私事でいささか気が引けるが、私の曽祖父の岳父である。
元治元年(1864)七月から慶応元年(1865)十一月まで、家禄二百石の久兵衛は
役料五百石の支給を受け、異例の抜擢を受け京都留守居役になった。そして京都
の町中を走り回り「公武の融和」に努力した。彼は公私にわたっての日記をつけ、
かつ手紙を残している。「幕末京都の政局と朝廷-肥後藩京都留守居役の書状・日
記から」に詳しい。薩摩の西郷隆盛は久兵衛免職の報を得ると、最も喜び書状に
残している。帰郷した久兵衛は、川尻町奉行などを歴任した。
明治十年鹿児島に下野していた西郷は政府に対し「尋ねたき儀あり」として徒党
を組み東上を試みる。その道筋にあたる川尻の町民は旧奉行久兵衛に相談する。
久兵衛は中立を標榜して千七、八百の士族を集め、鎮撫隊を組織し秩序の維持に
奔走した。そんな中不幸な事件がおき後久兵衛は罪を得て刑死する。
その妻は重職沼田勘解由の女ヨネであり、長女晩稲が私の曾祖母である。
人には時の流れに抗うことの出来ない運命がある。
久兵衛はそんな運命の人であったと考える。久兵衛が妻を思い、残した辞世の句
にある萩の花が、風にゆれる季節になった。
「秋風のたよりに聞けば古里の 萩がはなつま今さかりなり」
掲示板で議論されている中院家。通村や長岡孝似の生母について、京都大学
が所蔵する中院家系図にははっきりと「母兵部大輔藤孝入道幽斎女・実一色左
京大夫義次女幽斎孫」と書かれている。
「一色義有と幽斎女・伊与の女を幽斎の養女として中院道村に嫁がせたのでは」
と西京子啓氏は推理する。もっともだと思うのだけれど義有=義次が証明され
ない。細川家資料にも幽斎養女の話は出てこない・・・・
一色という家が良く分からないし、この証明は果たして出来るのだろうか?
が所蔵する中院家系図にははっきりと「母兵部大輔藤孝入道幽斎女・実一色左
京大夫義次女幽斎孫」と書かれている。
「一色義有と幽斎女・伊与の女を幽斎の養女として中院道村に嫁がせたのでは」
と西京子啓氏は推理する。もっともだと思うのだけれど義有=義次が証明され
ない。細川家資料にも幽斎養女の話は出てこない・・・・
一色という家が良く分からないし、この証明は果たして出来るのだろうか?