この沢村家は沢村大学吉重の妹聟・九兵衛(天草島原の乱戦死)の嫡子・八郎右衛門友秋を初代としている。沢村家の嫡流を継いだ宇右衛門友好(松井仁平次定高嫡子=松井康之甥)が1,000石を分知した。二代目から700石となったが明治に至る迄この家禄を維持した。
この権兵衛は5代目八郎助であり、明和八年家督 鉄炮頭等を勤め文化四年二月致仕したとある。
この沢村家は沢村大学吉重の妹聟・九兵衛(天草島原の乱戦死)の嫡子・八郎右衛門友秋を初代としている。沢村家の嫡流を継いだ宇右衛門友好(松井仁平次定高嫡子=松井康之甥)が1,000石を分知した。二代目から700石となったが明治に至る迄この家禄を維持した。
この権兵衛は5代目八郎助であり、明和八年家督 鉄炮頭等を勤め文化四年二月致仕したとある。
連日の暑さで少々疲れ気味、早々とシャワーもしたし、今日は早寝をしようかと思ったらぐらりと来た・・・
3くらいかなと思ったら案の定である。暑くて地下のナマズも耐え切れなかったか。
昨日は立秋、まったくらしくもない昨日今日だが、明日は待望の雨が予想されている。
台風は熊本市内にはまったく雨をもたらさなかったから、10㎜くらいは降ってくれないかなーと思うのだが。
一、淀川筋ハ津山・高松
之料て船関を懸 落武者
一々斬獲弾殺いたし
申候故此網を洩候者ハ稀ニ
可有之 山崎越之方御固も
御座候由之処小藩無勢
なとニ而見遁し多有之
たるととの風評
一、大坂長之屋敷ハ廿ニ日
比歟立退候様被仰渡自然
異議ニおよひと候て此方様
御蔵屋敷之御人数ニて打取
(続く)
歯の治療四回目にしてようやく左上の奥歯を抜歯した。これで歯の痛みとはお別れである。
「お酒と長風呂と強いうがいは駄目ですよ」「二時間ほどは食事も避けてください」と言われたが、朝食のトースト半枚で空腹気味の腹がなっている。昼飯抜きで夕方まで我慢することにしよう。
奥方も半年かけて歯の治療を終え、私も続いたということもあって奥方が不思議な歯ブラシを購入した。
注文前に一応了解を求めてきたが、奥方の心は決まっているから反対するわけにも参らぬ。
柄の長い羽山の小さなブラシだが、羽山の中央が山のように尖がった不思議な形をしている。歯間ブラシ不要の歯ブラシだといううたい文句、使い始めて3日目だが、まだ慣れないもののなかなか都合が良い。歯垢が残らないようによく工夫されている。
これで歯の治療は生涯最後としたいものだと願っている。
1年前の今日、壊れたアパートに罹災証明発行のための調査が入った。地震発生から74日目である。
コンクリート壁に外が見えるような大きな亀裂が走り、サッシュの開閉がままならず、水・ガスが使えないという状態であった。
「大規模半壊」の罹災証明が出たのは、7月22日のことである。4階建32戸の入居者はちりじりとなりもう会う機会もないだろう。
「大規模半壊」以上の被災者は「医療費無料」になるというので、おそまきながら昨日は歯の治療を受ける前に役所まで出かけ「証明書」をもらってきた。
おかげで今日の歯の治療代は無料である。ついでに整形外科にも行ったらと奥方は言うけど、私の膝は到底治るとは思えない。
この特典も9月末まで、歯を直したらお終いだ。
先にお預かりしたO家の文書の中に、思いがけないものがあった。
O家の跡継ぎの方が初お目見えの際、鳥目三拾疋を支払った受け取りである。
びっくりした事の一つは御目見えにお金を納めなければならない事、もう一つはそれを受け取った音信所の役人が私の先祖だったことである。
印(眞)が押されてあり、音信所に勤めたという我が家の言い伝えとも符合した。
覚
初而
御目見之節被差上候
一鳥目三拾疋
右受取申候以上
巳五月二十八日 御音信所 印
□□□□□殿
さて鳥目三拾疋とはいくらぐらいであろうか? 30疋=300文 1文は10円~12円といいますから、3,000~3,600円といったところでしょうか。
正徳四年五月廿ニ日の事だそうだが、この重大事について熊本藩年表稿には記載されていない。
以前から随分気になっていたのだが、今日図書館に出かけた際「盤桓随筆・十」から該当項を発見した。
千石取三人を含め高名なる人たちがなぜまとめて「御暇」となったのか、この項でも定かではない。
