津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

メタボな宣紀は・・

2009-06-21 15:40:59 | 歴史
 「杖をついてメタボ」といえば極めつけの人が居る。宣紀(ノリノブ)である。

宣紀は延宝四年(1676)十一月廿日、新田藩細川家江戸藩邸にて藩主利重(綱利の弟)の次男(利武)として生れる 。
       32歳  宝永五年(1708)綱利養嗣子となる
       33歳  宝永六年(1709)従四位下侍従に叙任・主税頭
       36歳  正徳二年(1712)家督相続 越中守と改称
       57歳  享保十七年(1732)六月廿六日江戸にて卒す

その宣紀40歳の時 (享保元年・1716)、参勤登城に際し肥満の為歩行不自由であった為、江戸城内にての杖の使用を願い出ている。なんともいただけない話ではある。
不思議な事に宣紀には正室と言われる人がない。これがよく理解できない。
処が代々の藩主のうちでは一番の子沢山である。八男・十三女・・・・・・・・・・・?
        
           *小野田太郎左衛門女 與幾(ヨノ)
              男子・竹之助(夭折・三歳)・・長男
                  萬次郎(夭折・一歳)・・三男
              女子・亀(夭折・六歳)・・二女
                  名世(夭折・五歳)・・三女
           *鳥井氏女 際
              男子・八三郎(夭折・六歳)・・二男
                  宗孝(七代)・・四男
                  龍五郎(家老・木村半平戸豊持養子・夭折三歳)・・八男
              女子・蔵(夭折・六歳)・・長女
                  富(夭折・三歳)・・五女
                  喜和(宗対馬守義如室)・・八女
                  千代(安藤対馬守信尹室)・・九女
           *姓氏不詳
              女子・村(夭折・三歳)・・四女
           *安野氏女 民
              男子・興彭(長岡図書興行・養子)・・七男
              女子・勝(夭折・三歳)・・六女
                  花(松平讃岐守頼恭室)・・七女
                  衛世、悦(長岡助右衛門是福室)・・十一女
                  津與(小笠原備前長軌室)・・十三女
           *岩瀬氏女 利加
              男子・重賢(八代)・・五男
              女子・豊、常、岑(織田山城守信舊室)・・十女
                  幾、常、成、軌(細川大和守興里室)・・十二女
           *友成氏女 佐衛
              男子・紀休(65歳)・・六男
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杖を買うか・・・

2009-06-21 10:30:23 | 徒然
 GW前に転倒して痛めた左膝の病状が固定してしまった。相変わらず痛みが取れないし、杖が欲しいとさえ思うときがある。妻は薬を飲め、リハビリしろとうるさいが、完治するとは思えない。最近は足首が痛み出した。膝をかばう歩き方がまずかったのだろう。昨日の県立美術館での講演会で、講師熊本大学の吉村教授は冒頭、「今日は自転車で来ました。棒庵坂を登ってきました」とおっしゃって、まずは笑いを取られた。棒庵坂の傾斜の物凄さを知っている皆さんの驚嘆と敬意の笑いである。スリムな体型が教授のそんなフランクな日常を物語っている。私も随分自転車で走り回ったが、転倒事件以来車で出かけることが多くなり、すっかりメタボに逆戻りしてしまった。「散歩でもしなさいよ」と妻が言う。(本人もメタボなのだが) その気が無い訳ではないが、絶え間ない鈍痛と時折来るぎくっとくる痛みを思うと中々一歩踏み出せない。本気で「杖を買うか・・」と考え始めた。

「杖をついたメタボな爺さん」・・・さまにならんなー。
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昨日の講演会

2009-06-21 08:17:50 | 歴史
 熊本県立美術館で、【熊本大学教授・吉村豊雄教授 の講演「藩主の座60年、講座 細川コレクション2 細川綱利の時代」】を拝聴する。5頁のレジュメの中に始めて知る事実があった。綱利に「押し込めの危機」があったというのだ。宝永4年(1706)の頃だとされるから藩主になってから57年を経過し、長期政権に対するほころびが生じ始めている。二人の男子を失った綱利は、「夜中細川」と揶揄されながら側用人・柳沢吉保に接近し、その三男を養子にしようと企てている。吉保は承知したというのだが、細川家と大変親しかった老中稲葉正往に非難されこの話は頓挫した。弟・利重の次男利武(宣紀)を養子としたのはその直後のことであろう。(この話を聞きたかったが・・触れられず残念)。幼くして父親を亡くした綱利は、生母清高院とともに自由奔放な生活をつづける。細川家生え抜きの最後の重臣とも云うべき松井興長は痛烈な諫言を行っているが、綱利の初入国の年に亡くなった。綱利の取り巻きによる治世が展開していく。

  綱利の継嗣問題については過去にもいろいろ書いた。
   ■ 細川家家臣・薮田氏 2008年04月05日
   ■ 夜中越中      2008年04月19日
   ■ 綱利の跡継ぎ事情  2008年04月28日
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