

   寛永十六年二月五日、三齋君御隠居之御家督を立孝主江御譲被成候
   予ての御名依存ニ御存生之内御譲置せらるへきとて、吉日を被撰、今日八代本丸でいの間にて、御父子様御着座、
   一番に朽葉之御指物佐方与左衛門持出、是ハ大坂之役に御差被成、弐番ニ御旄を志方半兵衛持出候、是ハ信長公よ
                               村上景則
   り御拝領度々無越度目出度とて御譲、御樽肴・熨斗・銀五百枚長岡河内披露仕候、此御座敷にて御囃子被仰付御家
                                  忠隆
   中御侍不残御酒被下、御肴之熨斗を頂戴、扨御旄被遣候時之御意ニ、休無ニ遣しても不苦ものなれ共牢人にて不入
   もの也、越中ハ大名也、其方ニ譲ると被仰候

コメント
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