真実に迫るには中々難儀である。
千石 竹内吉兵衛 千石 田邊平助
三百石 西沢文右衛門 三百石 臼杵杢之助
千石 国友源兒右衛門 百石 藤掛梶右衛門
三百石 芦田友之允 八百五十石 竹内七郎右衛門
弐百石 江村左七郎 百六拾石余 脇坂伊左衛門
右者正徳四年五月廿ニ日御暇右之内西沢文右衛門伜
西沢文太郎儀ニ享保三年二月七日五人扶持被為
拝領竹内七郎右衛門跡ハ右同日三人扶持被為脇
坂伊左衛門嫡子脇坂関右衛門儀者享保十年四月十一日
高瀬三蔵物書被召出候也
本行之通大勢一同之御暇如何之訳ニ而候哉永央安田市助ニ
咄之席ニ聞合申候処名前相分申候ハヽ書付見せ候様被申
候付■候処付紙ニて被申越■左之通
此面々御奉行所御暇帳に記有之候
思召ニ不為叶なとし有之候ヘハ事柄被分兼申候
西沢跡者御切米取之家来有之代々相續ニ而正月十一日
御鏡餅頂戴仕候
書き込み中
「差扣」は三日が3人、五日が6人、十日が1人、自ら申し出て差扣た人が2人である。順次「右之節即日ゟ親類縁者差扣之衆左之通」から、その人々を追ってみよう。
三日差扣 長岡伊豆殿 従弟 三渕伊織助殿 小舅 木村半兵衛 実小舅
・長岡伊豆とは細川内膳家6代の忠名(忠昌)で、その妻が小笠原長知女である。6,000石。左兵衛(氏常)の実妹である。従弟と書き込みがあるのは
左兵衛の実父・小笠原長知の妻が細川内膳家5代・忠雄の妹・サンであることによると思われる。
・三渕伊織助は三渕家の7代澄鮮(養子・分部若狭守光臣二男)だが、義姉・伊与が田中左兵衛氏之室となっているのだが、この人物が良くわからない。
・木村半兵衛は木村家4代・豊暉(養子・同氏豊行嫡男)、左兵衛との関係はよくわからない。先代豊章は細川新田藩2代・采女正利昌の二男である。
五日差扣 大木舎人 従弟 平太左衛門殿嫡子・丈八 聟 溝口三伍 実小舅 坂口一角 従弟 奥村安大夫 落合勘兵衛 聟
・大木舎人は大木家6代・兼暉、養子であり大木半平(4代・豊暉)の二男である。5,000石、留守居大頭・大目附・備頭。
・堀丈八は堀平太左衛門の嫡子・5代丹右衛門勝文である。聟とあるから、室が左兵衛女ということか。番頭・大目附・中老・家老。
・溝口三伍は溝口家4代で養子の長義(小笠原多宮三男)である。田中家との関係は史料不足で判らない。用人・家老・大目附。
・坂崎一角は坂崎家6代成晶、こちらも史料不足で従弟とする関係が判らない。3,600石番頭。
・奥村安大夫は奥村家5代で1,200石、中小姓頭・留守居番頭・番頭を勤めた。関係不明。
・落合勘兵衛は900石、中小姓頭・小姓頭を勤めた。堀丈八同様、室が左兵衛女ということか。
十日差扣 小笠(原・脱ヵ)備前 実兄
・実の兄であるがゆえに十日という差扣となった。ガラシャ夫人に殉死した小笠原少斎の五代の孫・小笠原備前家6代長知衛である。
室は細川宗孝妹・津与姫(敬子)であり、縁者という意味からすると細川宗家にも及んだ。家老職・備頭。
「自分ゟ差扣」た人物が二人ある。長岡商隠老 伯父 長岡桂老 叔父
・長岡商隠老とは細川内膳家5代の忠英である。あの初代時習館惣教を勤めた人である。この事件の二年後明和九年五月十七日74歳で死去した。
・長岡桂老という人物が良くわからないのだが、叔父ということからすると、商隠老の実弟で2,000石、家老職を勤めた季規であろうと思われる。
誠審院桂山日瑶の法名からも推察される。
両人の妹(姉)サンが小笠原備前長知の妻であり左兵衛の母であることから、まさに伯父・叔父にあたる。
商隠老(5代忠英)の嫡男・6代忠名室は小笠原長知女、また娘のは小笠原家7代佐織に嫁いでいる。ガラシャ夫人の血を引く内膳家と、介錯殉死した小笠原少斎の子孫は時を隔てて、強い血のつながりを持っている。
田中左兵衛の行動はこれら親族関係者にとってはまさに青天の霹靂であったろう。2,000石減知も納得がいくところである。
略系図を作ろうと思っているが、線がからみあって往生している。そのうちにご披露したい。
明治三年に熊本において成立した実学党政権は、経費削減を謳い熊本城の破却を検索した。竹崎茶堂や徳富一敬の策だといわれる。
一方藩知事となった細川護久は、政府からにらまれていることに対し上記献策を受け入れ、政治的判断として「熊本城廃隳」の願いを政府に提出した。
臣護久謹按スルニ、兵制一変、火器長ヲ専ニセシヨリ、昔時之金城湯地今巳ニ無用之贅物
ニ属セリ。如之今日各地ノ城郭アリハ、応仁以来強属割拠、織田氏安土ノ築キアルニ始リ、
諸豪相倣イ務テ塁壁ヲ高スルニ由ル。即戦国ノ余物也。今也王化洪流三治一治ノ際、乱世ノ
遺址猶方隅ニ棊峙スルハ四海一家ノ宏謨ニ障礙アルニ近シ。熊本城ハ加藤清正ノ築ク所、宏
壮西陲ノ雄ト称ス。臣カ家祖以来倚テ以テ藩屏アリ。豈甘棠ノ念無ラン哉。然リト云トモ維
新ノ秋ニ膺リ、建国ノ形跡ヲ存シ却テ管内固陋ノ民俗ヲ養ヒ、以テ辺土ノ旧習ヲ一洗ス可ラ
ス。願クハ天下ノ大体ニ依テ熊本城ヲ廃隳シ、以テ臣民一心ノ微ヲ致シ且以テ無用ヲ省キ実
備ヲ尽サン。伏乞速ニ明断ヲ垂レヨ。護久誠惶頓首敬白。
明治三年
庚午九月五日 熊本藩知事
辨官
御中
御付札
聞届候事
しかしながら熊本城は破却を免れている。ある識者はこの願出はある種のパフォーマンスであるとされる。
先にご紹介した ■高麗門護札ノ事 で触れた、高麗門をはじめとする各門の破却を以て、その誠意を見せたのであろう。
熊本における実学党新政権はまことにあっけなく短命に終わった。この政権が長く続いていれば、熊本城の運命も違った形になったかもしれない。
熊本県史料集成・10「肥後藩の農民生活」の「第四節・ききんどし」には以下のことが記されている。
1、1732年のききん (記録書抜‥熊本女子大学蔵から)
2、1739年のききん (記録書抜‥熊本女子大学蔵から)
3、1755年のききん (細川越中守重賢公傳から)
4、1769年のききん (記録書抜‥熊本女子大学蔵から)
5、1783年のききん (西遊雑記から)
6、ききんの慢性化 (出仲間村庄屋年々覚帳‥熊本女子大学蔵から)
7、夥しい物貰い (記録書抜‥熊本女子大学蔵から)
8、すべて物貰いに (仁助咄から)
9、物貰い札 (記録書抜‥熊本女子大学蔵から)
次回から随時ご紹介する。
読めれば楽しい! 古文書入門 利休・歌麿・芭蕉の〝くずし字〟を読む (潮新書) | |
潮出版社 |
東京富士美術館の作品協力により、、古代から近世までの様々な美術品に添えられているくずし字を味わう。
本邦初の「古文書解読検定」に役立つ一冊!喜多川歌麿の浮世絵や利休、芭蕉、藤原定家、伊達政宗等の直筆が満載。超貴重な一級品を楽しみながら、くずし字の謎に迫る!
古川古松軒が熊本を訪れたのは天明三年のことである。その旅路の詳細は紀行文「西遊雑記」に著され知られる。
薩摩から水俣に入り北上、熊本の城下に入り、阿蘇へ向かっている。
その阿蘇で見た光景に対し「仁政はない」として、「かく記し置は高貴(細川重賢・堀平太左衛門など)を誹謗恐レ有りといへとも実事を聞て記せさるもまた諭ふに似たれは僅にしるすならし」と飢餓の状況に言及している。
「宝暦の改革」を成し遂げ名君とうたわれた重賢公だが、晩節を汚す痛恨事であった。
阿蘇一郡にて今二万八千石の地といへとも東西凡十里余廣大なりといへとも山はかりにて原野も数多ニて
笹倉なとゝいふ原はむかしの武さしのの原と称せしはかゝる原ならんと思ふはかりの廣/\とせし所也
土人の物語には開田せは阿蘇郡にて十余万石も出来すへき平地有る所なから人のなき故に古田も年/\に
あれ果るといひき 近年うち続き凶年にて餓死せしもの数多有りしといふ いかにも實事と見へ住捨し明家
も爰かしこに有りし也 他国の評はんには當国の守は賢君にて経済役堀平太左衛門といへる良臣のやふに聞
侍りしに阿蘇郡のもやう民家数人飢餓し死におよふまても救ひ給はざりしにいかゞの事にや虚説もあらん
かと委しく尋聞しに熊本へ出て乞食せんとて老たるもおさなきもうちつれ出しミち/\にても■路に倒れふ
して死せしものも有りしに違ひなき実事也 予茂爰におゐて疑惑しに仁政はなかりしものと思ひき卑賤の
身をしてかく記し置は高貴を誹謗恐レ有りといへとも実事を聞て記せさるもまた諭ふに似たれは僅にしる
すならし 此辺は幾里行ても華咲草木もなく土色は黒く水のなかれも濁水にて清からす谷/\におゐて菖蒲
の花を見しはかりにて日本のうちにもかゝる下々風土も有るものかなと驚し所なりし